第8話 ヴァーゲンザイル伯爵家
ギュラーからヴァーゲンザイルまでは、ヴァーゲンザイル勲功騎士爵家の馬車は馬丁に曳かせて、フェリックスとアビーはヴァーゲンザイル伯爵家の馬車に同乗した。
道中、もっぱらアビーがおしゃべりをして、ザラフィアが楽し気に聞き役になっている。ザラフィアは元々女騎士になるか冒険者になるのを志していた女性で、こういう社交の場所でも動きやすい、装飾の少ない恰好をしている。一応ドレスの恰好になっているが、スカートは取り外し可能で、スカートの下にはタイトなズボンを履いていて、いざとなれば夫であるアンドレイの護衛も務められるのだった。おそらくは太もものあたりに短剣を忍ばせているはずである。
そういう女性だったから、口数は多くはないのだが、別に人嫌いというわけではなく、特に気心の知れた妹ならば、聞き役に回っていても楽しいのだった。
アビーは天真爛漫なようでいて、相当に慎重で注意深い性格だ。ヴァーゲンザイル勲功騎士爵家は機密の多い家だが、フェリックスとアビーの私生活を事細かに話しながらそれでいて機密には一切触れていない。
ね、フェリックス、ね、アンドレイ兄様、と時々話を振ってくるので、アンドレイとフェリックスは別件を話す間もなく、夕刻までにはヴァーゲンザイルに到着した。
ヴァーゲンザイル伯爵家の興りは百五十年前に遡り、現存する伯爵家としては最古の家系である。北東部の雄であり、実はその身代から言えば辺境伯爵家に陞爵していたとしても不思議ではない。普通ならば生産高の増えた村は適当に分割するのだが、分割しないことで敢えて名目的な村の数を抑えていた。
辺境伯爵になれば、王家への納税が増える。それがヴァーゲンザイル家が陞爵に乗り気ではない理由の一つだ。名誉よりは実益をとる家系なのだ。最古の伯爵家として王国筆頭伯爵であり、代々、伯爵会の会長の座を占める家系でもある。伯爵会の影響力を介して王国中央政界にも穏然とした力を持っていた。辺境伯爵にならないのはその影響力を手放したくないからでもある。
王国の側からすれば辺境伯爵にして税を搾り取りたいという思いもあったのだが、北東部はもともと開拓地であったということもあって、規模の大きな領主が複数存在し、微妙な均衡を保っている。公爵家と辺境伯爵家がそれぞれ二家ずつあり、二党に分かれて対立している。そこに新しい辺境伯爵家をこしらえれば均衡が崩れ、まさか内戦にまではならないとしても争いが加速して秩序が乱れる恐れがあった。そうした事情もあったから、敢えて陞爵をしないことで堂々と脱税をするヴァーゲンザイル伯爵家の行動を苦々しくも王国中央政府は容認していたのだった。
ヴァーゲンザイル家は古い家系であるから係累の多い一族である。但し分家のすべては、領主貴族ではなく、代官もしくは官僚として宗家を支えている。身代を分割相続しない家系なのだ。
それらヴァーゲンザイル一族は勲功騎士爵、もしくは名誉騎士爵の爵位を帯びている者も多かったが、領主であるヴァーゲンザイル勲功騎士爵はフェリックスだけだ。
フェリックスの場合は、ヴァーゲンザイル宗家から封土を賜ったのではない。ダグウッド村はアイリス・ギュラーから個人的に遺贈されたのであって、領主としては究極的に言えば、フェリックスとアンドレイは同格である。
だが、フェリックスがヴァーゲンザイル家の籍を抜けていない、籍を抜けて別家を立てる許可を宗家から得ていないのも事実であって、その意味ではフェリックスの家はヴァーゲンザイル家の分家であると見なすことも不可能ではない。
言わばフェリックスは領主としてはヴァーゲンザイル勲功騎士爵家に、フェリックス・ヴァーゲンザイルとしてはヴァーゲンザイル家に両属している形になっているのであって、宗族会議に出る義務があると言えばあるし、無いと言えば無い。
家臣として扱われかねない、それが既成事実化されかねないのを嫌って、一年前の宗族会議をフェリックスは欠席した。
フェリックスがヴァーゲンザイル家の家臣であるのかそうでないのか、曖昧なままにしたまま、まずはダグウッド村を成長させて、実力で独立を認めさせるつもりだった。
しかしアンドレイは一度、会議をすっぽかされたことを再び繰り返すつもりはなかった。
ギュラー家の午餐会があれば、必ずフェリックスはアビーを伴って来る。さすがに甥姪の公へのお披露目の席に二重の意味で叔父であるフェリックスが欠席すればそれは事実上の宣戦布告に近い侮辱になってしまうからだ。
だからアンドレイはギュラー家でフェリックスを捕まえて有無を言わさずにそのままヴァーゲンザイルに連れていき、それに合わせて宗族会議を開く段取りを整えておいたのだ。
「おお、フェリックス、大きくなったな」
「子供はまだなの? 変なこと(避妊)はしていないわよね? 早いうちにうんじゃった方が後が楽よ」
親戚のおじやおばが集まっていて、フェリックスたちに声をかける。
ヴァーゲンザイル城は古い建物だけに純粋に軍事施設であって、普段使いには向いていない。城の隣に、ウィステリアハウスと呼ばれる城館があって、饗応はそちらで行われていた。
翌日の宗族会議では、各家の当主たちが集まり、諸々の方針が決められていった。アンドレイはまだ三十歳に満たないにもかかわらず力強く会議を指導し、親戚のうるさがたたちからも一目置かれているのはフェリックスにも見て取れた。
「ところでフェリックス卿は何も発言をしていないようだが」
ことさらに形式ばってフェリックスをそう呼ぶ、アンドレイに、フェリックスはにっこりと笑った。
「僕は部外者ですから」
ここに至ってフェリックスも覚悟を決めたのだ。ヴァーゲンザイル家の後ろ盾は欲しい。だがダグウッドの独立は守り通さなければならない。
「私の弟で、ヴァーゲンザイルの姓を名乗る卿が部外者とはどういうことだろうか」
「私はダグウッドの独立領主であり、ヴァーゲンザイル伯爵家の禄をはんでいるわけではありません。姓が同じだけで、別の家と考えるのが普通だと思いますが」
「ヴァーゲンザイル宗家は卿の離籍を認めたわけではないが?」
「お認めになるも何も、事実、当家、ヴァーゲンザイル・ダグウッド勲功騎士爵家は王国政府より勅許を頂いてダグウッドを領有しております。我らは等しく国王陛下の臣である以上は、陛下のご勅許がなによりも優先されるべきことです」
「陛下は、ヴァーゲンザイル宗家の麾下にある者としてそのように遇されたのだろう」
「そのようなご内意は伺っていませんが、伯爵閣下は証拠の文書でもお持ちでしょうか?」
アンドレイは右手を振って会の閉会を告げた。
ヴァーゲンザイル家の家臣たちは退出してゆく。
「兄弟仲良くの」
叔父のステュルコフが二人にそう声をかけ、悠然と退出してゆく。
二人きりになって、アンドレイはため息をついた。
「ステュルコフが言うのだよ。おまえに恩を売っておけと」
「はい」
「締め付ければおまえはギュラーや他家を頼るだろう。ヴァーゲンザイルとしては…」
「ヴァーゲンザイル伯爵家以外はすべて当家の味方になりましょうね。内紛を起こしてくれるならば、一フロリンもかけずにヴァーゲンザイルの勢力を削ぐことができますから」
「そういうことだ。そもそもうちは陛下から睨まれている。うちが極端に弱体化して北東部の均衡が崩れるのはお望みになられないだろう。だが泡を吹かせる程度のことはされかねない」
「こちらはたかがヴァーゲンザイル勲功騎士爵家です。ヴァーゲンザイル伯爵家を悩ます靴に入り込んだ小石に過ぎません」
「その認識が甘いんだよ。たかが小石が、たった一年で准男爵家の規模にまで拡大するだろうか。おまえはいったい何をやろとしている?」
「…」
「伯爵家の本能が告げるのだ。ここは満身創痍になったとしても、おまえを叩き潰しておくべきだと」
「…兄上の敵になりたいわけではありません」
「その言葉、信じてもいいのか?」
「はい」
フェリックスの真摯なまなざしに、アンドレイは深く息を吐いた。
「独立は認めない」
「…」
「だが、好きにしろ。どうせ私ではおまえを統御しきれない。つまり今まで通りだ」
「僕が他家に泣きついて、陛下の勅許の再確認をすることもあり得ますが」
「その手が通用するのはせいぜいあと数年だ。遠からず陛下の目にも明らかになる。おまえがどれだけ危険なのかがな。この数年のうちなら、ヴァーゲンザイル伯爵家を敵とすることは出来まい」
「…僕を泳がして、それでヴァーゲンザイル伯爵家になんの利が?」
「イモを貰おう。栽培法を教えて貰おう」
「あれはダグウッドでしか通用しない農法なのです」
「おまえのことだから、それくらいの安全措置をとっているだろうな。まあいい、イモを輸入する。安価で、なおかつ大量にな。ヴァーゲンザイル領でも領民の可処分所得を増やしてゆく」
「増産は可能ですが…今は労働力の余裕がなく」
「マーカンドルフにかつてダグウッドを離れた者たちに声をかけさせているそうだな。ヴァーゲンザイル領では仕事にあぶれている者もいる。数百人ならば移民を許可しよう」
「数百人ですか…ありがたい話ですが、村の治安が」
「そこはおまえの腕次第だ。それと今後、ギュラーを頼るな。おまえは商人の件では私よりもコンラートの方がくみしやすいと思ったのだろうがな。あそこを動かしているのはキシリアだ。身重だったからコンラートが代わりをしていただけで、キシリアは侮れん」
「キシリア姉様とアンドレイ兄上の間には結婚話もあったはずですが…」
「まあ、この組み合わせで良かったのさ。私とキシリアでは同族嫌悪が甚だしくなっていただろうな。おまえは泳がすが、ヴァーゲンザイルの敵と組むことは許さん」
「はい」
それでも、アンドレイがフェリックスを泳がす意味を、フェリックスは納得しきれていなかった。それに気づいたのか、アンドレイは少し笑って言葉をつづけた。
「…おまえは生まれた時から不思議な子だったな。私はおまえの導く先を見てみたいのかも知れん。それにな、おまえならば民衆のために悪いことはするまい。おまえがどう思っているかは知らないが…私とて弟はかわいいのだよ」
そう言うなり、アンドレイは顔をそむけた。
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