第6話 魔男裁判

もはや言うまでもなく、今日も放課後の教室で、

寝起きのような顔をした近藤修一は、高橋省吾を相手に、

かけがえの無い中学校生活のひと欠片を、

ミキサーにかけて粉砕していた。

半ば崩れるように椅子に腰かけた高橋は、

海藻のように垂らした前髪を、チャラチャラといじっている。

修一は困惑しきった表情で、それを見守っていた。


「やっぱり流石ですよ。修一先生は」


甲高い声で修一に送られる賛辞は、負のオーラに満ちていた。

高橋は、ボタンを全て外した学ランをマントのように肩に羽織り、

カッターシャツを左のすそだけズボンからはみ出させていて、

一分の隙も無くだらしない。

修一は高橋の凋落ぶりに戸惑うばかりだった。


「高橋……」

「へっ、へっ、へっ」


肺に病を患った犬のような笑い方をして、

高橋はコカコーラをあおった。

机の上には空と未開封の赤い缶が一応分別されて、綺麗に並んでいる。


「やっぱ分かんねえんだろうなあ。

 下々のやつらの悩みなんか、ご立派な修一先生にはよお」

「もうその辺にしときなよ」

「うるせえ! これが飲まずにいられるか!」


高橋が四本目のコーラに手を伸ばしたので、

すかさず修一はそれを取り上げた。


「これ以上は、体によくないよ」

「はあ、ご立派ご立派。

 大先生はこんな虫けらの体の事まで

 気遣って下さる。ご立派!」


高橋は修一の手から缶をもぎ取ると、プルトップを開け、

ごくごくと飲み干して甘い香りのゲップを吐いた。

残っていた数人の女子が、心底嫌そうな顔をした。


「どうしちゃったのさ。今日は一日、機嫌よかったのに」


今や見る影もないが、確かに高橋は朝からやけに浮かれた様子で、

随時に奇妙な行動が見受けられた。

いくつか羅列すると


・休み時間のたびにトイレに出かけては、前髪の形を変えて戻ってくる。


・やたら修一と肩を組んでは、

 「俺が大人の階段を上っても修一とは親友だからな」と

 わけの分からない言動を繰り返す。


・何もない空間を時折見上げては、

 一人でにやけたり身をくねらせたりする。


等々、症例に事欠かない。

いい加減目に余った修一が尋ねてみると、

高橋は人目をはばかる仕草で、一枚の封筒を取り出して見せた。


「こいつがさあ、下駄箱に入ってたのさあ。何だかわかるか修一」

「督促状?」

「そう! ついに俺も、安易なリボ払いのおかげでブラックリスト入りって

 違うよバカ。ラブレターだよら・ぶ・れ・た・あ」


高橋がふるふると封筒を振る。

修一の目も、それを追うように揺れる。


「すごい。僕、ラブレターって初めて見た」

「俺もだ。これは額縁に入れて、

 今後高橋家の神棚に飾る予定だ」

「神々しいね。誰から? なんて書いてあるの?」

「野暮はよせよ修一。いたいけな女子が勇気を出して、書いた手紙だ。

 親友のお前が相手だとしても、それは明かせないぜ」

「高橋は筋の通った男だなあ」


修一は自分の事のように高橋の幸福を喜び、

ホームルームを終えて颯爽と校舎裏に出陣する彼の背中を見送った。

だがしばらくして帰ってきたのは、コーラに溺れる飲んだくれだった。


「高橋、それ以上は尿に糖が混ざっちゃうよ」

「うるせえうるせえ」


机に突っ伏す高橋の肩に修一は手を乗せるが、すげなく払われた。

その勢いでコーラの空き缶が散乱し、一枚の紙がひらりと床に落ちる。

修一は何気なくそれを拾って、何気なく書かれた字面を読んだ。


【高橋省吾 君

 放課後、校舎裏にて待つ】


本文はそれだけだった。

事務的で、ラブどころかライクの情すら読み取れない。

それどころか見ようによっては、果たし状でも成立する。

修一は驚愕して、おそるおそる高橋に聞いた。


「あの、高橋。もしかしてラブレターって、これなの?」

「ええ? ラブレター? なんだよ、ラブレターって

 そんなのありましたっけ、ええ?」

「いや、多分最初から無かったと思うよ。ラブレター」


何故これを読んで高橋がハッピーな未来に捕らわれたのか。

修一は理解に苦しんだが、手紙の右端に小さく書かれた差出人の名前を見て

なんとなく合点がいった。


【志倉澄子】


素敵だ美人だ可愛くて知的だと、

以前から高橋がアイドル視していた三年生だった。

高橋は何の因果かその高嶺の花に呼び出され、

天高く舞い上がってしまったらしかった。

ちなみに修一は、一度も口をきいたことは無いが

個人的な理由でこの先輩が苦手だった。


「高橋。志倉先輩に、校舎裏で何言われたの?」

「はあ? 聞きたいですか、近藤先生。モテ男の近藤大せんせ」

「ねえ、ちょっと」


高橋の巻こうとするクダを、

いつの間にか隣に立っていたクラス一、美白の山田が遮った。

修一と高橋は何かを察して、勢いよく同時に窓から校門を見下ろしたが

そこには平常どおり、楽しげに下校する生徒の姿しかなかった。

ほっと安堵する修一に、言いにくそうに山田が教室の入り口を指さした。


「近藤君に、お客さん、ですって」


それは、どう見ても招かれざる客だった。

目の部分にだけ穴の開いた、黒い三角形の布袋を被る怪しげな三人組が、

廊下から教室の中を覗き込んでいる。

残っているクラス中の生徒がざわめいた。


「オカルト部だ!」

「オカルト部だわ!」


顔は隠れているが、その制服から二人が女子で

一人が男子であることは判別できる。

だが、隠蔽された風貌から性別以上の情報を得ることはできない。

そしてそれだけが、この中学校の生徒が知る、オカルト部の全てだった。

中の人の氏名、年齢、生年月日、好きな食べ物、全てが謎に包まれている。

彼らは怪しすぎるが特に実害がないので、

教師達からも放置されている闇の非公認団体だった。

真ん中のおそらく女子が、修一に向けてゆっくりと手招きをした。


「見ろよ! オカルト部の連中、近藤をご指名だぜ!」

「きっと生贄に使うのよ! 逃げて近藤君!」

「サバトだ! 近藤の血を持ってサバトが始まるんだ!」


教室は興奮のるつぼと化していた。

娯楽と刺激に飢えた中学生には、格好のイベントだった。

山田は落ちている空き缶を拾い集めながら、修一に訊いた。


「近藤君、何しでかしたの?」

「なんでお前、あんなのに目つけられてんだよ」


高橋もすっかりコーラ酔いがさめた様子で、

修一のことを心配している。


「いや、身に覚えはないんだけど、取り敢えず行ってくるね」


「高橋はもうそれ以上コーラ飲んじゃだめだよ。体を大事にね」

と言い残して、修一は大人しく三つの黒い影に囲まれ、

連れ去られていった。







暗幕で窓を覆われた漆黒の空き教室、

修一はぽつねんと真中に置かれた椅子に座らされていた。

暗闇の中、オカルト部の三人はそれぞれアルコールランプを手に持ち、

無言で立っている。

話がすすまないので、修一が口火を切った。


「あの、なんでこの部屋こんなに暗いんですか」

「人は闇を恐れるあまり光を求める。無理もない事でしょう」


真ん中の三角頭巾(女子)がそう言うと、

右に立つ三角頭巾(女子)が気を利かせて修一の顔の近くに火を寄せた。


「熱い! 危ない! 熱い!」


火と顔の距離が近すぎて、修一が悲鳴を上げた。

真ん中が、「J、程よく調節しなさい」と命令すると、

ジェイと呼ばれた女生徒は、ランプを少し修一の顔から遠ざけた。


「Jが失礼をしました、これでどうですか。近藤修一君」

「そうじゃなくて、電気つけませんか。志倉先輩」

「!」


頭巾の中で、三人が息をのむのが分かった。

特に身をのけぞらせた真ん中は、

闇の中でほの白く照らし出された修一の顔を

暫く絶句して見下ろしていたが、やがて大きく頷いた。


「やはり、君は油断ならない人物のようですね。近藤修一君」


真ん中は慎重にアルコールランプに蓋をして、教卓に置くと

あっけなく頭巾を脱いだ。

同時に男子頭巾が、教室の入り口にあるスイッチを押した。

二度三度、光明が瞬き、

冷たくも見える理知的な目つきをした女生徒の顔が、

蛍光灯の下に曝される。

長らく被っていた布袋のせいでショートボブの黒髪が乱れ、

一筋頬に張り付いている。


「近藤修一君。ようこそ、オカルト研究部へ」


それを自ら指でつまみ剥がすのは、

今回高橋が落ちぶれた原因になったであろう、志倉澄子その人だった。


「君をこの部屋にご招待したのは、他でもありません。

 近藤君。……近藤修一君?」

「あ、はい、ちゃんと聞いてます」


口では丁寧に応じながら、修一の首は完全にそっぽを向いていた。

志倉は一つ咳払いをして、さりげなく修一の視界の中に回りこむ。

すると修一は、その逆の方に顔を逸らした。

志倉がため息を吐いた。


「君の怒りももっともです。

 あのような形で連行してしまったことを謝罪します」


志倉の両脇に黒頭巾たちが並び、三人揃って頭を下げた。

その所作は厳かだが、三人のうち二人が覆面姿なので、

まるで炎上したユーチューバーだった。

修一はそちらを直視せずに、慌てて手を振った。


「あ、違うんです。

 怒ってないし、別に無理やり連れて来られたとも思ってませんから。

 気にせず話を続けてください」

「ですが……」

「ええと、……あ、そうだ。

 実は僕、病的な人見知りで、

 慣れない人と目を合わせると口が利けなくなるんです」

「そうでしたか。それは失礼をしました。

 人には様々な事情があるものです」


志倉はうんうんと頷くと、ではこれを御覧なさい。と、

黒板に手のひらをかざした。

修一は廊下の方を向いたまま、特に反応しない。

暫しの思案の後、ああ、と察して三人が窓際へスライドすると、

修一も同じスピードで顔を正面に向けた。

黒板には大きく『魔女裁判』と書かれていた。

修一が眉をひそめた。


「魔女ってもしかして僕の事ですか?」


志倉は頷いたが、

見てもらえないので「そうです」とわざわざ口に出した。


「君には魔女の疑いがあります。

 オカルト研究部としては、捨て置けません」

「でも魔女って。僕、男ですよ」

「言われて見ればそうですね。K」


ケイと呼ばれた男頭巾は、一つ頷くと

黒板の『女』の部分を『男』に書き換えた。


「まおとこさいばん」


修一は声に出して読んでから、悲しそうな顔をした。


「何か僕、不倫相手からクローゼットに隠されそうですね」

「形式的なものです。我慢してください」


志倉はどこぞから牛革の手帳を取り出すと、

パラパラとそれをめくりだした。


「我々独自の調査によると、

 君が使い魔を従えて登下校している姿が

 数多くの人間に目撃されています」

「使い魔ってもしかして、黒猫のことですか?」

「そうです。あと、虎殺しのビーストも」


かすみのことを言っているらしかった。

ビーストなどと失敬な表現に、修一が少し気色ばんだ。


「そっちは一応普通の人間です。

 誰ですか、そんな失礼な事言ったの」

「情報源を明かすことは出来ません。

 それは君の平穏な学校生活のためでもあります」

「つまり僕の知り合いなんですね」

「黙秘します」


志倉は明言を避けたが、

修一の頭の中でようやくパズルのピースが一つはまった。

ソースは高橋だ。

おそらく高橋は、校舎裏で思い人から、

修一の事を根掘り葉掘り聞かれて、

何かよからぬ勘違いをしたに違いなかった。

かつてない修一に対するあの当たりの強さにも、納得がいく。

まるで事故に巻き込まれたような話だが、修一は頭を切り替えた。


「あと、黒猫ですけど。

 僕は別に飼ってるわけじゃないし、

 それにもう何処か余所に行っちゃいましたよ」

「それは嘘ですね」


志倉は断言した。


「実は先日、JとKに君の事を尾行してもらいました」

「そんな、酷い」


さらっと恐ろしいことを言われて、修一は傷ついた。


「君は、先週の火曜日の放課後、

 商店街の入口にあるコンビニエンスストアで

 ツナ缶を一つだけ購入しましたね」

「ええ、まあ」

「使い魔に捧げるためではないのですか」

「あの猫にあげるために買ったのは事実ですけど、

 でも本当に随分と姿を見てないんです。

 ツナ缶は昨日の夜、サラダにして姉に与えました」


修一は助けて貰ったお礼に、今度あの黒猫が現れたら

金のツナを振舞うつもりで買ったのである。

しかし、それから約一週間が過ぎた今もなお、

再会は果たされていない。

ちなみに金のツナは高いやつなので、

小百合には大変美味であると好評だった。


「実は君を尾行して二日目。

 JとKは、あの黒猫に遭遇したのです」

「え、本当ですか」


修一は思わず志倉の方に顔を向けかけて、慌てて元に戻した。


「君の使い魔は任務を遂行する二人の前に、

 立ち塞がったそうです」


修一が横目で見ると、

何か恐ろしいことを思い出したのかJとKの頭巾の先っぽが

スライムのようにぷるぷると震えている。

飼っているわけではないので管理義務はない筈だが、

修一はさすがに心配になった。


「あの、もしかして、お二人に何か危害を……」

「黒猫はただJとKの進路上に、黙って座っていただけです。

 先ほどは立ち塞がったと言いましたが、

 座り塞がっていたわけです」


その辺のニュアンスは別にどうでもよかったが、

修一はそれを聞いて訝しんだ。


「……それ、本当にあの猫だったんですか? 

 たまたまその辺の黒猫が、道に座ってただけなんじゃ」

「ですが、JとKは動けなくなったのです」

「は?」


修一の視界の隅で、より激しく黒い影がぷるぷると揺れる。


「その黒猫に見据えられた途端、何か大きな力に阻まれるように

 足を踏み出すことが出来なくなったそうです。

 白昼堂々の金縛りです。

 ただただ恐ろしかったと、

 今も二人はこうしてぷるぷると震えています」

「それはお気の毒に……」


この二人はオカルト部むいてないんじゃないかなと、修一は思ったが

気を使って慰藉の言葉を述べるにとどめた。

一応沈痛な面持ちのまま、修一は顎に手を当てて床を見つめた。

人を動けなくする力を持った黒猫などそうそう居るはずが無い。


「確かに、それならあの猫で間違いなさそうですね」


ぼんやりとした修一の呟きを聴いて、志倉が怜悧な瞳をギラつかせた。


「近藤君。語るに落ちましたね」

「あ」


修一は彼女の言葉を聞いて、自分のうかつを悟った。

うっかり、黒猫が普通の猫とは違うことを認め、

しかもそれを知っていると明かしてしまった。


「君は我々の尾行を知り、使い魔に妨害を命じたのでしょう」

「ちがいます、誤解です。本当に僕はあの猫と関係ないんです」

「この期に及んでまだ、自分がまおとこではないと言い張るのですね」

「はい、僕はまおとこではありません」


間抜けな会話に聞こえるが、二人は真剣だった。


「結構です。ならば君がまおとこで無いことを、

 今ここで証明してもらいたいのです」

「その前に、せめてその、まおとこって言うのやめませんか」


修一は人としてのランクが二つほど落ちたような惨めさを感じていた。

形式的な事ですからと言いながら、志倉は手帳をめくった。


「古来より、人はありとあらゆる方法を用いて、

 隣人が魔女であることを暴いてきました」

「ありとあらゆる方法?」

「具体的に言うと、魔女の疑いのある人間を拘束し川に放り込んで

 浮かんでくるか試したり、刃物で刺して痛がるか確かめたりしたのです」


淡々と述べられる惨劇に、修一が震え上がった。

志倉の両脇の黒頭巾も、震えている。


「まさかそれ、僕に試したりしませんよね」

「勿論です。そんなことをされれば苦しいし痛いでしょうから。

 そもそもこれらは、好ましくない人間を魔女にでっちあげ、

 大義名分を持って処刑するための悪しき慣習であったというのが

 真実だとされています」

「だったら……」

「ですが、それはそういう事例もあったという話です。

 我々はオカルト研究部ですから、

 魔女の存在全てを否定するわけではありません。

 この世に怪異があるという大きな前提から出発して、究明に挑むのです」


志倉は手帳をどこぞに仕舞い、修一に向けてヒタヒタと歩き出した。

視界に入らないように気を使って死角を選んでくれているらしいが、

ゴム底の上履きが床からはがれる音が近づく度、修一の不安は爆発的に高まっていく。


「近藤修一君。私は君との対話で確信に近いものを得ました」


ぽんと修一の左肩に手を置いて、

志倉は彼の耳に、ゆっくりと顔を近づけた。


「君はどこか普通の人間とは違うようです」


背後から直接生暖かい息を感じて、修一はひぃと短く悲鳴を上げた。


「ぼ、僕をどうするつもりですか」

「安心してください。

 君を五体満足に保ったまま、

 まおとこであるのか判別する方法を用意してあります」

「ち、近い。顔が近いです先輩」


JとKが、思わず布袋の覗き穴を自ら両手で覆った。

何故か漂うアダルティックな空気の中、まおとこ裁判が始まろうとしていた。






「はっ!」


同時刻。

自分の教室で静かに窓の外を眺めていた高橋が、突如身を震わせた。

少し離れたところで雑談していた女子グループは、

またよくない発作が始まったのかと期待したが、高橋は冷静だった。

眉間に皺をよせ、重く呟く。


「今……今何か、修一が羨ましい目にあっている感じがした……」


オレンジ色に染まる空を、二羽のカラスが飛び去って行く。

その行く末を、高橋は知る由もなかった。





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あの子が家に連れて来られたとき、私はまだ四歳でした。

父がお土産だと見せたケージの中で、

ふくふくと丸いシベリアンハスキーの子供が

私に向かってキャンキャンと、けたたましく吠えていました。

落ち着き無く自分の尾を追うように檻の中で回っては、

際限なくいつまでも吠えていました。

子犬はきっと新しい環境に混乱し、

私たち家族の事を恐れていたのだと思います。

でもそれは、私も同じでした。

まだ子犬とはいえシベリアンハスキーは、

私が絵本やアニメの世界で見るオオカミとそっくりで、

とてもいかつく思えました。

噛むから絶対に外に出さないでと母に泣きつくと、

父が少し残念そうに苦笑いをしていたのを

おぼろげに覚えています。

でもあの子は、

見た目に反してとても人懐っこい性格をしていました。

一週間もたてば、志倉家に適応して、

私にもクンクンと鼻を鳴らして甘えていました。

私も朝、顔を舐めて起こされるのが楽しみで、

毎晩あの子と同じ部屋で寝ていました。

身を寄せてくるあの子の体温を感じながら、

私はいつも安心して眠ることが出来ました。


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校舎一階の暗幕に覆われた角教室。

左肩に、やけに熱を帯びた志倉の掌の温度を感じながら、

修一は自分の足元に長々と横たわるシベリアンハスキーを

目線だけでそおっと見下ろした。

幼子の拳ほどもありそうな巨大な眼球と目が合った。

大きい。

身体を構成する全てのパーツがとにかく大きい。

体長もおそらく三メートルを超えている。

生前のサイズは与り知らないが、

少なくとも現状修一にとって、この犬は怪物だった。

志倉澄子は修一だけに見える世界の中で、

いつもこの巨大な熊のような犬を引き連れて

校内を闊歩していた。

犬とはいえ、シロクマサイズになると迫力がまるで違う。

普通の人間であれば本能の領域で畏怖を感じる。

なので正確に言うと、修一は志倉が苦手なわけではなくて、

志倉が連れ歩くこの巨獣が怖くて仕方なかった。

そんな修一の気も知らず、志倉は淡々と事を進めようとしていた。


「毒をもって毒を制すといいますが、

 やはりオカルトを暴くにはオカルトを用いるしかないのかもしれません。

 科学の理屈で解明できる事象など、

 そもそも非科学的現象ではなかったという事ですから。

 つまり私としてはそういった超常的手段で、

 君の本質を見極めたいと思っています」


志倉が分かるような分からないような事を言っているが、

修一はそれどころではなかった。

一瞬目が合ったことを皮切りに、シベリアンハスキーが

修一の顔中をフンフンと嗅ぎまわしはじめた。

しっとりとしたビリヤード球のような鼻がぐりぐり押し付けられて

修一の首がジャブを受けるようにがくがくと前後に揺れる。

その動きを快い同意と受け取って、志倉は胸を熱くしたが、

修一は白目を剥きかけていた。


「その意気やよし。それでは、J、K、準備をお願いします」


Kが教室の後ろに寄せられていた机と椅子を一脚ずつ運んできて、

ガタガタと修一の前に置いた。

そちらに興味が移ったのか、犬は最後に修一の顔面を

うちわのような舌でひと舐めして、

セッティングされた机の横にお座りした。

見てくれはモンスターだが、性格は極めて穏やからしい。

修一は胸を撫で下ろしてから、

実際はついていない顔の唾液を、なんとなく袖で拭った。

猫が顔を洗うようなしぐさをする修一を後目に、

Jが机の上にA3サイズより少し大きい紙を一枚乗せた。

五十音の平仮名・数字が羅列されていて、

その上部に「はい」「いいえ」、中央に鳥居の記号が書かれている。

修一は初めて実物を見たが、これが何に使われるかくらいは

知っていた。


「こっくりさん?」

「そうです。実は私はこの占いが得意なのです」


志倉が自信ありげに修一の対面に座ろうとして、動きを止めた。

こっくりさんは占いなのか考え込む修一は、

志倉の懸念に少し遅れて気づき、手のひらで椅子を勧めた。


「あ、どうぞ。もう先輩には慣れましたから」


もはや巨大犬と第一次的接触を終え、

差しあたっての安全が確認された以上

志倉を拒む理由は今のところ無かった。

むしろこの犬が志倉に懐いているのだから、

彼女の機嫌を損なわない方がいい。


「そうですか。それは何よりです」


志倉は改めて修一の正面にいそいそと座った。

シベリアンハスキーの太い尾が

嬉しそうにパタンと床をはたいた。




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私はあの子にタロウという名前をつけました。

両親はタロウを庭で飼うつもりだったのですが、

私が可哀想だと嫌がるのと、

タロウが決して家の中で粗相も吠えもしないので、

渋々諦めたようでした。

ただし、朝晩の散歩と屋外でのブラッシング、

定期的なシャンプーは私の仕事になりました。

散歩は両親のどちらかが必ず同伴していましたが、

それでも、おのずと私がタロウと接する時間は誰よりも長くなり、

タロウは私に一番気を許していました。

それこそ家の中では、片時も傍を離れることがありませんでした。

兄弟姉妹の居ない私にとって、

タロウはかけがえの無い存在になっていました。

父は、息子が一人増えたようだとよく笑っていましたが

私は言われるまでもなくそのつもりでした。

そうして新しい家族と共に季節は移り変わり、一年の月日が過ぎ、

私の身長がほんの五cm程伸びる間に、

タロウは柴犬の成犬よりも大きく育っていました。

ある日、タロウに勢いよく飛びつかれて私が転んだので、

彼はそれ以来、上手に力を加減して

私の腕の中に駆け込んでくるようになりました。

とにかく賢くて、そして、とても優しい子でした。


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「それでは、J、K。お疲れ様でした。

 この結果はレポートにまとめて、後日改めて発表します」


JとKが会釈して、袋を頭にかぶったまま教室から出て行った。


「あれ? あのお二人はやらないんですか」

「JとKは怖がって、こっくりさんに参加してくれないのです。

 いつも私一人でおこなっているので、今日は少し胸が躍っています」

「そうなんですか」


修一の疑問は深まる。

本当にあの二人は何故わざわざオカルト部に所属しているのだろう。


「それでは早速始めましょう」

「あ、はい」


修一はあまり乗り気でなかった。

こっくりさんといえば、学校によっては禁止令を出されたほどの

危険な儀式だと聞いたことがある。

良い印象はひとつもない。

志倉は男が使うような渋い茶色の財布から

硬貨を取り出して、紙の上に置いた。


「さあ、近藤君。人差し指を。さあ」


修一のローテンションを知ってか知らずか、

十円玉に指を乗せてグイグイ迫ってくる。

冷静を装う声色に、期待と喜びを隠しきれていない。

脇で見守る犬も尻尾をバタンバタン揺らし、

恐ろしい口を半開きにして、ハッハッと荒く息づき始めた。

とても断れる状況ではなかった。

お腹が痛いと訴えれば、

その場で漏らせと言われそうな気がする。


「わかりました」


修一は銅貨の半分開けられたスペースを

不承不承、指で押さえた。


「ちなみに近藤君。こっくりさんの経験はありますか?」

「いえ、まったく」

「なるほど、和式は使わないのですね」

「トイレみたいな言い方しないでください。

 和でも洋でも、こういう儀式には興味ないんです。

 そもそも、僕はまおとこじゃないんですから」


志倉は顔を二人の指先に向けたまま、目だけで修一を見上げた。


「それをこれから確認するのです。

 では、私に続いて唱えてください。

 こっくりさんこっくりさん――




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タロウが死んだとき、私はまだ七歳でした。


小学校に通うようになった私は、家から一番近い公園までなら、

単独でタロウとの散歩を許されていました。

その日は薄雲に空を覆われた、いつもより暗い夕暮れでした。

公園からの帰り道、あの時に限って私は何故、

普段は通らないその路地を選んでしまったのか、思い出せません。

ほんの気まぐれだったのかもしれません。

それは、高い塀に挟まれた、

車がやっと一台通れるような細い道で、

舗装されていない地面に、ぽつんぽつんと電柱が生えていました。

色彩の薄いその通路を歩いていると、突然タロウが足を止めました。

体を低くして、グルグルと聞いたことの無い唸り声を上げていました。

私は温和なタロウが別の知らない誰かになってしまったように思えて

ショックで呆然としました。

ですが、タロウが牙を剥き出して睨みつけるものを見て、

それどころでは無くなってしまいました。

数十メートル先の電柱の影から、私と同い年ぐらいの男の子が

こちらに顔を半分だけ覗かせていました。

何を言うでもなく、瞬きもせずに自分を見つめるその男の子が、

私は何故だかどうしようもなく恐ろしくて

それ以上前に進むことが出来なくなってしまいました。

彼が体を隠す電柱の根元には、

枯れた花やドロドロに汚れた飛行機のおもちゃが並べてあり、

私はそれが、死者に対する手向けであることを知っていました。

しばらく私たちは見詰め合っていましたが、

何の前触れも無く、男の子は電柱をすり抜けて

スタスタと私たちの方へ歩き始めました。

私は動けませんでした。

例えれば、激怒した大人が早足で近づいてくるときの、

あの逃げ場の無い恐怖の、

その何倍もの絶望を、その少年に対して感じていました。


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「「せーの、

  こっくりさんこっくりさん、どうぞお越しください。

  お越しくださったら『はい』にお進みください」」


それぞれ三度ずつ暗唱して、

最後に、修一と志倉が声を合わせて唱えた。


……。


二人が口を閉ざせば、暗幕で包まれた教室は静寂に満ちる。

暫く待ってから、修一はキョロキョロと周囲を見回した。

差しあたって何の異変も生じない。

志倉は目をつぶり、沈黙を守っている。

時間だけがただ、刻一刻と過ぎていく。

いい加減失敗かと思われたそのとき、満を持して動く者が居た。

シベリアンハスキーだった。

巨大犬は志倉の手首をそっと咥えて、

そろそろと紙面の『はい』に向けて誘導した。

ずるい。

修一は喉まで出かかったが、なんとか堪えた。

志倉が鋭いツリ目をゆっくりと開いた。


「……こっくりさんの召還に成功しました。

 当然私はこの十円玉を動かしていませんし、

 君も同様だと思います」

「いえ、まあ、それはそうなんですけど」


こっくりさんとは、狐・狗・狸等の動物霊を用いた儀式なので、

間違ってはいないのだが、どうしても腑に落ちない。

こっくりさんが身内過ぎる。


「流石ですね、近藤君。

 この怪現象を前にして、まるで動じた様子が見受けられない。

 私はワクワクしてきましたよ」


志倉がカカロットのようなことを言い出した。


「では試しに、軽めの質問をしてみましょう。

 こっくりさんこっくりさん、この人の性別は女性ですか」


犬が志倉の手を『いいえ』へと操るのを、

修一はハイライトが消えた目で眺めていた。

正直もう帰りたかった。




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ウォンとタロウが大声で吠えたとき、

男の子の足が止まりました。

私の体を縛り付けていたこわばりが薄れ、

もしかしたら逃げられるかもしれないという発想が

ようやく頭の隅に生まれました。

私はそのわずかな希望に縋るように、きびすを返すと

小路の出口まで一目散に走りました。

広い通りに出ても、わき目も振らずに、

背中にあの男の子が張り付いているイメージを背負ったまま

走り続けました。

限界まで走って走って、

見慣れた交通安全の看板に、私は倒れこむように抱きつきました。

勇気を出して振り向くと、男の子はもう居ませんでした。

ですが私は、悲鳴に近い声を上げました。

タロウも居ませんでした。


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「そろそろ信じて貰えたと思います」


志倉はあれから幾つか、くだらない質問を続けた。

修一のモチベーションは下がる一方だったが、

彼女は突如、火の玉ストレートを放った。


「それでは、ここからが本番です。

 こっくりさんこっくりさん。

 この人は、まおとこですか」


シベリアンハスキーはちらりと修一の顔を見てから、志倉の手を運んだ。

暫くして動きを止めると、慎重に手首から大きな口を離した。

二人の指は、『いいえ』の少し手前をさしていた。

修一は、その公正なジャッジに感心した。

主人の意を汲んで、都合のいい回答をするのではないかと懸念していたが、

それはいい意味で裏切られた。

ただ、先輩はさぞガッカリしているだろうなと、

少しだけ気がかりだった。


「なるほど。これはつまり……」


だが、修一の予想は再び裏切られた。

志倉は落胆などしていなかった。


「見てください、近藤君。

 十円玉は『いいえ』の手前で止まっています。

 つまり君の事を、ほぼまおとこでは無いにしろ、

 完全にその全てを否定しきれていないのです。

 質問を続けます」


志倉の喋るスピードが今までよりも早い。

修一にはそれが、こちらに聞かせるためというより、

彼女の中で、何か一つの結論を導き出すための、

助走行為のように思えた。


「こっくりさんこっくりさん。

 この人は、不可思議な力を持っていますか」

『はい』


まだ曖昧だが、こっくりさんの結果と志倉の分析は、

的を射ている。

始めはインチキを見せられている気分だったが、

シベリアンハスキーは決して間違った答えを選ばなかった。

好ましくない流れだった。

修一はこの時点で、自分の能力の発覚を半ば覚悟し始めていた。

引っ越す前の学校で、異端とされた自分を

遠巻きに見るクラスメイト達の眼差しを思い出して、

少し表情を暗くした。

修一は、たとえこの場で力の事を知られたとしても、

せめて志倉澄子がそれを吹聴して回るような

口の軽い人間でないことを切望していた。


「こっくりさん……」


志倉が詠唱を始めた。

修一は今度こそ決定的なことを聞かれるのだろうと、

腹をすえた。

だが、予測はまたも大きく外れた。


「こっくりさん。

 この人と私は、過去に出会ったことがありますか」


え、と声を出して修一が顔を上げた。

志倉は紙面ではなく、まっすぐに修一を見ていた。

硬貨が、今度はしっかりと『はい』に乗った。

修一は絶句した。

志倉はその結果を視線だけで確かめて、

すぐに修一の眠たそうな目を覗き込んだ。


「やはり、君だったのですね。近藤君」


目つきのきつい女の子が、修一を鋭く見つめている。


「あ、」


修一はこの女の子の目とシベリアンハスキーの組み合わせを

確かに知っていた。




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女の子が飛び出していった路地に入ると、その奥で、

狼に似た大きな犬が、小さな男の子に食らいついていました。

その頃の僕と同い年くらいの男の子は、

左半身が摺り潰されたように崩れていましたが、

無事な右腕だけで犬を引き剥がそうと苦労していました。

犬は牙を抜くまいと、

狂ったように男の子の首に噛り付いていましたが、

とうとう戒めは外されました。

男の子は、犬の後ろ首を無造作に掴むと

塀に何度も叩きつけ始めました。

僕は怖くなってお母さんにしがみつきました。

お母さんは笑顔を浮かべて僕の頭を撫でました。

そっと僕から身を離すと、男の子の方に歩いていきます。

男の子はお母さんに気が付くと、

血達磨の犬をごみでも捨てるように放りました。

地面を転がった犬はそれでも、一度立ち上がり、ふらついて、

ニ歩、三歩少年の方へ歩くと、倒れてもう動かなくなりました。

それ以上、犬のことなど見ようともせず、

男の子は甘えるように、お母さんに右手を伸ばしました。

お母さんは笑顔でその手を握り返すと、

逆の手の平で男の子の頭を包むように撫でました。

僕は背を向けました。

振り向いた先に、

先程走り去った筈の女の子が息を切らせて立っていました。

色の無い夕暮れの中で、鋭い目だけが光を放っていました。


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あの男の子への恐怖と、同じくらいの不安を抱いて

タロウの所に戻った時、全ては終わっていました。

ほっそりとした大人の女の人が、

ごみでも捨てるように、鼻から上の無い男の子を放りました。

地面に転がったそれが消えると、

女の人は眠たそうな目をした別の男の子に近づいて、

その頭を繰り返し撫でていました。

私は路地の端に、タロウを見つけました。

舌をだらりと出して、目を開いたまま横たわっていました。

毛の白い部分は余すことなく赤黒く染まっていましたが

それでも吸い足りなかったのか、

血の水たまりに沈みかけているように見えました。

何度か体をゆすっても、もう二度と動きませんでした。



それから、暫く

私は空虚な日々を過ごしました。

外から見ても、よほど酷い状態だったのだと思います。

私を取り巻く人たちは、私を心配してくれましたが

全て瑣末な事に感じました。

ランドセルを背負い、一人で学校から帰るとき、

この後、家の扉を開けると駆け寄ってくる

タロウの姿を夢想して、そのたびに視界が曇りました。

公園、交通安全の看板、一緒に歩いた散歩道。

そこから連想する思い出の全てが

タロウがもし生きていたら

隣にいてくれたらという、

もうあり得ない光景を丁寧に描き出して、

胸を磨り潰すほどに締め付けました。

こんな苦しみが毎日続くのかと思うと、まるで地獄でした。


なので、その日歩道にトラックが突っ込んできたとき、

私はそれでもいいかなと思ってしまいました。

迫り来る車を、どうせ逃げても間に合わないからと

諦めて見ていました。

ドンというショックを受けて、私は転がりました。

私の横をトラックが通り過ぎて、

塀に突っ込んで止まりました。

たくさんの人が駆け寄ってきて、

あれこれ話しかけてきましたが、私は呆然としていました。

自然と、口からタロウの名前がこぼれました。

トラックから私を救ったあの衝撃に、覚えがありました。

タロウに一度転ばされた時の、あの感触によく似ていました。


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「それを切っ掛けに、

 私は君が去り際に言った言葉を思い出したのです」


志倉が逃がすまいと、強い視線で修一を縛り付けている。

修一は静かにそれを見返していた。


「君は、『大事にしてあげて』と言ったと思います。

 違いますか」

「そう、だったかもしれません」




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血だまりにへたり込む女の子を見ながら、

僕はお母さんの手を握り締めました。

あの犬が、なんであんなに必死で戦っていたのか、

最後にもう一度立ち上がったのか、

その理由も分かりました。

自分の死体の横にお座りする、大きなシベリアンハスキーが

うなだれる女の子を気遣うように、鼻を寄せていました。

女の子は顔を上げませんでした。

ああ、見えないんだなと思いました。

なんであんなに恐ろしいものがおそらく見えたのに、

この子は今、大切なものを見ることが出来ないのだろうと

悲しくなりました。

お母さんが背中を向け、僕の手を引いて立ち去ろうとしました。

あの、大事にしてあげて。

僕は思わず、彼女達に声をかけていました。

女の子が振り返り、虚ろな目で僕を見ました。


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「私を救った見えない何かの感触と、

 あの日、君がくれた大きなヒントを併せて導き出される、

 とても幸福な可能性を信じて、私は今日まで生きてきました。

 あの子を奪ったものたちの世界を知り、

 失った筈のあの子の実在を肯定し続けるため、

 私は、オカルトに没頭してきたのです」

「……はい」


志倉の語り口は極めて穏やかだが、修一は鬼気迫るものを感じていた。


「Jが魔女が現れたと言って、君の盗撮画像を私に見せたとき、

 すぐに君の事を思い出しました。

 君の優しい目は、あの時と少しも変わっていない。

 こんなに近くに居るのなら、もっと早く君を見つけたかった」

「すみません。それは多分、僕の所為です」


でかい犬が怖くて逃げていたとは言いにくかった。


「いえ、君は一つも悪くありません。

 極度の人見知りであれば、人目を忍んでも仕方ありません。

 君には君の事情があり、私には私の思惑がありましたが、

 私達は当然、お互いにそれを知り得なかったのですから」


その設定、嘘なんですとも言いにくかった。

気まずそうにする修一を見兼ねて、

志倉は、「話を戻します」と仕切りなおした。


「私がこっくりさんを初めて試みたのは、小学二年生の時です。

 それが動物の霊と通信を行う手段だと知ったからです。

 実行してみると、本当に十円玉が勝手に動いたので、

 私は震えがとまりませんでした」

「志倉先輩でもそうなるんですね」


修一は志倉が恐怖したのかと思ったが、彼女は否定した。


「期待と興奮で震えたのです。

 もしも、この十円玉を操っているのが……もしも……」


志倉は息を整えて、つばを飲み込んだ。


「私は日課のように、こっくりさんを続けました。

 質問をするというより、その日の些細な出来事を私が語って

 それに相槌を打ってもらうような形式でした。

 幸せな毎日でしたが、同時に不安でもありました。

 私の対話の相手は本当にあの子なのだろうかと。

 違うかもしれない。

 すべてが私の都合の良い解釈に過ぎないのかもしれない。

 そう思うと、恐ろしくて恐ろしくて、

 その正体をこっくりさんに直接問いただすことなど、

 今日まで一度も出来なかったのです」


最初から強気だった志倉の瞳が、今は不安に揺れている。


「それに、仮に尋ねたとして

 返事が『はい』だとしても『いいえ』だとしても

 私には真実を確かめようが無い。

 ですが近藤君、君になら分かるのではないですか。

 不思議な猫を引き連れ、

 不可思議な力を持ち、

 あの日何かを見て、知り、私に

 『大事にしてあげて』と言ってくれた君ならば」

「…………」


修一は否定も肯定もせずに、

十円玉を抑える志倉の指を見下ろした。

力をこめた白い爪先が、かすかに震えている。

修一の脳裏に、自分の存在を全ての勘定から除外した

かつての友人たちの顔が、次々に浮かんだ。

忘れたくても忘れられない、数多の自分をいたぶる言葉が、

波のように押し寄せて胸を軋ませる。


「お願いします」


沈黙する修一に、志倉が深く頭を下げた。

やめてくださいと、修一は言いそうになった。


「お願いします。どうか教えてください。タロウは」


一本の藁にしがみ付くような、悲壮な懇願だった。

大きな犬は、主人のそんな姿を、つぶさに見つめている。

これだけ近くにいるのに、ただ見ることが出来ないだけで

彼女達はこれまでも、そしてこれからも苦しみ続けるのだろうか。


「お願いします。お願いします……」


志倉のか細い声が震えている。

修一には、もうそれ以上耐えられなかった。


「先輩、顔を上げてください」


応じて恐る恐るこちらを見る志倉に、修一は首を振った。

志倉の顔が絶望に歪む。

修一はそうじゃないんですと、もう一度首を振って

左上の空間を見上げた。


「タロウって言うんですね。この大きな犬」


修一が空いている手を伸ばすと、

タロウがそれに鼻先をぴたりと押し付けた。

ふっくらとした尻尾が、ゆらゆらと楽しげに揺らめく。

修一の高く掲げた手のひらが優しく何かを摩るのを見て、

意味を理解したのか、志倉の瞳が潤み始めた。


「あ、あの、たろ、あ、」


必死に何か言おうとするが、言葉にならない。


「多分先輩が思ってるより、

 ずっと大きくなっちゃってますけど」


修一は志倉の方を見て、微笑んだ。


「居ますよタロウ。

 いつも先輩と一緒に居ます」

「あ、あぁ……」


いつも吊り気味だった志倉の眉が八の字に崩れ、

目頭から涙が溢れた。

次から次に滴がこぼれ出し、とても止まらない。

タロウは修一の手のひらから顔を離して、

志倉の濡れた頬を心配そうに嗅ぎ始めた。

志倉は何度か鼻をすすり、

あの日以来、確かめるのが怖くて使えなかった名前で、

こっくりさんを呼んだ。


「タロウ……タロウ……」


十円玉が、『はい』の上で止まった。











放課後。

掃除当番の修一は、紙くずやらビニール袋やら詰まったゴミ箱を抱えて、

廊下をのんびりと歩いていた。

あの後、少し体に気を使ってゼロカロリーのコーラに溺れる高橋の誤解を解き

真人間に更正するのに少々手間取ったが、

今や修一は穏やかな日常を取り戻して、非常に満足していた。


「修一君」


三階への階段を降りきったところで名前を呼ばれて、修一は振り返った。


「あ、志倉先輩」


志倉澄子がひらひらと手を振っている。

あの魔男裁判の日以来、

もっぱら柔らかくなったと噂の面差しに、

秋の木漏れ日を思わせる穏やかな笑みが浮かんでいた。

その隣には、あいかわらず熊なのか犬なのか分からないタロウが

すごい迫力でお座りしているが、修一はもう目を逸らさなかった。


「こんにちは、修一君」

「はい。こんにちは」


修一は少し周囲を見渡して、目線を若干上げた。


「タロウもこんにちは」


のしのしとタロウが歩み寄ってきて、修一に逞しい肩を擦り付けた。

向かい風に立ち向かう台風中継のように体を踏ん張らせる修一を見て、

志倉はなおさら幸せそうに笑った。


「丁度よかった。君のクラスに行くところだったのです」

「あれ、何かご用でしたか?」

「君に渡したいものがありまして」


志倉が、ドーナツかメンチカツでも入ってそうな

色気のない紙袋を掲げた。


「君には大変お世話になりましたから。そのお礼のようなものです」

「ええ? そんな、わざわざ……」

「折角、君のために用意したのです。是非、受け取ってください」


遠慮しすぎるのも失礼かと思い、修一はありがたく頂戴した。

手に持つと、メンチカツにしては重さが足りない気がした。


「開けてもいいですか?」

「いけません。必ず家に持って帰ってから、一人で開封してください」

「……何が入ってるんですかこれ」

「黙秘します」


あまりにものものしい。

袋を軽く振ってみたり、

高く持ち上げて光に透かして見たりする修一の隙をついて、

音もなく志倉が歩み寄った。

耳元に唇を寄せて、小声でささやく。


「君の秘密は必ず守ります。

 だからというわけではありませんが、

 修一君も時々、タロウと遊んであげてください」

「ひぃ! 近い! だから顔が近い!」


むずがゆさと羞恥に身をよじり、修一が飛びのいた。

志倉は取り乱す修一を見て、満足そうに二度頷いた。


「それでは修一君。

 また今度、ゆっくりお話ししましょう。あ、それとーー」

「それと?」


むずむずする耳を抑えながら、まだ何かあるのかと修一が訝しんだ。

志倉の視線は修一を乗り越えて、その後ろを見ている。


「それと、高橋君もこの前はありがとうございました。

 では、失礼します」

「えっ、高橋……?」


歩み去る先輩とタロウの後ろ姿を見送る余裕もなく、

勢いよく修一が振り向いた。

高橋が、絞められた鯉のような目をして修一を見ていた。

いつからそこに居たのか知らないが、

高橋が何をどう解釈したのか想像して、修一は動転した。

逆に高橋は、彫像のように静かだった。


「なんでや……」

「た、高橋、これは違う。

 高橋が思ってるのと全然違うから」

「なんでや、近藤……」


西の名探偵みたいなことを言いながら、

高橋が懐から、ぬるくなったダイエットコーラを

トカレフのように抜いた。

修一は頭を抱えた。


「また、振り出しに戻るの? これ」


修一は、やっかいな処理作業から逃避するように

窓から外の世界を、遠い目で眺めやった。

茜色に染まり始めた空を、三羽のカラスが飛び去って行く。

修一は、その行く末を知る由もなかった。



魔男裁判 終

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