ヤマトナデシコのジレンマ(前編)

 父の四十九日も過ぎた頃。

「そろそろ相続関係に必要な書類を申請するために、ワシントンD.C.の在米日本大使館に行かなきゃ」と思い立った。



 アメリカに移住する際、日本の住民票を抹消している。

 おかげで、日本に一時帰国中も国民健康保険に入ることは出来ず、自腹で「海外旅行用医療保険」に加入する羽目になった。住民票なしでは、相続関係の書類に必要な「印鑑証明」の申請も出来ない。

 国民年金の支払い義務は住民票と共に消えたが、二十歳はたちの頃から自腹で払い続けた年金の受給額が減少することにイマイチ納得できず……結局、現在でも銀行口座引き落としで支払いを続けている。結構な金額を二年毎にどーんと引き落とされるのは、かなりイタイ。が、老後のため、と目をつむる。


 「海外に住めるなんて、ウラヤマシイ!」と送り出してくれた友人達には申し訳ないが、「海外移住」とは、日本国民として当たり前の権利を失うことだと痛感している。

 私の場合、市役所でアメリカに移住する旨を伝えると、「1年以上海外に在住する場合、『海外転出届』を出して下さい」と言われたので、素直に提出した。

 その後、銀行でも海外に在住する旨を伝えると、「日本に住民票がない方は課税が出来ないので、投資信託の口座は解約して下さい」と言われ、「今、売却したら、大損やのに……」と心の中で大泣きした。貯蓄口座は解約せずに済んだものの、これまた「課税が出来ないから」との理由で、移住と同時に凍結された。新たな入金も出来ず、状態で眠り続ける「口座」を保持していても意味ないやん……と思いつつ、現在に至る。


「アホやなあ。住民票を残したまま移住してる人、知り合いにいっぱい居るし。あんたもそうすれば良かったんよ」

 住民票がない経緯を姉に話したら、呆れ返った顔をされた。

 そうは言っても、「日本国民の権利」を維持するなら、同時に「日本国民の責任」も負い続けなければならないのだよ、姉上。


 海外に移住しても、住民票を日本に残したままであれば、日本での納税と所得の申告義務が発生する。

 たとえ移住先での所得がゼロであっても、国民健康保険の支払いは必然の義務だ。実家のある高槻市を例に取ると、収入がなくとも年間約8万円の保険料が請求される計算だ。毎年一定期間、必ず日本に帰国する予定があるなら、その支出も「仕方ない」と割り切れるかもしれないが、私のように長年に渡って帰国しない者にとっては、日本の健康保険を支払い続けるメリットは全くない。


  

「永住権を持っているってことは、国籍もアメリカなんでしょ?」

 そんな素朴な質問を受けることが多い。が、永住権=市民権ではない。あくまでも「日本国籍を維持したまま、合法的にアメリカで生活する権利と、税金を納める義務」が与えられるだけだ。

 当たり前だが、外国籍である私は、この国では選挙権がない。おバカな大統領をホワイトハウスから追い出すために必要な貴重な一票を持っていない。ああ、残念。


 有事の際、アメリカ国民ではない私を、この国は守ってくれない。「日本国民なんだから、何かあったらあなたの国に守ってもらってよね」というワケだ。

 在米日本大使館に「在留届」を提出しておけば、事故や災害などの緊急時、安否の確認や、緊急連絡、救援活動を迅速に行ってもらえるとのことで、移住後すぐに登録は済ませておいた。とは言え、相方はアメリカ国籍。万が一の時にアメリカ側と日本側の対処が異なれば、私一人で日本に帰国せざるを得ないような事態も起こりかねない。

 海外在住の悩みに加えて、国際結婚カップルの悩みが付いてくる。「そんなオマケ、要らんから!」と叫びたくなる。

 


 現大統領の移民に対する厳しい姿勢は、移民法にも顕著に反映している。

 『更新後1年経っても、新しいグリーンカードが届かない』件については以前にも述べたが、厳格化した移民法を危惧した永住権保持者が「あのバカのことだから、今に『永住権保持者に、もっと厳しい審査を! アメリカ市民権の申請枠に、もっと厳しい規定を!』とか言い出しそう」と考え、権利確保のために米国市民権(=アメリカ国籍)を取得するケースが増加傾向にあるという。生活の基盤がアメリカにあり、将来的にも永住目的で日本に帰国する予定がない場合、それが一番良い選択だと思う。

 ただし、日本は二重国籍を認めていない。国籍法第十一条によれば、『日本国民は、自己の志望によつて外国の国籍を取得したときは、日本の国籍を失う』ことになる。


 テニスの大阪なおみ選手が、東京オリンピックに向けて日本国籍を選択する申請をしたと報じられて話題になっているようだが、彼女のように「アメリカ国民の父と日本国民の母」を持つがために二重国籍となった子供は、日本の法律(国籍法第十四条)上、22歳になるまでに何れか一つの国籍を選択する必要に迫られる。大阪選手の場合、生活の基盤はアメリカなので、あくまでも東京オリンピック出場のための一時的な処置なのだろうが……

 「一時的な処置って、どう言うことよ?」と言うツッコミも少なからずあるだろう。

 彼女のようなケースは、規定の期間を越えても日本国籍を選択しなければ、日本の国籍を喪失してしまうのだ。


 自国に愛想を尽かして外国に飛び出す日本人も増えているようだが、日本は「世界で最も国籍取得が難しい国トップ5」に名を連ねるほど、外国籍の人からすれば魅力的な国。もちろん、トップ5のひとつはアメリカだ。

 そんな貴重な日本国籍を失わずに、もう一つの国籍を同時に維持する簡単な方法がある。


『アメリカ国籍を持っているなら、何が起きようと、それをキープする』


 それだけのことだ。


 個人の自由と権利を法律で保障しているアメリカでは、二重国籍も法律上認められている。故に、外国の市民権取得を宣言したところで、アメリカ国民としての権利を放棄したことにはならない。

 アメリカ国民、ムッチャお得やん。


 一方、日本の国籍法第十六条には『(日本の国籍を選択し、かつ、外国の国籍を放棄するという)選択の宣言をした日本国民は、外国の国籍の離脱に努めなければならない』とある。要は、「日本国民になる、って決めたんだから、外国籍はもう必要ないでしょ? ちゃっちゃと捨てちゃって」と言うことだ。

 が、この第十六条、「日本国籍になったんだから、外国籍を放棄する努力くらいはして下さいな」的グレーゾーンらしい。「努力はしてるけど、まだ(故意的に)外国籍を放棄してません。多分、このまま放棄せずに(ごにょごにょ)……」というパターンも意外に多いのだとか。

 このあたり、アメリカ在住の日本国籍保持者としては、とっても損した気分。だからこそ、「アメリカに帰化しよう! 国籍は変わっても、日本人だという事実に変わりはないんやし。将来、日本に帰国したくなったら、アメリカ国籍を保持したまま、日本の永住権を申請すれば良いことやん」と考える在外(元)日本人が、今後もどんどん増えるような予感がする。

 


 「住民票ないけど日本国民」「合法移民だけど外国籍」と言う、どっちつかずの宙ぶらりんな立ち位置に色々と不満はあるけれど。

 現在のところ、日本国籍を失ってまでアメリカ市民権を取ることに、全く魅力を感じない。


 試しに、ちょっと想像してみよう。


『日本に(ここがポイント。「帰国」ではなく「入国」)する際、アメリカのパスポートを携えて、外国人観光客の列に並ぶ……』


「あかんわ。違和感しか感じへんし」

 ……という結果になった。


 どうやら、私は骨の髄までヤマトナデシコらしい。



***



 さて、住民票を持たない海外在住日本人が「印鑑証明」が必要となった場合、どうするか。


 心配無用。それに代わる「署名証明(=サイン証明)」があれば事足りる。

 「署名証明」は自分の居住地域を管轄する日本大使館/総領事館で申請すれば、当日に交付が可能な書類だ。私が住んでいるバージニア州を管轄しているのが、ワシントンD.C.の日本大使館だ。

 「現在、日本国外に住んでます」という証明が必要ならば、「在留証明」を申請する。この書類が、日本の住民票を持たない海外在住者の「住民票(仮)」となるワケだ。

 ただし、どれだけ遠方であろうと、申請者本人か代理人が窓口まで出向かなければならない。我が家からワシントンD.C.までは、車で片道約4時間。とっても面倒臭いし、日帰りで行くには少々遠すぎる。


「それなら、有給休暇も溜まってることだし、ワシントンD.C.近辺をのんびりドライブ旅行でもする? 二人で旅行するのも久しぶりだしね」

 そう言って、相方は本棚からガイドブックを取り出して、パラパラとページを繰り始めた。

 このところ、じめじめとカビが生えそうなほど陰気臭かったワイフを、陽の光の下に引きずり出して虫干しする絶好のチャンス、とでも思ったのだろう。普段は口数が少なく無愛想なクセに、時にさり気ない気遣いを見せる相方に、感謝。


 

 旅行に出掛けると決めた時点で、ガイドブック片手にインターネットで情報を調べながら、相方と二人、あーでもない、こーでもないと話し合いながら目的地とアクティビティ旅のお楽しみを決めるのが、我が家の習い。

 今回は「在米日本大使館で必要書類を申請する」というミッションがあるため、目的地は既に決定事項……なのだが、D.C.近郊は既に何度も訪れているので新鮮味に欠ける、と言うのが本音だったりする。

「あのエリアでまだ行ってない場所って、アーリントン墓地くらいとちゃう?」

「そうでもないよ。ちょっと寄り道しながらD.C.に入って、そこから少し北上してペンに行くのも良いかもね」

 ペン、とはペンシルバニア州のことだ。

 はて、そこに何があったっけ……と首を傾げる私をよそに、相方は早速キーボードを叩いてドライブ・ルートを検索し始めた。

「色々と行きたい場所があるんだ」

 なんだかとっても楽しそうなので、今回の旅の行程は相方に丸投げすることにした。


 

 オマケとして『日本大使館で書類を交付してもら』という項目が付け加えられた感たっぷりの「相方の、相方による、相方のための」旅程は、バージニア州の自宅を車で出発し、ワシントンD.C.、ウェスト・バージニア州、メリーランド州、ペンシルバニア州を巡る4泊5日の長距離の旅ロード・トリップだ。寄り道せずにハイウェイを走ればペンシルバニア州までは片道約390キロ。ちなみに、実家のある高槻市から「新東名高速道路」を経由して小田原までが400キロの道のり。


 余談だが、高槻市は市営バスの路線が驚くほど発達しているため、車がなくても日常生活に支障をきたすことはない。おかげで、運転免許証は持っているものの、アメリカに移住するまでの私は、ほぼペーパードライバー状態だった。

 ニューヨークやD.C.などの大都市ならば、地下鉄やバスが全域に張り巡らされているので車を保有する必要はないだろうが、アメリカ南部の片田舎では、車は命を繋ぐ上で必需品だ。食料の買い出しはもとより、病院や友人宅に行く際も車がないと始まらない。

 とは言え、公共交通機関に慣れ切っている私としては、なるべくなら運転はしたくない。


 ある時、車で5分ほどの距離にあるスーパーマーケットまで運動がてら歩いて行こうとしたら、「あらゆる意味で危険だから、絶対にやめてくれ」と相方に懇願された。おまけに、「車で移動の際、必ず全てのドアロックが掛かっているか確認すること。絶体、忘れたらダメだよ」と念を押された。

 自分の居住区の数ブロック先に『あらゆる意味で危険』な地域が存在するなどとは考えたくもないが、人種差別に基づく教育格差と貧富の差が激しいアメリカ南部では、発砲事件や強盗が日常茶飯事の区画が存在するのも否めない。小さな田舎町とは言え、ここは犯罪大国アメリカ。あらゆる危険性を常に考えて行動しなければならない。


 そんな土地で私が運転するのは、「日常生活を送る上で絶対に必要な空間」のみ。遠方へのドライブとなると「運転手は相方。ナビを務めるのは私(とGoogleマップ)」と相場が決まっている。



***

 


 ワシントンD.C.滞在2日目。

 予約時間どおりに日本大使館を訪れ、無事に必要な書類を手に入れたのは、正午を少し過ぎた頃だった。


 人間、ホッとしたらお腹が空くものだ。

「先にお昼ご飯食べてから、次の目的地に行かへん?」

「うーん……ここからだと、アーリントン国立墓地が目と鼻の先なんだよな」

 大使館の敷地内に車を停めたまま、運転席でiPhoneの地図アプリを凝視していた相方は、どうやら私の提案を聞かなかったことにする気らしい。後部座席に置かれた紙袋の中に、チップスやクッキー、チョコレートの袋をたんまりと、そしてホテルの朝食バッフェで手に入れたリンゴも入れておいて正解だった。

 相方が目的地までの経路を確認している間、リンゴをかじりながら相方の『絶対に行きたい!』観光地リストをのぞき込んでみた。


①ジョージ・ワシントン・フリーメイソン記念館(George Washington Masonic National Memorial)、バージニア州アレクサンドリア ✔旅行初日に観光済み

②アーリントン国立墓地、ワシントンD.C.

③無原罪の御宿りの聖母教会(Basilica of the National Shrine of the Immaculate Conception)、ワシントンD.C.

④ワシントン大聖堂(Washington National Cathedral)、ワシントンD.C.

⑤ハーパーズ・フェリー(Harpers Ferry)、ウェストバージニア州ジェファーソン郡

⑥アンティータム国立古戦場(Antietam National Battlefield )、メリーランド州ワシントン郡

⑦ゲティスバーグ古戦場(Gettysburg Battlefield)、ペンシルバニア州ゲティスバーグ



 ③と④については、私が「行ってみたいね」と言ったのを覚えていたらしく、相方が絶対に行きたいワケではないけれど、一応リストに載せてくれたそうな。

 個人的には、今回の旅で一番良かったのは③の教会なので、ちょっとだけ解説。

 英語名にすると驚くほど長ったらしい名前の教会は、通称「バシリカ」として知られている。実は、北アメリカ最大規模を誇るカソリック教会なのだが、D.C.中心部から少し離れているせいか、日本人や中国人観光客の姿は皆無。

 「アメリカで最も美しい教会」と言われるだけあって、教会内の至る所にモザイク画や彫像が置かれ、その荘厳な美しさに息を呑む。D.C.を訪れる機会があれば、ぜひとも訪れて欲しい場所だ。

 ただし、祈りの場でもあるので、教会内では慎み深さを忘れず、シャッター音を鳴らして撮影するような無礼は絶対に避けて頂きたい。



 ①は、フリーメイソンのメンバーでもあったアメリカ合衆国初代大統領ジョージ・ワシントンを讃えて建てられた「ロッジ(=メイソンの地方支部)」だ。

 D.C.中心部から車で30分と少々離れているため、観光地としては『知る人ぞ知る』隠れ物件。観光客の車の数より、駐車場を横切る野生の鹿の方が多かった。

 とは言え、建物の名称に「National Memorial(=記念建造物)」が含まれているので、合衆国指定の文化遺産には違いない。


「ちょーっと待った! 『世界最大規模の秘密結社』の地方支部が『国定記念建造物』って、どういうことよ? それに、フリーメイソンの支部ってメンバー以外は立ち入り禁止なんとちゃうの? 『秘密結社』やん! 『世界を裏で牛耳ってる闇の組織』やん! 陰謀説とか、都市伝説とか、色々あるやん!」 

「うーん、そのイメージはちょっと違うような気がするけど……とにかく、ここは観光客でも中に入れるんだよ」

  

 相方の言葉通り、建物の規模の割に少々お高めな入場料(18ドル)を支払ってガイド付ツアーに参加すれば、誰でも館内を見て回ることが出来る。おまけに、ガイドは正真正銘ホンモノのメイソンリーメイソンのメンバー


 アメリカで生活していると、「実は僕、メイソンリーなんだよね」的遭遇は、さほど珍しくもない。メイソンのシンボルマーク(=『直角定規とコンパス(Square and Compasses)』)のステッカーが貼られた車なんぞ、あちらこちらで見かけるし、州運輸省/州道路局が発行するライセンスプレートを購入する際、シンボルマーク入りのものを選ぶことも出来る。ビルの外壁や店舗の内装にシンボルマークがさり気なく掲げられていたりする。

 まさに、「アメリカを行けば、メイソンに当たる」だ。



 さて、ツアーに参加し、ロッジの中を見学した感想は……


「実に興味深く、尚且つ、実に不思議な空間だった」


 とにかくツッコミどころが満載で、このネタだけで確実に1エピソードは書ける。

 だが、やはり「秘密結社」だけに、ネタバレ厳禁なのでは? 秘密結社のヒミツをサイト上で公開して秘密裏に殺される……なんてことが起こらないとも限らない。「いや、だから、そのイメージは違うってば」と言う相方の声が聞こえたような気もするが、私だって命は惜しい。このままヒミツにしておくべきだ。

 第一、館内で撮影した写真をお見せしながら「何がどう不思議だったか」について語り始めたら、きっと歯止めが効かなくなる。ここだけの話、メイソンリーのガイドがかもし出す雰囲気がなんとも独特で……彼の姿を見た瞬間、「うん。秘密結社っぽい」と思わずうなずいてみたりして。



 ……話がどんどん横道にれていくので、この辺りで方向転換。


 相方がリストアップした「絶対に行きたい!」観光地も、残るは4つ(②⑤⑥⑦)。

 実はこの4つの場所には、ある一つの共通するキーワードが存在する。



 「南北戦争(American Civil War)」だ。


(2019年10月30日 公開)

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