第5話 笑顔の理由

「いやー、空いてていいね。旅行するなら平日に限るね」


祝でも祭でもない月曜日なだけあって、

正午過ぎだというのに峠のレストランは閑散としていた。

難なく四人がけのテーブルを確保して、

山菜月見そばを店員に注文した小百合はご満悦だった。

はす向かいに座っているかすみは、

冷たい水をちびりと飲んで頬杖をついた。


「小百合よう。ご機嫌で土産買いこむのはいいけどさ、

 あんなに菓子類ばっかりでどうすんだよ。食いきれないだろ」

「いいの。和とか洋とか甘いのとかしょっぱいのとかあるんだから。

 修ちゃんが気に入ったのだけ残して、

 後は学校なんかで配ればいいのよ」

「修一は木刀とか鉄のキーホルダーの方が喜ぶと思うけどね」

「かすみのセンスって、大阪のオカン級に壊滅的だわ」


小百合が、熱々のタコ焼きを顔面に叩きつけられても仕方のない

暴言を吐いた。

鼻歌を歌いながら、菓子箱を一つ一つリュックから取り出しては

テーブルの上に並べていく。


「おいおい、こんなところで広げるなよ」

「綺麗に詰め直そうかと思って。

 なんか箱の角が背中に当たるのよね」

「そりゃ、そんだけ無理やり押し込んでれば……ん?

 なんだその本」

「これ?」


小百合が最後に取り出したのは、

A4サイズより少し小さな絵本だった。

小百合は薄気味の悪い笑い声を上げながら、

もったいぶって、かすみに表紙を見せ付けた。


「こ・れ・は、修ちゃんのお気に入りだった絵本」

「へえ」

「これ見たらさ、修ちゃんきっと懐かしくて懐かしくて、

 顔中からありとあらゆる体液を噴出しながら喜ぶでしょうね」

「奇病かよ」


半眼のかすみは絵本を手に取った。

硬い表紙がピカピカに加工された、ごく一般的な形態だった。

保存状態がよかったのか、さほど古さは感じない。

銀縁眼鏡をかけた黒猫が描いてあって、その上にポップな字体で

『ぼたもちコロコロ』と刻まれている。


「こんなの読んでたのか。あいつ」

「読んでたっていうか、修ちゃんまだ四歳とかだったから、

 読んで貰ってたんだけどね。お母さんに」

「四歳かあ。ギリギリ覚えてないんじゃねえの」

「どうかな。私はあの頃の修ちゃんしっかり覚えてるけど。

 パジャマ着て、絵本持って、超絶可愛かった」

「録画しとけよ、そういうのは」


独り占めはよくないだろとぶつくさ言いながら、

かすみは絵本を返した。

受け取った小百合は、そのままリュックに仕舞おうとして

結局もう一度取り出すと、再び手元に置いた。

思い出の品を見ていると、そこに紐付けられた記憶が、

自然と込み上げてくる。

その筆頭は、幼い修一に読み聞かせをせがまれる母の、

ぼんやりとした白い顔だった。

修一に寝巻の裾を掴まれて、笑いも困りもしていない。


「ほら、うちのお母さんって極端に無口で無愛想だったじゃない」

「ん? んー」


突然話を振られると、

かすみは一度大きく開いた目を細め直して、宙を見上げた。

レストランの高い天井を透かして、

数回しかなかった対顔の機会を思い返す。


「……あー、言われて見ればそうだったかな。

 あの人、挨拶だけしたらそのまんま黙っちゃうからさ、

 アタシ嫌われてるのかと思ってたわ」


絵本の表紙の猫を指先でなぞりながら、小百合が首を振った。


「ううん、お母さん誰にでもそうだったから。

 他人は当たり前で、私たちとも上手く付き合えなかったの」

「そりゃまた、難儀な」

「だけど、口下手でも本は読めるでしょ。

 だから修ちゃんに絵本読むのが嬉しいって言ってた」

「小百合は読んで貰わなかったのか?」

「私は一ページ目で寝ちゃうから寂しいって言ってた」

「なるほど」


イメージ通りのエピソードだったので、かすみは違和感なく頷いた。

小百合は絵本のページをゆったりとめくった。

何度か自分で読んだことはあるが、

結局最後まで母の声で聴くことは出来なかった物語を目で追う。

ラーメンを替え玉までしておいて、財布を忘れたことに気づいたOLの元に

ぼたもちという猫が颯爽と駆けつけて代金を立て替えるシーンが、

優しいタッチで描かれている。

ぼたもちは勇ましく千円札を二枚差し出していた。

貸すつもりの顔ではなかった。

銀縁眼鏡の奥で、OLに二千円あげるつもりの目をしていた。


「修ちゃんが、あんまりこの猫の事好き好き言うからさ、

 お母さんわざわざ伊達の銀縁眼鏡かけたりしてね」

「へえ、なんか印象と違うな」


もっと冷たい人だと思っていたとは、かすみも流石に口に出さなかった。

小百合がそれ以上会話を続けることなく、

本腰を入れて読書を始めてしまったので、

かすみは手持ち無沙汰になった。

何気なくメニューを手に取って、暇を潰す。


やっぱり、チキン南蛮も追加するべきだったか、いやしかし……


片や穏やかな顔で絵本を、片や苦悶の表情でメニューをそれぞれ熟読していると

きっちりと髪の毛を真中で分けた男性店員が、お盆に丼を載せて持ってきた。

テーブルせましと並べられた菓子箱を見て、少し戸惑っている。


「お待たせしました。

 あの、山菜月見そばのお客様」

「はーい、あ、すみません。すぐ片付けます」


ぼたもちコロコロはクライマックスを迎えていた。

ぼたもちの元にはこれまで助けられた人々が集結して、

暴力的で反社会的な団体に対し一致団結、立ち向かおうとしている。

非常に熱いシーンへと差し掛かっていたが、小百合は大人しく本を閉じた。

まずはリュックに絵本を収めて、

土産の品々は結局、ぽいぽい乱雑に放り込むと、

隣の空いた椅子に押しやった。

店員は蕎麦をお盆ごと置いて一度厨房に戻り、

改めて焼肉定食と大盛りカツカレーを往復して持ってきた。

離れたテーブルに座る老夫婦の奥方が、上品に二度見した。


「かすみは食費かかって大変ね」

「うまいもん一杯食えるからプラマイゼロだな」


たっぷり三人分の食事を前にして、

二人は暫し、身の丈に応じた量の栄養補給に努めた。

かすみが瞬く間に焼肉定食を平らげて、ひと心地つくと、

箸をスプーンに持ち直して、おもむろに口を開いた。


「でも、不思議な感じの人だったよな。

 浮世離れしてるっていうのかさ」

「うん?」


卵の黄身を潰さないように注意して蕎麦をすすりながら、

小百合が目線だけ上げた。


「お母さんの話?」

「ああ。挨拶するときも、ぼーっとした顔しててさ。

 あの人が笑ったり怒ったりするところなんか、未だに想像出来ないわ」

「私もお母さんが怒ったの見たことないけど、微笑む事は結構あったよ」

「へー、テレビとか見て?」

「ううん。テレビはいつも真顔で見てた。

 笑うのは、修ちゃんに寄ってくる連中を握りつぶす時」


小百合がついに卵の黄身に箸を入れて、二つに裂いた。

とろみのあるオレンジ色の液体が、スープに流れて麺に絡みつく。

かすみはそれを複雑そうに見ていた。


「握りつぶすって、おい」

「だって、文字通りそうなんだもん。

 お母さん、修ちゃんだっこしたまま、

 片方の手であいつらの頭ガッって掴んで、えーっと何て言うんだっけ。

 アイアンメイデン?」

「アイアンクローな」

「そう、それで頭握りつぶしちゃうの」

「笑いながらか?」

「うん、凄かったよ。頭潰される人ってさ、

 シンプソンズみたいに目玉が、こう」


かすみはカツを一口大に切ろうとしたスプーンを止めて、首を振った。

流石にものを食べながら、仔細に聞きたい話ではなかった。

小百合も応じて、それ以上の状況の描写は控えた。


「でもおばさん、すげえ細かったのにな。よくやるわ」

「筋力とかあんまり関係ないよ。

 あいつら壊すのに使うのは、また別の力だから」

「ふーん」


曖昧な返事をして、かすみは改めてスプーンでカツの一切れを切断した。

その程よく柔らかい感触で、この店のカツは当たりであることが既に分かった。

やはり、期待を裏切らないカツを先に味わって、

ライスとルーをバランスよくスプーンに乗せて口に入れると、

十分に咀嚼してから飲み込んだ。


「まあ、その辺の感覚はよくわかんないけどさ、

 もっとわかんねえのは、」

「なんでそういう時だけ、お母さんが笑ってたのかって話でしょ」

「え、うん」

「私と修ちゃんのためなの」


かすみは少しぽかんとして、小百合の見慣れた笑顔を見ていた。


「お母さんは修ちゃんに寄って来るのを、その場で処分しないといけないから、

 どうしても私たちに見られちゃうんだよね。そういうシーン。

 だからせめて、少しでも安心できるようにって、

 無理やり笑顔でやってるって言ってた」

「ええ?」


真顔より、笑顔で他人に危害を加える人間の方が、かすみには恐ろしく思える。


「……逆に気味悪くないかそれ」

「うん、正直私もそう思ってたけど、お母さんちょっと人と感覚がズレてたから。

 あんまりそういうの、分かってなかったみたい。

 それにね」

「それに?」


麺を啜りつくして、山菜の欠片と溶けた黄身が残されたスープを、

小百合は静かに啜った。

丼を置いて、口元をおしぼりで拭く。

かすみにはそれが少し、じれったかった。


「それに、なんだよ」

「それにね、修ちゃんはそれ見て泣き止むんだよね。

 そういうところ、お母さんと色々近かったのかなって」

「へえ、そういや修一もどっちかって言えばおばさん似だもんな。

 ご馳走様でしたっと」


いつの間にか、かすみのカツカレーも皿の上から消えていた。

かすみはスプーンを置いて、手を合わせる。

小百合も倣うように両手を合わせて、しばらくそれを見つめていた。


「……だから、私、お母さんが私より簡単に、あいつらを壊せる事なんかより、

 そっちの方がずっと羨ましかった」


かすみは水を口に含もうとして持ち上げたグラスを、半ばで止めた。

少し注意深く小百合を見るが、

朗らかなその様子に、特にいつもと変わった所は見受けられなかった。


「だからね、ああいう時には笑うの。私も」






笑顔の理由    終

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る