ヤマトナデシコのジレンマ(後編)

『どうあがいても、僕らは分かり合えない。キミと一緒に歩む未来が見えないんだ。悲しいね、あの時、僕らはあんなにも一つだったのに……愛していたよ、アメリカ。でも、もう終わりにしよう。僕のことは心配しないで。あの時みたいに、また新しい国を作れば良いんだから』


 植民地のがイギリス本国との戦いに勝利し、正式に独立国家として認められてから80年にも満たない1861年の春。北米大陸の新国家「アメリカ合衆国」は分裂の危機に瀕していた。

 大規模農園プランテーションが経済の基盤だった南部11州が、それを支える黒人奴隷制度を存続させるべく合衆国を脱退。新たに「アメリカ連合国 (Confederate States of America)」を結成したのが事の発端だった。


 一方的に別れを切り出す身勝手な男よろしく「もう一つのアメリカ」の建国を宣言した南部州と、急速に工業化が進み、必要な時に必要なだけの労働力を雇い入れる「自由労働」によって経済が成り立っていた(故に、奴隷制度とは相容れない)北部23州の対立が激化。異なる考えを持つ二つの陣営は互いに一歩も譲らず、挙げ句の果てに殺し合いを始めるという最悪の事態を引き起こした。

 南北戦争(American Civil Warアメリカの内戦)だ。



 昨日までトウモロコシが豊かに実っていた大地が、砲撃の轟音が鳴り響く戦場となり。

 住み慣れた家は断りもなく占拠され、野戦病院や前線基地へと姿を変え。


 生まれ育った村を焼かれて行き場を失った人々は、降り注ぐ砲弾の雨の中を逃げ惑うしかなかった。

 南北両軍が進軍する先々で、兵士のみならず一般市民をも巻き込みながら行われた戦いは、アメリカが今日までに体験した戦役史上、最悪の犠牲者数 (軍人:60万人以上、民間人:5万人以上)を打ち出す結果となった。

 第二次世界大戦における米軍人の戦死者総数(約40万人)をはるかに上回る命が奪われた内戦は、アメリカの大地に癒えない傷痕を残している。



 バージニア州の首都リッチモンドは、かつて「アメリカ連合国」の首都だった。そのため、現在でも州内には南軍信奉者が数多く存在する。『抵抗の歴史』を誇りとする南部特有の白人至上主義と有色人種に対するあからさまな差別意識も、こうした土壌があってのことだ。



***



 相方が『絶対に行きたい!』観光地リストの2番目は、ワシントンD.C.からポトマック川を渡ってすぐのバージニア州に位置する「アーリントン国立墓地(Arlington National Cemetery)」。

 1864年に南北戦争の戦没者のために築かれた墓地には、建国から現在に至るまでアメリカが係わった全ての戦争で命を落した兵士30万人以上が埋葬されている。

 実はここ、南北戦争以前は、南部連合国の軍司令官ロバート・エドワード・リー将軍の大農園と邸宅があった場所だったりする。『アーリントン』とは、リー家が所有していた私有地の名だ。

 「川を渡った向こう側は、北軍の首都」という非常に微妙な場所にあったことが、アーリントンの運命を大きく変えることになる。



 軍人家系に生まれ、自身も職業軍人だったリーは、リンカーン大統領から合衆国陸軍(=北軍)の司令官就任を要請されながら、愛する故郷バージニア州と運命を共にすることを選び、合衆国軍を辞任。家族を引き連れてリッチモンドに赴き、連合国軍(=南軍)に身を置き、敵の意表をつく攻撃と機動力で北軍を翻弄し続けた。

 『合衆国を裏切って南軍に寝返った以上、(北軍の首都とは目と鼻の先の)アーリントンには戻って来れないよね?』とばかりに、北軍はリー家の土地と屋敷を占拠。戦死者の埋葬スペースとして利用し始めた。

 リー将軍の邸宅周辺を戦死者の墓で埋め尽す、という北軍の執念から始まったアーリントンの埋葬地は、やがて国立墓地へと発展し、国内はもとより世界中から観光客が押し寄せる「アメリカ一有名な墓地」へと姿を変えた。


 アーリントン国立墓地を見下ろす小高い丘の上に佇むギリシャ神殿のような建物が、リー家の邸宅跡「アーリントン・ハウス」だ。北軍に占領されたことで結果的に戦火を免れ、1966年にアメリカの国家歴史登録財に指定された。

 アーリントン・ハウスと共に「アメリカ史上屈指の名将」の名が後世に語り継がれることになったのは、歴史の皮肉としか言いようがない。



 

 相方が『絶対に行きたい!』観光地リストの3番目「ハーパーズ・フェリー(Harpers Ferry)」は、1800年代の街並みと歴史的建造物が保存されたタイムカプセルのような小さな町だ。

 入植者の生活に欠かせなかった店舗を再現した博物館や、お土産屋さん、可愛らしいカフェなどが軒を連ねる町の中は、車の乗り入れが制限されていることもあって、観光地とは思えないほどの静けさだ。都会の喧騒を離れてのんびりするにはもってこいだ。自然に囲まれた国立公園なので、ハイキングも楽しめる。


 そんな長閑のどかな場所にさえ、南北戦争時に穿うがたれた砲弾痕が石塀や家屋の壁に残されている。

 実は、ハーパーズ・フェリーにはワシントン大統領の命令で合衆国軍の兵器廠へいきしょう(=兵器の購入・保管・修理などを行う機関)が置かれていた。おまけに、ポトマック川を渡るための鉄道橋もある。南軍からすれば、喉から手が出るほど欲しい拠点だ。

 1862年9月12日に始まった『ハーパーズ・フェリーの戦い』で、三日間に及ぶ激しい攻防の末、南軍部隊が北軍守備隊を降伏に追いやった。南軍を指揮していたのは、他ならぬリー将軍だ。


 ここからアーリントンまでは、車で約1時間。馬を走らせれば半日で辿り着くだろう懐かしい土地が、北軍によって戦死者の埋葬地にされてしまったことなど、この時のリーは知る由もなく。



***



 二つの戦争(=独立戦争と南北戦争)を経験したアメリカ東南部には、数多くの戦争の傷痕が残されている。東部戦線の主戦場となったバージニア州などは、有名な史跡のほとんどが古戦場だ。


 広大な古戦場を見学する場合、必然的に車での移動となる。国立・州立を問わず、公園内には公園管理官パーク・レンジャーが詰めるビジター・センターがあるので、先ずはそこに立ち寄って、『Self-guiding Tour Information(=車で古戦場を回るための観光ルートと観光スポットの情報が記載された地図)』を手に入れよう。

 地図上の道路は色分けされ、そこに番号と名称が記載されている。その地図を片手に、道路上に示された「Self-guiding Tour」の標識を番号順に辿りながら車を進めて行く。車内から見渡すだけのスポットもあれば、道路脇にパーキングエリアが設けられている場所もある。歴史的に重要なポイントには、写真や図式と共に解説文が記された案内板が設置されている。



 相方が『絶対に行きたい!』観光地リストの4番目「アンティータム国立古戦場(Antietam National Battlefield )」も、そんな古戦場の一つだ。

 

 重なり合った波頭はとうのように白く輝く雲間からのぞく、紺碧の空。

 地平線の果てまで平がるトウモロコシ畑の緑が、行き交う風にさわさわと揺れている。その合間を縫って、こんもりとした木々が寄り添い合い、やがて小さな森となる。そんな大地に、ぽつり、ぽつり、と置き忘れられたような白壁の家屋──


 畑の間を真っ直ぐ貫く砂利道を、白い土埃つちぼこりを立てて進む車の中から外を眺めているうちに、なんだか奇妙な感覚を覚えた。一見すると長閑のどかな農村の風景が、とてつもなく不自然に見えたからだ。

 まるで、巨大な「箱庭」のよう。


 

 南北戦争中、「最も血塗られた日(the bloodiest day)」と表現される「アンティータムの戦い(Battle of Antietam)」は、たった12時間で終結しながら、両軍合わせて2万3000人もの死傷者と行方不明者を出す凄惨なものだった。単日の戦闘としては、ノルマンディー上陸作戦やアメリカ同時多発テロ事件をはるかに上回る犠牲者数であり、合衆国の軍事史上、最悪の損失とされている。

 静かな農村だったアンティータムは、たった1日で硝煙と血の匂いが漂う戦場と化した。戦闘の大半がトウモロコシ畑で行われ、そこで命を落した兵士達の遺骸は何日も放置されたままだった。農家の家屋や教会は負傷者を収容する野戦病院として接収され、農地は戦死者を埋葬するために掘り起こされたという。

 

 

 収穫を終えて黄金色に変わったトウモロコシ畑で、朽ちた茎葉を刈り取る作業に駆り出された大型重機が、ごおごおと大きな音を立てながら忙しそうに動き回っている。

 アンティータムの古戦場では、南北戦争当時の農村の様子を出来るだけ再現・保存するために、周辺の農家に公園内の土地を貸与し、当時と同じ作物を栽培するよう委託しているのだとか。


 なるほど、やはり、ここは「箱庭」だ。

 時折、道端に置かれた追悼碑を目にしなければ、かつてここで戦争があったなどとは思いもしない。アメリカ南部でよく見かけるプランテーション跡にも似た、切ないほどに美しいニセモノの田園風景。



 観光ルートの両脇に広がるトウモロコシ畑を眺めていたら、さわさわと風の渡る畑を背にして佇む兵士の彫像が目に入った。相方も気づいたらしく、路肩に車を寄せた。

 立派な軍服に身を包んだその兵士は、凛とした表情で遠くを見つめている。

「この人、もしかして」

「リー将軍だね」

 南北戦争の資料に必ず現れる『南軍の名将』の肖像画。おかげで、彼の顔は私の脳裏にしっかりと刻み込まれている。

 アンティータムでも、リーは北バージニア軍の指揮官として参戦していた。


 奴隷制度に反対だったにも関わらず、生まれ故郷を守るという想いに突き動かされてを率い、『敗戦の将』となったリー。軍人としての自分を育んだ合衆国軍に敵対し、元は仲間だった兵士達を殺すために指揮した戦闘の記憶は、生涯に渡って彼を苦しめたという。

 そりゃそうだ。「日本国民でしょ? 愛する故郷を守るために戦いましょう。敵はアメリカ! え? 『相方はアメリカ人』? だから何? 戦争なんだから、割り切っちゃって!」なんてことを言われても、絶対にムリだもの。


 そんな彼を、白人至上主義者達は「奴隷制度を守るために戦った南部の英雄」とあがめ立て、人種差別撤廃グループは「人種差別を助長した南軍の象徴」と非難する。アメリカの歴史を冷静な目で理解しようとする人々からは「人間的にも、軍人としても、尊敬に値する立派な人物」と評価されているにも関わらず、だ。

 相容れぬ二つの思想。かつて、それが内戦を引き起こしたことなど考えもせず、過去の過ちに学ぼうともしない。

 天国のリー将軍も「相変わらず、困ったもんだ」と頭を抱えているに違いない。




 さて、相方が『絶対に行きたい!』観光地リストの最後は、「ゲティスバーグの古戦場(Gettysburg Battlefield)」。

 相方は、自他ともに認める歴史オタクの古戦場マニアだ。暇さえあれば近くの戦跡や古い砦跡とりであとに出掛けるし、古戦場巡りが目的の旅行なんぞ、珍しくもない。

 とは言え、私の目にはどこの古戦場も同じに見える。

 ただっ広い野原に、大砲や追悼碑がちょこちょこと置かれ、小さな案内板がひっそりと置かれているだけ。おまけに、風をさえぎるものがほとんどないので、真冬などは吹きさらしで身体の芯まで凍えてしまう。反対に、真夏に行けば熱中症の危険にさらされる。

 よくこんな場所で戦闘が出来たものだ、と当時の兵士達の苦難を実体験するにはもってこいだが、お世辞にも快適な観光地とは言えない。

 

 ……が、ゲティスバーグの古戦場は一見に値する。


 南北戦争史上最大の激戦地であり、『人民の人民による人民のための』の一節で有名なリンカーンの演説が行われたゲティスバーグは、アメリカ建国史で重要な役割を担った場所として人気の高い観光名所だ。

 1863年7月1日から3日間に及ぶ「ゲティスバーグの戦い」で戦闘が行われた殆ど全ての領域が保存され、ケタ外れのスケールで観る者を圧倒する。



 「ゲティスバーグ国立軍事公園(Gettysburg National Military Park)」「ゲティスバーグ国立墓地(Gettysburg National Cemetery)」からなる古戦場の総面積は、約24平方キロメートル。そう言われてもピンとこないので調べてみたら、「東京ドームが521個入る大きさ」だとか。

 公園内に張り巡らされた観光ルートは約約65キロメートル。またもピンとこないので調べてみたら、高槻市から名神高速道路経由でJR湖西線「近江舞子駅」までの距離とほぼ同じと判明。

 大阪から京都を抜けて琵琶湖の北側真ん中あたりまで及ぶルートを車で回る際の所要時間は「少なく見積もって3時間以上」と地図の片隅に書かれてあるのを見て、相方が苦笑する。

「車を走らせる時間が3時間、ってことは……全部の観光スポットを回るには、半日以上かかるなあ」

 ゲティスバーグ古戦場の場合、車内から眺めるだけでなく、実際に自分の足で歩いて散策すべきポイントが圧倒的に多いからだ。相方が「ゲティスバーグ市内で一泊する」と言った時には「たかが古戦場一つのために?」と呆れたが、なるほど、そういうワケか、と納得した。

 

  

 砲撃の激しさも南北戦争史上最大だったが故に、戦闘に巻き込まれたゲティスバーグの町は壊滅状態となった。

 7800人を超える戦死者とおびただしい数の動物の死骸が至る所に散乱し、3万人以上の負傷者を収容・治療するために一般家屋や公共の建物が急ごしらえの野戦病院となった。

 初夏の戦場に置き去りにされた遺骸が発する腐敗臭が辺りに漂い始めると、その大半が倒れていた場所にそのまま埋葬された。

 

 アンティータムが「穏やかな温もりに包まれた日々」の再現だとすれば、ゲティスバーグは「絶望的な終焉の地」だ。あるいは、果てしなく広がる埋葬地、と言うべきか。とにかく、目にする全てのものから悲壮な想いが伝わってくる……そんな場所だ。

 公園内には、戦闘時の状況を再現するために400門もの大砲が配置され、およそ1400基にも上る追悼碑や従軍記念碑が様々な場所に置かれている。


 戦場で息絶える寸前の兵士と、その頭上で翼を広げて見守る天使。

 女神と思しき女性に鼓舞されるようにして武器を構え、突撃の姿勢を取る兵士達……息を呑むほど美しい石碑や銅像が立ち並ぶゲティスバーグの古戦場は、まるで『屋外美術館』だ。

 命のはかなさを浮き彫りにした彫像と、多くの命を奪った青銅色の大砲が、同じ緑の原野に置かれている。その光景はとっても絵になるけれど、それは、冷たく虚しい美しさでもある。

 


 追悼碑が点々と置かれた岩場を散策しながら「ここは、通称『悪魔の棲み処(Devil's Den)』。兵士の遺骸が岩場に挟まったまま放置されていたんだ」と、相方が神妙な声で告げる。

 歴史オタクの彼は、史跡では私専属のツアー・ガイドとなるのが常だ。

 小高い丘を見上げる小径こみちを歩きながら「ここは『死の谷(Valley of Death)』。戦死者の血で、そこの小川が真っ赤に染まったんだ」と熱心に解説する相方の隣で、周囲の観光客にちらりと目を向けてみた。


 インスタ映えする写真を撮るべく、石碑を背にポーズを決めてみたり。

 岩場に座り込み、目の前に広がる雄大なパノラマを楽しみながらピクニックを始めたり。


 なんとも自由気ままに古戦場を楽しんでいる模様。「沖縄の平和祈念公園で、変顔で自撮りする修学旅行の学生のノリやね」などと思いつつ。

 ここで多くの命が犠牲になったことに胸を痛める人が、どれほどいるのだろう……

 気になったので、相方に聞いてみた。

「アメリカにもゴースト・ツアーってあるやん? あの『ゴースト』って、この世に未練を残したまま亡くなった人の霊魂のことやんね? 強い思いや恨みを残したまま『死』を受け入れられない霊魂は、亡くなった場所に留まり続ける……って、日本では考えるんやけど」

 相方が、ちょっとの間、考え込むような素振りを見せる。

「僕はキリスト教徒じゃないし、日本に住んでいたからキミが言わんとすることは分かるんだけど……アメリカで、その質問はしない方が無難かな。死後は神様の国で祝福を受けて暮らすものと信じている人達に、天国とは異なる『死後の世界』について語ったところで、理解してもらえないからね」 

 どうやら私、宗教的禁忌の地雷を踏みかけたようだ。



 車に戻った後、相方がもう少し詳しく教えてくれた。

 日本の怪談につきものの『浮遊する霊魂』や『怨霊』。それらは、キリスト教では『悪魔』や『悪霊(Legion=堕落してしまった天使)』の範疇はんちゅうになるらしい。

 悪霊は生きている人に取り憑いたり、時には「神の御使」や亡くなった人のをして姿を現し、人間を騙して邪悪な道に引きずり込もうとするそうな。妖怪も、ポルターガイストも、心霊現象も、呪いのビデオも、全ては悪魔/悪霊の仕業なんだとか。

「だから、キリスト教圏では、日本人が言う『怨霊』や『成仏できない霊魂』は存在しないんだ」

「ちょーっと待った! じゃあ、『播州皿屋敷』のお菊さんも、『四谷怪談』のお岩さんも、『恨めしや〜』って出てくる幽霊も、ぜーんぶ悪魔とか悪霊が人間のふりをして現れたってこと?」

 『子育て幽霊』に至っては、ご丁寧に飴屋で飴を買って墓場で子育てまでしてくれたことになる。律儀な悪魔だ。



 建国期のアメリカでは、イギリスからの移民が圧倒的多数を占めていた。が、その後、ヨーロッパ諸国からも移民が押し寄せる。

 建国以来の合衆国の標語『E pluribus unum』は、ラテン語で『多数からひとつへ』という意味だ。独自の歴史も文化も持たない新しい国で、文化背景も言語も異なる人々を同国民として『ひとつ』にまとめるためには、皆が共感できる「何か」が必要だった。それが、西欧社会の基盤となったキリスト教だった。

 だからこそ、どんなに宗教と思想の自由を掲げても、アメリカ社会とキリスト教の思想は切っても切れない関係にある。



 観光ルートの終盤に現れた、ひときわ目を引く巨大な追悼碑。公園内で最大規模を誇る「ペンシルバニア州兵追悼碑」だ。その前を通る一本道の両脇に、数え切れないほどの追悼碑や記念碑が延々と続く。周囲の平原にも点々と石像が立ち並んでいる。

 「ハイ・ウォーター・マーク」と呼ばれるその場所は、ゲティスバーグで最も激しい砲撃が行われた戦場跡だ。戦闘最終日の午後、リー将軍の命で北軍陣地を目指して前進する南軍の歩兵部隊に向けて、約2時間に渡って連続砲撃が浴びせられた壮絶な大量殺戮の場だ。

 南軍が最も北軍陣地近くまで到達しながら撤退せざるを得なかった地点を、「High Water Mark(最高水位票=川などの水位を測るための、目盛りのある白い棒)」と呼ぶ。賞賛なのか、皮肉なのか、よく分からない。


 車を停めた途端、妙な肌寒さを感じた。9月の曇天の下、夏の終わりにしては確かに気温は少し低めだったけれど、Tシャツの上にフーディーという装いで、そこまで冷気を感じるはずもなく……不思議に思いながら、車を降りた。

「ねえ、なんか、急に寒くなった気がするんやけど」

 ガタガタと震える私を見て、相方は怪訝そうな顔をしながらも、後部座席に置いてあった自分の上着を渡してくれた。


 ……これって、ヤバイんとちゃう?

 ここ、ゲティスバーグの中でも激戦地やった場所やんね? 絶対、ヤバイってば!


 いや、ホントに、冗談でなく。

 どうしても、寒気が止まらない。

 日頃から、『スピリチュアルな世界』には全く興味のない私だが、この時ばかりは頭が真っ白になりかけた。

「落ち着け、私! ちょっと寒いだけやん! 霊感のカケラも持ち合わせてへんねんし、なーんにも感じませんよー。私、薄情やから、なーんにもしてあげられませんよー」

 なんとか落ち着こうと、支離滅裂な言葉を心の中で繰り返す。

 そんな混乱状態で無意識に取った行動が、『両手を合わせ、頭を下げて黙祷』だったことに、正直、自分でも驚いた。



 ふと、誰かの視線を感じて顔を上げると、若い白人女性が奇妙なものを見たとばかりの顔でこちらを凝視していた。

『多くの命が失われた場所で、その死を悼み、手を合わせる』

 日本では見慣れた仕草も、この国では異質でしかない。

 死後、誰もが「仏様」と呼ばれる思想は、キリスト教を基盤に置くこの国では理解されにくい。彼らの感覚からすれば、死後、を彼らの創造主たる「神」と呼ぶなど、あってはならないことだから。

 それでも、私が生まれ育った国では「仏様」に手を合わせるのは、ごく自然なことだ。


 「殺生は罪である」とする思想と、「神の怒りが悪しきものを滅ぼす」とする思想は、根底から相容れない。地獄行きを覚悟の上で戦場に赴いた戦国武将達と、戦場で誰かをあやめても自らの罪を懺悔すれば神に許されると信じる西欧の兵士達とでは、「命を奪う」ことに対する重みが違いすぎる。

 後になって、「ペンシルバニア州兵追悼碑」で結婚式を挙げるカップルもいる、と聞いて耳を疑った。例えてみれば、『私達、「関ケ原古戦場」で結婚しちゃいました!』的な……感覚の違いって本当にコワイ。



 郷に入れば、ある程度は郷に従うべきだとは思うけれど。

 異国の地に暮らしているからと言って、その国の色に染まってしまう必要はない。

 外国に暮らしていても、自分を育んでくれた国の慣習が無意識に表に出てしまう時だってある。そんな時、それを頭ごなしに否定するような人達とは距離を置けばいい。



 とは言え、心のモヤモヤは晴れそうもない。


 個性を尊重するはずのこの国で、自分が信じるものとは異なる思想を攻撃する、という矛盾。

 多様性を受け入れるはずのこの国で、自分とは異なる肌の色に冷ややかな視線を向け、異なる文化に偏見を抱く、という矛盾。 

 そんな矛盾だらけの国の、南北戦争以来、時間が止まってしまったような南部の片田舎で暮らしている。

 「異なる人種の異国人、なのに合法移民」という矛盾を抱えながら。



 はて、どうしたものか。悩みは尽きない。


(2019年11月12日 公開)

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