サンクスを、ギビングしよう

 くらり、と世界が傾いたと思ったら、ぐるーり、ぐるりと回り始めた――

  


 新型コロナ・ウイルスのパンデミックが始まって以来、行きつけのクリニックが対面診療を制限しているため、左肩の治療が思うように進まない。


 先月から理学療法フィジカルセラピー(physical therapy)だけは受けることが可能になったので、週一で隣町のリハビリテーション・センターに通っているのだが、自宅から車で20マイル(=約32キロメートル)/片道30分の道程みちのりは、運転が大のニガテな私にとってはウンザリするほど遠く……

 南部州のハイウェイを走ると、バカでかいピックアップ・トラックやステーションワゴンがやたらと目に付く。が、私の愛車はとってもコンパクトな小型車FITちゃん。なので、「けっ、そんな小さな車でチンタラ走ってんじゃあねーぞ」とばかりにあおり運転をされることも多く……


 そんなワケで、週に1度の生活圏外へのドライブは、心がどーんと重くなる要因の1つとなりつつある。とは言え、こんなご時世でも私のリハビリに付き添ってくれる理学療法士さんには、只々感謝。車の中でどれだけ「ひゃあああっ!」と悲鳴を上げようが、頑張って通い続けようと思っている。



 先週の月曜日もリハビリの予定が入っていた。予約時刻は午後11時半。

 出勤する相方を玄関先で見送った後、愛犬サスケを裏庭に出して遊ばせ、愛猫シュリの「朝の運動会」に付き合いながら、出掛ける支度をゆっくりと始める。

 シャワーを浴びて、髪を乾かし終わったところで、くらり、と目眩めまいがした。ほんの一瞬だったので「寝不足かな?」と思ったくらいで、そのまま鏡を覗き込んでマスカラを塗り始めた。右目を塗り終えて、左目に取り掛かろうとした時──


 ぐるーり、ぐるりと目の前が回り始めた。



 あれ? いや、ちょっと……これ、マズイんとちゃう? 

 以前、牡蠣カキにあたって寝込んだ時、確かこんな感じやったよね? でも、牡蠣なんか食べてへんし。

 ただの貧血? それとも、寝冷え? 

 うへえっ、世界がぐるぐる回ってる、気持ち悪い……

 


 そんな思いが頭の中でぐるぐる回っている間、視線の先もぐるぐると回り続けている。例えるなら、家の中に居ながら「乗り物酔い」の状態。

 とうとう自力で立っていられなくなり、床に座り込んでしまった。腹痛は全くないので食あたりではなさそうだし、熱っぽいわけでもない。むしろ、寒気でガタガタと震えるほど。

 なんとか立ち上がってフラフラとベッドまで歩き、目眩が治るまで……と、横になったものの、いつまでたっても天井はぐるぐると回り続けている。


 

 マズイやん、こんな状態で車の運転なんて、絶対ムリやし!

 予約のキャンセルせなあかん……でも、動けへん。動いたら吐きそうやもん。

 あかん、ベッドの中で、それはマズイ……



 まだこの時は、あれこれ考えるだけの余裕があった。  

 幸い、iPhoneはベッドの上に置いたままだった。相方に『緊急事態。電話して!』とメッセージを送った後、「ベッドで吐いたら、シャレにならん」との思いで、様子を見ながらゆっくりと起き上がる。が、目眩は治まるどころか酷くなる一方で、真っ直ぐ歩くことさえ出来なくなっていた。

 不自然に傾く身体を壁に預けるようにして、ずるずると伝え歩きでなんとかトイレに辿り着いた途端、たまらず、何度も吐いた。吐くものがなくなっても吐き気は止まらず、視線を動かした先の景色がぐるぐると回り続けている。その場に座り込んで目をつぶっても、大荒れの海を漂う小さなボートの中で揺すられているような感覚を覚えて、気持ち悪くなるだけだった。


 そうこうしているうちに、相方から電話が入った。

 『Are you OK大丈夫か?』の声に、思わず「あかん……気持ち悪くて動けへん……リハビリ、キャンセルして! 大急ぎで帰宅して!」と必死に声を上げながら、心の中で「ちゃんと英語で意思疎通が出来てるし、言葉も明瞭やから、脳がどうこうなったワケやないわね」と思いホッとしたのを覚えている。

 


 それから数10分後。「ワイフの様子がおかしいから」との理由で職場を早退した相方が、ようやく帰宅した。

 相方も、一目見て「これはヤバイ」と思ったらしい。グッタリしたワイフを(荷物のように)抱え上げて車にと、すぐさまアージェント・ケア(=アポなしで診察を受けることができる医療機関)へ。


 車が揺れる度、「も少し丁寧に……そやないと吐く!」と悲鳴を上げつつも、頭の隅っこで「あ、マスカラ、右目しか塗ってへんやん」と思い出した。

 こんな状況なのに、マスカラかよ……と、自分で自分にツッコミを入れたのは、言うまでもない。



***



 前回、左肩の痛みに耐えられずアージェント・ケアを訪れた時は、「付き添いの方は院内に入れません。車でお待ち下さい」と入り口で止められたが、今回は特にそういった規制もなく、すんなりと建物の中に入ることが出来た。まあ、足元もおぼつかないワイフを抱えて歩く相方を見て、とがめるワケにもいかなかったのかもしれないが。

 日本の病院なら、気の利く受付のお姉さんが「車椅子をご用意しましょうか?」と声を掛けてくれそうなものだが、ここはアメリカ。必要なものは自ら行動しなければ得られない。が、そんな気力は全くないし、相方は私を(荷物のように)抱えたままでも特に問題なさそうだ。


 待合室の椅子の背には、1つ置きに『”Social Distancing” in Practice. Please Do Not Sit.(ソーシャル・ディスタンス実践中。この席には座らないで下さい)』と書かれた紙が貼られている。パンデミック以降、どこの医療施設でも見かける風景だ。

 二人掛けのソファに私を座らせると、相方はそのまま受付へ。

 ぐるぐると回り続ける視界の中でも、かなり多くの人が待合室の中に居るのが分かった。


 

 うわあ、これ、かなり待たなアカンのちゃうかなあ。

 ううっ、気持ち悪い。吐きそうや……



 ……などと思っていたら、受付を済ませた相方が戻って来たのと同時に、看護師さんがやって来た。両腕に大きなトライバル・タトゥーを入れた若い男性で、頬から顎にかけて伸びたヒゲを大きなマスクで隠すように覆っている。オシャレに敏感な最近の若者なんだろうな、とボンヤリ眺めていたら、名前を呼ばれた。どうやら、彼が私の担当らしい。

「診療室に案内します。車椅子、必要ですか?」



 おお、さすがは医療従事者! 必要です、必要ですよー!


 

 ……と目で訴えると、すぐに用意してくれた。オシャレに敏感なだけでなく、患者の気持ちにも敏感なんやね。白衣(実際は水色だったけど)の天使さん、ありがとう。

 


 診療室に入った後、看護師のお兄さんは私の熱と脈拍を測り、簡単な問診を済ませ、「すぐにドクターが来ます」と言って立ち去った。

 が、いくらも経たずに戻って来ると、もう1度、脈拍を測り、「時間を置いて、あと数回測ります」と言って、何度も診療室を出たり入ったり。その度に、「立ち上がって」「座ったまま」「ベッドに横になって」と体勢を変えて測るのだけれど、目眩と吐き気でフラフラな私にはかなりツライ……

 思わず「吐きそう」とつぶやくと、すぐそばの棚から何かをサッと取り出した。「はい、これ。必要な時に使って下さい」と手渡されたのは、いわゆるエチケット袋のようなものだった。 


 

 おお、このお兄さん、とっても無表情やけど、とっても気が利く!

 


 「何度も脈拍を測るのは、なんでやの?」と疑問に思いながらも、日本人と比べて大雑把な人が多いアメリカでは「気配りが出来る人」との遭遇率はとっても低いので、久しぶりに感動。

 お兄さんと入れ違いに、今度は女性の看護師が登場。「採血をします」と言って淡々と作業を終えた後、「これに着替えて」と検診衣を渡された。

 

 その後、ようやく担当の女性医師がやって来た。親しみやすい雰囲気とステキな笑顔に、なんだか見覚えがあるような……と思っていたら、以前、全身に蕁麻疹じんましんが出た時にお世話になったドクターだと判明。

 始終ニコニコ笑いながら問診し、電子カルテに打ち込みながら相方にも色々と話しかけ、またカルテに打ち込んでいく。とっても情報収集が上手い。

 かかりつけ医制度のあるアメリカでは、アージェント・ケアにやって来る患者の殆どが「一見いちげんさん」だ。そんな患者を初見で診て的確な判断を下すには、医師としての腕はもちろん、洞察力と人間観察力、加えてコミュニケーション能力が相当高くないとダメないんだろうなあ……と、またまた感動。

 ドクターの気持ち良い対応に、心なしか、目眩も吐き気も治まってきたような気がしたのだが……

 

「じゃあ、これから心電図を取りますね」

 


 ……なんですと?


 脈拍、採血の次は……心電図? 


 もしかして、私、相当深刻な状態なん?

 いや、ちょっと……マズイやん! 来週木曜日のサンクスギビングの準備、何も出来てへんし! リハビリが終わった後、スーパーマーケットでハムの塊を買おうと思ってたのに……サンクスギビング前のハム争奪戦に出遅れたら、2人家族サイズの小さなハムが手に入らへんやん! 


 

 こんな状況なのに、サンクスギビングかよ……と、自分で自分にツッコミを入れたものの、むくむくと湧き上がる不安は拭えない。

 心電図の測定が終わり、ドクターが立ち去った後、ずっと眉間に皺を寄せたままだった相方が口を開いた。

「なんだか検査ばかりだなあ……まだ、吐きそう?」

 言われてみれば、心電図の測定が終わってベッドから起き上がる時、さほど目眩を感じなかったし吐き気もない。

「あれ? なんか、ずっと楽になった気がする……」


 なんでやろうなあ、と不思議に思いながらも、ようやく気持ち悪さから解放されてホッとしながら着替えを済ませて待っていると、しばらくしてドクターが戻って来た。

 

「検査結果が出ました。当初、Heart attackの疑いがあったのですが、大丈夫、問題ありませんね」



 ……なんですと? 


「ハートアタック」……って?

 

 ひょっ……ひょえええええええっ!!


 それって「心臓マヒ」? 

 それとも「心筋梗塞」? 

 「心不全」? 

 違いが分からーん! 

 どっちにしても、ムチャクチャ深刻やん!

 


 本当に心臓マヒを起こすかと思うほど、驚いたのなんのって……思わず相方に視線を向けると、彼もかなり驚いた表情を浮かべている。

 ドクターは相変わらず、ニコニコ笑顔。

「頭痛や耳鳴りはないのよね? ちょっと耳をチェックさせてね」

 そう言って、何やら器具を取り出して私の両耳を覗き込む。



 ……なぜに、耳?



 ワケが分からないまま、「じゃあ、もう一度、ベッドに仰向けに寝て下さい」とドクターに促された。

「私の言う通り、ゆっくりと頭を動かしてね。まずはそのまま、天井を見つめて10秒数えて下さい……次は、ゆっくりと右を向いて、そのまま10秒……はい、ゆっくりと頭を戻して天井を見つめて、そのまま10秒……今度は、左を向いて10秒……これで1セット。これを3セット、ゆっくりと繰り返してみて」

 まだ少しだけ目眩がしていたけれど、言われたとおり、右へ、左へとゆっくりとして動作を繰り返してみると……


 すうっと気分が良くなった。

 ウソのようなホントの話だが、目眩もスッキリ治まった。


「やっぱり、耳が原因の回転性の目眩と吐き気ですね。最近、多いのよ」

 ドクターのニコニコ笑顔が、一瞬、曇ったような気がした。

「つい最近、私の娘もあなたと全く同じ症状だったの。高校生なんだけど、パンデミック以来、ずっと外出自粛とオンライン授業でしょ? 平日はPC画面を見つめながら授業を受けて、それが終わったらiPhone画面に釘付けで……1日中、運動らしき運動もしないで同じような体勢のまま。休日は昼過ぎまで起きてこないし……そんな生活をずっと続けていたら、若くても身体がおかしくなっちゃうのよね」


 新型コロナウィルス感染拡大による自粛生活が、思いがけない弊害を生み出しているということか。


「また目眩が始まったら、さっきの動きを繰り返してね。それから、なるべく身体を動かすようにして。じっとしていると、目眩が余計に酷くなるから」

 

 これまたビックリ。ぐるぐる目を回している時は「動きたくない。動いたら吐く!」となるのが普通だけれど……


「耳が原因の目眩の場合は、頭を動かさないと良くならないのよ。念のため、目眩を抑える薬を出しておくわね。もし、金曜日までに状態が良くならなければ、かかりつけ医に相談して下さいね」

 そう言いながらカルテを打ち込むドクターから「他に質問は?」と聞かれ、思わず身を乗り出した。

「本当に、シリアスな病気じゃないんですね?」

 ニコニコ笑顔で「大丈夫、心配ないわ。お大事に」と言われ、ようやくホッとした。



 薬のおかげか、動けない程の酷い目眩からは、その日のうちに開放された。

 ぐるぐると目が回り始めると、頭の運動を繰り返せば、すうっと楽になった。それでも、いつ目眩が起こるか見当もつかない状態だったので、しばらくの間、車の運転とサスケとの散歩をあきらめることに。

 PCもiPhoneも、出来る限り触らないようにした。

 そうするうちに、日に日に目眩の回数も減り、かかりつけ医の予約を取る必要もなくなった。それでも、「ここ数日は目眩も全くしないから、車の運転も大丈夫かな」と思えるようになったのは、翌週の月曜日(11月23日)だった。


 サンクスギビングのハム争奪戦に完全に出遅れたのは、言うまでもない。



***



 私が目眩のために「外出自粛」を余儀なくされている間も、当たり前だが、世情は刻々と動いていた。


 バイデン氏の勝利宣言以降、ニュース番組がこぞって取り上げるのは、自らの敗北を認めぬまま多くの州で訴訟を起こし、得票の再集計を要求し続ける現大統領の姿ばかりだった。

 が、再集計を行っていた各州でバイデン氏の勝利が続々と認定されると、報道の姿勢と国内の雰囲気が少しずつ変わり始めた。


 まず、『コロナウィルス感染拡大が最悪の状況になりつつある現在、懸念すべきは大統領選挙における不正疑惑などではなく、サンクス・ギビング休暇前後の「国民の大移動」だ』との報道が日に日に増えていく。

 親元から離れて暮らす大学生や社会人が休暇を利用して実家に帰省する際、「サイレント・スプレッダー(silent spreader=無症状でありながら検査をすると陽性となる人)として無自覚のままウィルスを撒き散らし、より深刻な感染拡大を引き起こす可能性も指摘され始めた。

 テレビやラジオをつければ、「自宅で過ごそう(Stay home)」「マスクを着けよう(Wear a mask)」「ソーシャルディスタンス」などの聞き慣れた標語を何度も見聞きし、ドラマやテレビCMの登場人物もマスクを着用し、コロナ対策のイメージ戦略に一役買っている。


 11月23日、バイデン氏への政権移行手続きが開始されると、その動きが一層顕著になった。


『自分が帰省することで、両親や祖父母を感染の危険に晒すかもしれない。だから、移動する数日前に検査して、陽性だったら帰省は諦めるよ』

 親元から遠く離れて暮らす大学生の、少し悲しそうな表情でインタビューに応じる姿が、ニュース番組で日に何度も流された。

 ニュースキャスターや人気番組の司会者達は、事あるごとに「休暇を安全に過ごすためにも、外出や長距離の移動は自粛しましょう。Stay home, stay safe!」と繰り返した。


 アメリカ人にとってのサンクスギビングは、家族や親戚、友人達に囲まれてワイワイと賑やかに過ごす楽しい祝日だ。サンクスギビングの翌日は「ブラック・フライデー」。クリスマス商戦の幕開けでもある年末大特価大セールのこの日を心待ちにしているアメリカ人も少なくない。

 そんな中、「今年は非常事態だから」と大学寮やアパートの自室に留まると決めた若者も多い。幼い頃から家族と共に過ごすのが当たり前だったサンクスギビングを、たった一人で静かに過ごすという。彼らの勇気ある決断に、暖かな拍手を送りたい。


 ブラック・フライデー当日に買い物客が殺到し、感染拡大を引き起こす可能性も懸念されていた。

 が、店舗側もその危険性を回避すべく動いていた。

 『11月は、毎日がブラックフライデー』と銘打って、ブラックフライデー当日とさほど変わらない割引価格でセールを行っている店も多く、実店舗とオンラインショップを併せ持つ場合、「オンラインで購入して、近くの店舗でピックアップするのが一番安全です!」との宣伝も欠かさない。

 我が家が利用しているペットショップなどは、オンラインで購入すれば全商品が1割引き。購入した商品は、実店舗で「カーブサイド・ピックアップ(curbside pickup=指定された駐車スペースに車を停めると、店員が商品を車まで運んでくれるサービス)」が可能。とっても便利で、とっても助かっている。ショップさん、ありがとう。


 現政権の愚行に振り回され「国家分裂の危機」「民主主義の崩壊」が危ぶまれたアメリカも、心ある人々が居る限り、必ず良い方向に動いていくはずだ。愛するアメリカを支えようと頑張る彼らに、心からの感謝を。


 「Thanksgiving is for Giving Thanks.(サンクスギビングは、感謝の気持ちを伝える日)」という言葉がある。

 面と向かって「ありがとう」と言うのは、ちょっと照れくさいけれど。いつなんどき、思いがけない事態に陥る可能性も否めない。

 こんなご時世だからこそ、いつもそばに寄り添ってくれる大切な人に、心からの感謝を伝えよう。 



『私は、家族も友人も、今まで築いてきたキャリアも、今、手にしている全てのものを手放して、あなたの国に移住する。だから、あなたは、私を全力で支えて下さい』 

 そんなワガママをしっかりと受け止めてくれた、許容範囲無限大の相方へ。

 看護師のお兄さんのように気が利くワケでもないし、ドクターのようにコミュケーション能力が高いワケでもないけれど。


 いつも私を全力で支えてくれて、ありがとう。


(2020年11月30日 公開)

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