第4話 猫も拾う

【1】

一般社会に接する国民の七割は月曜日の朝を気だるげに迎える。

例に漏れず修一も、眠たそうな目をして欠伸をかみ殺しながら

河川敷をゆらゆらと歩いていた。

目指す中学校までは、まだ暫くある。


「ほら、あれ」

「えー、かわいい」


同じ目的地に向かう学生達から、

遠巻きに送られる好奇の視線を感じる。

修一は最近慣れてしまったそれを、諦めの気持ちで無視して

わざと一度大きな欠伸をした。

あ、本体があくびした。したねと周囲がざわめく。

流石にうんざりして、修一の目が座った。

そんな渦中の腫物の背中をぽんと、

物おじせずに軽快に叩く勇者が居た。


「よう、修一」

「あ、おはよう」


修一は高橋を見て、少し救われたような顔をして息を吐いた。

立ち止まる二人の方を興味深そうに観察しながら、

生徒達が追い越していく。

高橋はそんな外野をぐるりと見渡してから、

修一の数歩分後ろでしゃなりと座る、

衆目を集める原因を見下ろした。


「また連れて来たのかそいつ」

「連れて来たんじゃなくて、ついて来たんだよ」


それは黒猫だった。

尻尾が長く、大柄ではないが子猫でもない。

修一が足を止めると、黒猫も足を止め、

修一が歩き出すと一定の距離を保って、歩きだす。

ここ数日、このファンシーな光景は中学校の中で話題になっていて、

今朝に至ってはわざわざこれを見るために、

登校ルートを変えた酔狂な学生もいるくらいだった。


「お前、最近噂の中で、凄いことになってんぞ。

 近藤は北高不良チーム期待の新人にして、

 遠い町から修行に来た魔法使いだって」

「僕自身にはひとつも責任無いと思うんだけど」


肩書きの組み合わせが滅茶苦茶過ぎて、

カレーにあんこを乗せたような座りの悪さを感じる。

修一はげんなりとして、火種の猫を見下ろした。


「あの。すみませんけど、もうついて来ないでもらえますか」


修一ができるだけ穏便にと、やわらかく猫に語りかけた。

それなのに、遠巻きに見ていた名も知らぬ女子が

「やだーつめたーい」「ジジちゃん可哀想」などと好き勝手言っている。

この猫はおそらくジジではないし、修一に至っては断じてキキではない。

肩を落とす修一を、黒猫はただ金色の瞳でじっと見上げている。

慰めるように高橋が、修一の肩に手を置いた。


「猫に頼んだってどうしようもないだろ」

「いや、それはそうなんだけど」


高橋に詳しく話すことは出来ないが、

修一には修一なりの勝算があっての行動だった。

実は普通にはありえない特徴がこの猫にはあって、

それは修一にしか見ることが出来ないのだった。

こうして皆に存在を認識されている以上、

生きて肉体を持った猫ではあるのだろうが、

なんらかの怪異がその中に住み着いていることは間違いない。


「多分、僕の言ってること、分かってると思うんだけどなあ」

「猫が? 大丈夫かよ修一」


ちなみに修一だけに見えるその猫の特徴とは、銀縁のメガネだった。

レンズの丸いおしゃれなメガネを、黒猫は器用にかけている。

ただ、本来耳に乗せるべきツルが、

猫の身体的構造ゆえに耳の下に張り付いてしまっていた。

もしかして宙に浮いてるのかなと、

はじめは修一もそのシステムに興味を抱いたが

今となってはどうでもよかった。


「もういいよ。行こう」


修一がぷいと顔をそむけて歩き出すと

黒猫も腰を上げて歩き出す。

高橋はその姿に、

年に一度ニュースになるカルガモの親子の映像を

重ね合わせていた。





「でも学校の中には入ってこないんだよな」


高橋が感心して、今しがた通過した校門を振り返った。

黒猫はシーサーの片割れように門柱の上に座って、

修一を見つめている。

通りかかる生徒たちの何人かが、

チッチッと口を鳴らしたり口笛を吹いたりするが

一向に意に介さない。

手を伸ばされると身をひるがえして、

逆の門柱に走り飛び乗り体を丸めた。


「あれだな、ハチ公だ」

「飼ってないけどね」


背の低い女子が振りたくる草を完全に黙殺する黒猫を見て

修一はため息を吐くと背を向けた。

猫がついて来ようと来るまいと、

中学生の日常は時計の針に追われて始まり進む。


「お、鳴った」

「行こう」


予鈴に背中を押されるように、二人は校舎へ駆け出した。





つつがなく午前のプログラムを終え、

昼休みになると、和やかな空気が教室を包む。

修一が机の上に市販のパンとおにぎりを広げるのを見て、

高橋は訊いた。


「あれ、修一の姉ちゃん達まだ帰ってきてないの」

「うん、今日までね。なんか用事が増えたって」


二人は先週の中頃から、

かすみのバイクを長らく飛ばして、それぞれ里帰りをしていた。

出発した水曜日が高校の創立記念日だったので、

欠席は木曜日と金曜日の二日間ですむはずだった。


昨日の夜、実家からの連絡で帰省の延長が告げられた。


『修ちゃん。

 私もかすみも居ないんだから、変なのに近づいちゃ駄目だよ』

「うん、分かってる。なんかいつもと言ってること逆だね」

『心配だなあ。やっぱり先にかすみだけ帰そうかなあ』

「大丈夫だよ、たった一日伸びたくらい。

 姉さんこそ、家の人たちに迷惑かけないようにね」

『早くそっちに戻りたいよ。なんかここに居ると息詰まっちゃう』

「そんなこと言って。もし、父さんが聞いたら可哀想だよ」

『うん。今、横で超泣いてる』

「ええ!? 目の前で言っちゃったの? ちょっと代わって」


その後、鼻を啜る父親を電話越しに慰めて、修一は受話器を置いた。

疲労感を体外に溶かし出すイメージで、自然と長い息が漏れる。

時計を見れば、時刻はもう二十時半を過ぎていた。

修一がカーテンを閉めようとリビングの窓に近づくと、

塀の上に蹲る黒い影がうっすらと見えた。

闇夜に溶け込む黒猫の、ここ数日見慣れた鈍い金色に輝く瞳が

銀縁眼鏡越しに修一を見ていた。




その話を聞いて、高橋はウィンナーをつまんだ箸で窓を指した。


「え、あの猫、家にも来てんのかよ」

「うん」

「ねちっこいな。

 なんか恨みかうような事したんじゃないの。

 うっかり間違えてあいつの猫缶食べたとかさ」

「それ、うっかりで説明できる限界超えてるよね」


修一はおにぎりの包装を剥きつつ、

なんとなくツナマヨネーズを選んだ事を後悔していた。

猫缶の話をしながら食べたい具ではない。


「でも、そういえば修一が魔法使いの修行始めたのって

 弁当持ってこなかった日からだったよな」

「修行は始めてないけど、そうだよ」

「ふーん。じゃあ丁度入れ替わりだったんだな。

 猫と姉ちゃん達」

「うん。そうだね」


修一にはそれが偶然だと思えなかった。

やはりあの猫は、何らかの思惑を抱いて

自分に付きまとっている気がする。


校門の周りでは、弁当のおかずをつかって

黒猫を陥落しようとする生徒達が集まっているのが見えるが、

どうやらうまくいかない様子だった。

誰の施しも受けようとしないその猫と

修一はなんとなく目が合ったような気がした。



【2】

放課後、修一は黒猫を連れて朝とは逆方向に河川敷を歩いていた。

夕食を行きつけの喫茶店で済ませてしまおうかと思ったが、

姉と幼馴染がもう帰ってきているかもしれない。

ひとまず家に直行して、

食事のことはそれから考えることにした。


「こういう時に携帯があれば便利なんだけどなあ」


近藤家では、スマートフォンの所持を高校入学から許可される。

どうせ通う中学校では持ち込みを禁じられているので、

修一が特に大きな不平を口にすることは無かったが、

やはり何かの拍子に、あったらいいなと思うケースは生まれてくる。


「無い物ねだりしてもね」


修一は気を取り直すと、横断歩道の信号で足を止めた。

直立する人影が描かれた赤い正方形を見つめる修一の隣に、

どうやら親子連れが立ち止まる気配がした。

娘の方が黒猫に向かって、

「にゃんにゃん、にゃんにゃん」とはしゃいでいる。

どうせこの猫はまた相手にしないんだろうなと、

修一は前を向いたままだったが

「フーッ」という荒々しい息の音を聞いて、

思わずそちらを見下ろした。

黒猫は背中を大きく丸く曲げて、

子供に向かって激しく威嚇している。

修一は何者にも不愛想で無関心を貫いていたその猫が、

こんなにも爆発的な感情を発露させている姿に驚いたが、

幼い女の子が怯えるのを見て、むしろそちらに慌てた。

膝を曲げて、猫を背に隠す。

女の子は涙ぐんだ目で、高さのあった修一と視線を合わせた。


「あ、ごめんね。ちょっと機嫌が悪いみたいで」

「にゃんにゃんおこってる?」

「うん、ちょっとだ、け」


修一は女の子の向こうに立つ親にも謝罪しようと

顔を半ばまで上げて、

やっぱりやめて女の子に笑顔を向けた。


「お嬢ちゃん、お名前は?」

「ユリ」

「ユリちゃん、お父さんか、お母さんは?」

「たぶん、そととおみせ」

「一人で来たの?」

「ううん、おばちゃんといっしょ」

「おばちゃん?」


修一は不思議そうにあたりを見渡した。

少女の隣には首をフクロウのように百八十度回転させた

中年の女が立っていた。

修一は自制力を総動員して女に視点を合わせずに、

遠くを眺める演技をやり通した。

首がねじれていること以外、異変のない女は特に反応を示さず、

ただ修一たちのやり取りを観察しているようだった。


「おばちゃんって?」

「おばちゃんはおばちゃん」

「ねえ、そんなことよりさ、ユリちゃん。

 にゃんにゃんと一緒にお家に帰ろうか」

「でもにゃんにゃん、おこってる」

「大丈夫だよ、もう怒ってないから」

「でもこわい」

「大丈夫、大丈夫」


修一はしゃがんだまま、少女に背を向けた。

身体を出来るだけ大きく見せようと全身を奮い立たせる猫を見て、

修一は祈っていた。

この猫にせめて自分への害意が無いことと、

こちらの思惑を理解する知性があることを修一は一心に祈った。


「ね、もう怒ってないよね」


声をかけられても黒猫は銀縁眼鏡の奥でくっきりと瞳孔を開いて、

憤怒を露わにしていたが、修一の哀願にも近い眼差しを見て、

頭を撫でられると、気勢を徐々に落としはじめた。

何度かそうしているうちに膨らましていた尻尾をゆっくり下ろして、

とうとう観念したように静かになった。

修一はここ数日一緒に居た黒猫を、初めてそっと抱き上げた。

猫は大人しくされるがままになっている。


「ほら、もう大丈夫。触ってごらん」

「かわいい」


ユリちゃんが指を猫の鼻先に近づけると、

猫はそれをクンクンと嗅いで、

眉間の辺りを小さな手の甲にこすりつけた。

感激する少女が、かわいいかわいいと繰り返しながら、

修一の顔と猫の間で何度も視線を往復させる。

それを見て、修一は必死に微笑み続けた。

視界の端で、先程よりはるかに近い位置に

あの女のサンダル履きのかかとが見える。

焦点が合わずぼやけた光景の中で、

ゆっくりとジーパンに包まれた尻が地面スレスレまで下りてきて、

薄い桃色のシャツに覆われた腰が空中で止まった。

女は首だけをこちらに向けたまま、

もっと近くで修一たちを観察するために、しゃがんだらしかった。

修一は心を殺して、

ただひたすらユリちゃんの顔にだけピントを合わせて、

笑い続けた。


「ユリちゃん! ユリ!」

「あ、ママ」


遠くから女性の声がして、ユリちゃんが勢いよく顔を上げた。

慌てて駆けてくる自分の母親を見ると、

ユリちゃんは名残惜しそうに猫の鼻先を二度つついて

「ばいばい」と手を振った。

修一もそれに手を振り返した。

走っていくユリちゃんが離れた母親の太ももに、

ラグビー部顔負けのタックルを決めるのを見届けると、

安堵して正面を向いた。

一瞬の油断だった。


ほんの鼻先数センチ、視界一杯に表情のない女の顔が広がっていた。


修一は息をのみ、目を見開いてしまった。

女が幸せそうに笑った。


「やっぱり見えてる」



【3】


頭の中にそう聞こえた時、修一は猫を抱えたまま走り出していた。

鞄を拾う余裕はなかった。

家に向かうには横断歩道を渡るのが最短だが、信号は赤に戻っている。

修一は車道沿いを駆け抜け、家へのルートを頭の中で選び、

できるだけ人の少ない道へと角を曲がった。

人通りがあったところで、誰に助けを求めることも出来ない。

むしろ障害物が増えて、邪魔ですらある。

修一が振り向くと、数十メートル後方を、

あの女が両腕を大きく前後に振りながら、

走って追いかけてくるのが見えた。

顔がこちらを向いているので後ろ走りになるのだが、それでも速い。

本来人間が真似出来ないその動きが、

修一の中の生理的嫌悪感を激しく掻き立てた。


「はあっ、はあっ」


スタミナ配分を考えない猛ダッシュと追われる緊張で

早くも修一の息がきれ始めた。

女のスピードは落ちない。とても家までは逃げきれない。

そもそも家まで逃げ切ったとしても、

小百合たちが帰宅している保証はない。

だが、とても頭が回らない。解決策が浮かばない。

肺は何度も限界まで膨らみ収縮するが、

呼吸はますます苦しくなる一方で、

信じられないくらい脈動する心臓に、

胸の内側を殴られているようだった。

太ももが重くて持ち上がらない

地面を踏むたびに、足首と膝がぐらつく。

とうとう修一はもつれさせた自分の足に躓いて、

派手に転倒した。

転ぶ瞬間、猫が修一の身体を蹴って飛び降た。

修一は深く物を考えることも出来ずにその勢いで身を捻り、

なんとか道脇の草むらに胴体を着地させた。


そこは無人の空き地だった。

力を振り絞って這いつくばり、出来るだけ茂る枯れ草の奥に入ろうとする。

だが、すぐに限界を向かえて仰向けに転がると、

空に向かって血を吐くようにぜえぜえと息をした。

首だけをもたげて、わずかな希望を込めて空き地の入口を確認する。

汗と涙のカーテンで薄く滲む視界の中で、

残念ながら女が黙って突っ立っているのが、草葉の間に見えた。

距離もそう離れていない。


「しつこ……い……」


理性のフィルターを通さない、率直な感想が修一の口から洩れた。

女は空き地に足を踏み入れると、荒く息を吐く修一を数歩分離れたところから、

無言で観察していた。

ドロドロの修一と比べて、彼女の顔には汗一つ浮かんでいない。

顔をこちらに向けたままゆっくりとしゃがみ込む女の背中を、

修一はぼんやりとした目線だけで追いかけていた。

しゃがみ終わると、女はヨガでもするように体を反り返らせて

後ろに回した両手をむりやり地面についた。

普通の人間ならブリッジにあたる体制で、四肢を動かして

虫のように近づいてくる。

ただただ、おぞましかった。


嫌だ。もうこれ以上見たくない。


修一がせめて、目を瞑ろうとしたその時だった。


風が一陣強く吹いて、空き地中の枯れ草が一斉にざわめいた。

直後、四つんばいの女の後ろから音も無く伸びてきた二本の白い手が

修一に迫る彼女の頭部を、挟むように掴んで固定した。

女は体を捻って振り向こうとしているが、

黒目が左に寄るばかりで、一向に身動きが取れていない。

女の抵抗を無視して、

カブでも引っこ抜くように白い手はぐいぐいと頭を牽引する。

女の体が向こう側へ前傾していく。

力強さの割にほっそりとした綺麗な腕で、

修一は女性のものだと思った。


「姉さん?」


修一は、小百合以外にこんな真似ができる人間を知らない。

ガクガクと生まれたばかりの馬のように震える筋肉を、

なんとか奮い立たせて、半身を起こした。


「姉さ……」


だがそこに、期待した姉の姿は無かった。

修一は阿呆のように口をぽかんと開ける。

草むらには修一と、修一を追い回した女と、銀縁眼鏡の黒猫しか居なかった。


「シャァッ! フーッ!」


黒猫は細く高い威嚇音を上げ、折り曲げた四肢で大地に踏ん張っている。

もともと眼鏡をかけたおかしな猫だったが、

今やその異常は、それだけに留まっていなかった。

毛に覆われた肩甲骨のあたりから、長い人間の女性の両腕がはえている。

手のひらが化け物の頭を挟み、万力のごとくぎりぎりと圧迫していた。

猫の細腕に捕らえられた女は、

無表情のまま相手の両手首を掴み引きはがそうとするが、

まるでびくともしない。

むしろ圧力は増し、米神がミシミシと不気味に軋みはじめた。

触れあった部分からは丁度肉を炙るような音がして、

薄い煙を空に上げている。

女は体をねじりもがき抵抗しようとするが、猫の力が圧倒しているのか、

焼け石に水をかける程度の効果すら生み出さなかった。

白い手の圧迫に耐えられずに、女の虚ろだった目が無理やり大きく見開かれ、

まん丸になると続いて、アメリカのアニメのようにせり出してくる。

終わりを予感して修一が顔を逸らすと、

メキッグチャッっと潰れる音がして、それでもう何も聞こえなくなった。


しばらく待ってから、おそるおそる視線を戻すと

そこには前足で熱心に顔の毛づくろいをする、黒猫しか居なかった。

眼鏡はかけているが、人の手はもう引っ込んでいる。

立ち上がった修一が、ふらふらとした足取りで近づいても、

メイクアップにご執心で、そちらを見ようともしない。

修一は満身創痍だったが、一心不乱に顔を摩る猫に対して

どうしても気になることを聞いた。


「それ、眼鏡、邪魔じゃないの?」


些末な質問を受けた黒猫は修一を見上げて、一度じっと眺め入ると、

目を逸らして何事もなかったかのように毛づくろいを再開した。






修一がほうほうのていで家に帰り、身なりを整えて、

交番から鞄の落し物の連絡を受けたころ、

ようやく小百合たちが帰ってきた。

小百合はどさっとリュックを置くと、ソファーにひっくり返って、

ぶへえとオッサンみたいな息を吐いた。


「あー、やっとホームに帰ってきたって感じ。

 やっぱ実家は駄目ね実家は」

「お前、そういうこと言うなよ。親父さん、また泣くぞ」

「いいのよ。お父さんは半分趣味で泣いてるんだから。

 徳光みたいなもんよ」


実在する人物・団体に一切関係の無いことを言う小百合の前に、

気を利かせた修一が湯飲みを置いた。

つづけて、かすみにも差し出す。


「はい姉さん、かすみさん。お茶」

「お、サンキュー。って、おい修一。その傷どうしたんだ」


かすみの言葉を聞いて、

弟の頬にある小さな擦り傷に気づいた小百合は大いに取り乱したが、

大したことが無いとわかると胸をなでおろしていた。

転んだだけだよと釈明する修一を、

かすみは、いいよ分かってるよと、何故か理由知り顔でいさめた。


「修一もそうやって、男になっていくんだな」


かすみは自分の事のように、誇らしげだった。

修一には、かすみがどのような情景を思い浮かべているのか、

手に取るように分かった。


「多分、かすみさんが想像してるような

 河原で決闘的なことは無かったからね」

「いいよいいよ、分かってるって」

「もう、違うってば……あれ?」

「どしたの修ちゃん」


修一はリビングの窓に近づいて、

暗くなった庭に目を凝らしていた。

塀の上に、ここ数日当たり前に乗っていた置物が居ない。

先刻、修一が帰宅したときには、

黒猫も当たり前のようについてきた筈だった。

一応、サンダルを履いて庭先に出てみたが、

眼鏡猫の姿はもうどこにもなかった。


「なんか探してんのか」

「え、ううん」

「それよりもさ、修ちゃん。お土産あるよ、お土産」


小百合がテーブルの上に、四次元リュックから

次々と包装された箱を取り出している。


「お菓子と、お菓子と、お漬物と、あとお菓子と、お菓子」

「やっぱりお菓子多すぎんだろそれ」

「うちだけじゃ食べきれないね」


どれとどれを近所に配ろうか考えている修一に向かって、

小百合は、んふふと意味ありげに笑った。

おもむろにリュックの底から、一冊の本を取り出す。


「そして、ほらこれ。

 修ちゃんが大好きで、よくお母さんに読んでもらってた絵本。

 蔵の中から出てきたよ」

「へえ」


修一は一応、軽く驚いたていで受け取った。

正直、母親に絵本を読んでもらった時の記憶など、

はっきりとした形を保って残ってはいない。

かなり幼いころの話なので、

それこそ自分がどの本を好き好んでいたかなど、

さっぱり覚えていない。

ただ、キラキラと目を輝かせる姉を前にして、

無下な対応を取るわけにもいかず、

できるだけ嬉しそうな顔をした。


「ありがとう姉さん」

「修ちゃんかわいかったなあ。

『ぼたもちよんでぼたもちよんで』って、いっつもせがんでて」

「『ぼたもち』?」


なるほど、絵本のタイトルは『ぼたもちコロコロ』だった。

何気なく表紙を眺める修一の作り笑いが、そこで突如凍り付いた。

喉を鳴らして唾を飲み込むと、修一は恐る恐る本を開いた。


「これって……」

「ん? 修ちゃん好きだったよね。ぼたもちコロコロ」

「え、いや、うん、」


ページをめくって、内容を確認する。

それに応じて、ぶつぶつと途切れた記憶がおぼろげに蘇ってきた。


ぼたもちとは、確か物語の主人公の名前だった。

人助けを生業としていて、

幼い日の修一にとって多分、唯一無二のヒーローだった。

おそらく修一はこの強くて賢いぼたもちが大好きで、

本を寝床に持ち込んでは母親に「またそれでいいの?」みたいな事を、

何度か尋ねられたような気がしていた。


「でもなんで、これ……」

「修ちゃん、大丈夫?」

「どうしたんだよ、おい」


様子のおかしい修一を心配する二人の声も、

もはやどこか遠くで反響している。

『ぼたもち』は金色の瞳で、お洒落な銀縁眼鏡をかけた

あの黒猫の姿をしていた。





猫も拾う   終

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