日本に帰らせて頂きます

 相方が風邪をこじらせた。


 日曜の夜から微熱が出始め、翌朝には「頭痛と寒気がする」と言い出した。

 ずっと咳き込んでいたせいか、あまり眠れていない様子。熱を測ってみると、101度。と言っても、華氏なのでピンとこない。なので、発熱している人間を前にiPhoneでちゃっちゃと換算してみた。摂氏だと……なんと、約38.3度!

「うわぁ、熱上がってるやん! インフルエンザ!? 関節、痛くない?」

 あたふたする私を前に、当の本人は「こんなの微熱。とりあえず、タイレノール飲んでおく」と言ってシャワーを浴びると、さっさと仕事に出かけてしまった。

 それが、2月最後の月曜日。


 その後も熱は下がらず、近所のドラッグストアで購入した市販の風邪薬を飲み続けたが、症状は悪化するばかり。本人もかなり辛かったようで、とうとう水曜日の朝、かかりつけ医ホームドクターに予約の電話を入れた。

 『ちょうど明日の朝の予約がキャンセルになったから、その時間で良いなら予約取れますよ』と言う女性の声に、「それ、取って! それ逃したら次はいつになるか分からんやん!」と思わず叫ぶ私。相方は少し考え込んでから「じゃあ、その時間で」と予約を入れた。

 翌朝、熱で顔を真っ赤にして、げほげほと咳き込みながらも「今日終わらせないといけない業務が残ってるから」と言って、病院の予約よりも数時間前に出勤する相方を、「あんな状態で、よく車の運転ができるなあ」と感心しながら送り出した。

 それが、3月最初の木曜日の朝。


 その日の午後、上司の許可をもらって帰宅した相方はベッドに直行。

 ドクターの診断は……

「何かのウィルス感染だと思うけど、とりあえず、今まで飲んでた薬、残ってるんだったら飲み続けてみて」

 そんな適当な……と耳を疑った。インフルエンザの検査もせず、問診の後、聴診器をあてて診察しただけだと言う。


 結局、相方は市販の風邪薬を飲み続け、次の月曜の朝までずっと寝込んでいた。

 げほげほと咳き込み続けながらも、休むことなく出勤し、2週間ほどで完全復活を果たした。 



 職場で流行っているたちの悪い病原菌を相方が家に持ち帰り、体調を崩して寝込む。

 相方の体調が少しずつ良くなる頃、私が体調を崩して寝込む。

 いつもこの繰り返しだ。

 案の定、相方がホームドクターに診てもらった次の週、私も微熱が出始めた。あー、マズイ……と思いながら、常備してある市販の風邪薬の中でも一番強力な風薬「NyQuilナイキル」を飲み続け、ほぼ1週間をひたすら寝て過ごした。

 ちなみに、どれくらい強力な薬かというと、アメリカ人と比べて身体が小さい私が規定の用量を飲めば、あっという間に眠気に襲われ動けなくなり、最低でも8時間は目が覚めないほど。アメリカの内服薬は、一回の服用量がとにかく多い。「日本人としては標準サイズ」ならば、まずは子供向けの量で試してみることをおススメする。



***



 アメリカ人は風邪ぐらいで病院には行かない。というか、簡単には行けない事情がある。


【事情その1】

 風邪ぐらいで病院に行っても、ドクターは何もしてくれない。

 クリニックに薬局は併設されていないので、「市販の解熱剤で熱を下げて」とか「(市販薬の名前)を飲んで」と言われる程度。相方のように、既に服用している市販薬がある場合は「じゃあ、それ、飲み続けて」で終わり。

 なので、病院に行く意味が全くない。感染症など本当に必要がない限り、「とりあえず、お薬出しておきますね」なんてことは、アメリカでは絶対にあり得ない。



【事情その2】 

 医療保険は任意加入であって強制ではない。

 なので、保険に入っていない人(というか、入りたくても経済的に余裕がなくて入れない人)もいる。オバマ政権は、この無保険者達に罰金を課すことで「国民皆保険」を目指した……そりゃ、反発も喰らうワね。

 日本の場合、社会保険/国民健康保険は収入に応じて保険料が上がる仕組みだが、アメリカでは、あくまでも民間の保険会社の「商品」。なので、収入に関係なく自分自身が選んだ商品に対する「対価」を支払うことになる。商品(=保険の補償内容)が良ければ良いほど、お値段も高くなるのは当たり前。お安い商品は「安物買いの銭失い(=保険の補償内容が最低限のため、自己負担の割合が高くなる。保険会社提携している医療機関も限られる)」となる場合も少なくない。


 企業勤務の場合、福利厚生として職場が提供する保険に加入することが可能だが、単身者で500ドル、家族がいる場合(例として、4人家族)は1000〜2000ドルが相場だと聞く。この数字、月額である。

 保険料を全額あるいは何割か負担してくれる企業もある。相方の職場がそれで、相方自身の保険料は無料、私の保険も格安。ただし、色々な制約が設けられているため、必要な治療を受けるためには保険会社と電話で何度も渡り合う努力と根気が必要だ。

 ちなみに、歯科と視力矯正については医療保険の対象外なので、別個でそれぞれの保険に加入しなければならない、というオマケもある。



【事情その3】

 医療費がバカ高い。

 医療保険に入るお金があっても、その保険会社と提携していない医療機関に運び込まれて全額負担となったり、補償額以上の高額な治療費を請求されたりして借金地獄に陥り、果ては自己破産、という悲劇も後を絶たない。 

 ちなみに、アメリカでは救急車も有料だ。病院に搬送してもらうだけで300ドルほど請求される。救急救命士は、まず最初に保険に加入しているかどうか確認する。それによって搬送先が変わるからだ。車内で治療や投与を受ければ、その分も加算される。

 世界最先端の医療技術を誇るアメリカで気兼ねなく医療の恩恵を受けることができるのは、高額の医療保険と医療費を自己負担することが出来る一部の富裕層だけだ。 



【事情その4】

 主治医(かかりつけのホームドクター)のクリニックで完全予約制。

 いつでも自分の好きな病院で診察を受けられる日本と違い、アメリカではどんな症状でも、まずホームドクターに診てもらい、必要があれば専門の医師を紹介してもらうことになる。

 婦人科の検診でクリニックを訪れた際、足の皮膚のかぶれに気づいて「これならあの薬で治るから、処方箋出しておくね」とさりげなく言うホームドクターに「スゴイなあ」と驚いた。ある時は婦人科の先生。またある時は皮膚科の先生。その正体は……大抵の症状は一人で対応してしまうスーパードクター「かかりつけ医」。


 医師に診てもらうためには予約の電話を入れる必要がある。体調が急に悪くなっても、まず予約。早くて数日先、運が悪ければ「来週になるけど、良いかしら?」などと言われることも少なくない。なので、相方のように、たまたまキャンセル枠があったから翌日の予約が取れた、なんてのは、かなりの幸運。大抵は、電話口で「どうしても今日中に診て欲しい」と粘っても、「それなら、アージェントケアかERに行きなさい」と言われるのがオチだ。

 ちなみに、アージェントケア(Urgent Care)とは、ホームドクターを利用できない場合に、予約なしで診てもらえるクリニックのことで、保険診療なら費用も良心的。ただし、保険未加入の場合は受診を拒否されることもある。一方、ER(Emergency Room)は、その名の通り『救急救命室』。24時間年中無休、専門医が常勤し、どんな緊急事態にも対応できる。保険の有無に関わらず、来院した患者を全て受け入れるよう法律で定められているので、「生死に関わるような場合は、迷わずERに行け」とアメリカでは教えられる。ただし、加入している保険を利用しても自己負担がアホほど高額になるため、【事情その3】で述べたような悲劇が起きる可能性も否めない。



 何日も咳が止まらず、呼吸をするのもままならない状態で、相方に抱えられるようにしてアージェントケアに行ったことがある。

 この時は、相方がホームドクターのクリニックに電話を入れ、「今日は予約が一杯だから、明日来て」と言われて「ワイフが死にそうなんだ!」と逆切れし、次に保険会社に電話を入れ、提携しているアージェントケアを紹介してもらったのだそうな。

 アージェントケアでは待ち時間もほとんどなく、医師の診療を受けることができた。

「急性気管支炎だわねえ。肺炎になりかけだったから、明日まで待ってたら危なかったかもね~」

 やたらと明るい担当医が笑顔でそう告げた瞬間、相方に「もうヤダ! 日本に帰るっ!」と涙ながらに訴えたのを、今でもはっきりと覚えている。

 


***



 大抵のアメリカ人は「病気かな?」と思ったら、まずはドラッグストアやスーパーマーケットで自分の症状に合った市販薬(Over the Counter Drugs: OTC)を購入し、数日間様子を見る。

 日本では医師が処方しなければならない薬でも、アメリカでは市販薬として販売されている。薬に関する質問があれば、ホームドクターか保険会社専属の看護師に電話をすれば良いし、ドラッグストアの薬剤師に相談することも可能だ。市販薬で事足りれば、わざわざ医師の診察を受ける必要もない。


 自己責任で、市販の医療製品を使って健康管理と病気の治療を行う「セルフメディケーション」がアメリカで浸透しているのは、バカ高い保険料と医療費の負担を削減するため、と考えれば納得がいく。

 インフルエンザの季節には、ドラッグストアや大手スーパーマーケットに併設されている薬局に行けば、常駐の医師や薬剤師が予防接種を打ってくれる。保険適用の場合は無料。ドライブスルーの窓口があるドラッグストアであれば、「列に並んで車の窓から腕を出して、予防接種」なんてことも出来るので、とっても便利。

 『予防接種を受けて20%Offクーポンをゲットしよう!』などのお得なキャンペーンを打ち出し、予防接種を促す……とみせかけての顧客争奪戦があちらこちらで繰り返されるのも、合理主義の国アメリカならではだ。予約の必要がなく、自分の好きな時に出向いて買い物のついでに予防接種が受けられ、割引クーポンまでついてくるのだから、わざわざ高い医療費を払ってクリニックに行く必要もない。

 ただし、予防医療に関して言えば、保険未加入であっても、市やコミュニティが提供する無料の予防接種で済ませることも可能だ。


 

 さて、これだけ「セルフメディケーション」の意識が高いアメリカにおいて、私が「不思議だなあ」と思ったことがある。それは……


 「風邪をうつさないための最良の配慮である医療用マスクを着ける習慣がない」こと。


 私は花粉アレルギー持ちなので、日本に居た頃は、毎年1月下旬からゴールデンウィーク明けまで、食事中と風呂以外の時間は常にマスクを着用していた。

 自身の体調が悪いときや、インフルエンザの流行する時期に、公共の場所でマスクもせずにくしゃみを連発したり、げほげほと咳き込んでいる人の方が白い目で見られるのが日本だ。

 ところが、アメリカでは……というより、欧米では、マスクは「医療従事者」や「工事現場や清掃従業員」がつけるもの、という感覚らしい。さらに言えば、「マスクで顔を隠す=強盗、犯罪者」のイメージがあるため、外出時にマスクをつけようものなら、異様なものを見た、と言わんばかりの態度を取られてしまう。店頭にマスクを置いているドラッグストアも限られている。

 インフルエンザが蔓延している時でさえ、アメリカ人はマスクなどしない。げほげほと咳をする際は、口元を肘の内側にあてる。日本人ならハンカチで口元を押さえるのが普通だが、ハンカチを持ち歩く習慣のないアメリカでは自分の衣服がハンカチ替わりだ。合理的と言えば合理的なのだが、日本的衛生観念から抜け出せない私としては、「それってどうよ?」と首を傾げてしまう。



 花粉を吸い込まないようにマスクをすると「危険人物」とみなされるアメリカでは、花粉アレルギー持ちの人間はドラッグストアの市販薬に頼らざるを得ない。そして、無意識に口呼吸を繰り返すうちに乾燥した喉が痛み始め、気付けば、花粉症と風邪の二重の苦しみにあえぐこととなる。 

 日本で当たり前だったことが全く通用しないアメリカで、病気で寝込んだり、体調を崩す度に、私は涙目でダダをこねる。

「日本に帰るっ! 日本やったら、いつでも必要な時に病院に行けるんやから、ここまで苦しまんでエエもん! インフルエンザとか花粉の季節にマスクして外出したって変な目で見られへんし! 日本に帰らせて~っ!」


 だって、本当のことやもん。

 予約しないと病院にも行けへんし。花粉症で辛いから耳鼻咽喉科へ行く、とか、散歩中のサスケに突然引っ張られて肩を痛めたから整形外科へ……なんてことさえ自分で決められへんって、オカシイやん! 

 別に本気で「日本に帰らせて頂きます!」とか思っているワケやないねん。病気で気が弱ってる時くらい、ダダこねさせて欲しいだけやねん……

 


 病気や怪我をするたび、医療制度の違いという壁が立ちはだかり、「日本に帰る!」と叫ぶ私にも慣れたのか、最近の相方は「はいはい。元気になったら二人で帰ろうね」と余裕でスルーするようになった。


 何はともあれ、日本の皆さん。日本に帰りたくても簡単には帰れない私から、お願いが二つほど。

 次に病院のお世話になることがあれば、「国民皆保険制度」がある日本で暮らす幸せを噛み締めて頂きたい。

 そして、「医療はサービス業ではない」と言い切るアメリカ人と比べれば、日本の医療従事者の方々は文字通り「白衣の天使」なのだと実感して頂きたい。


(2018年3月18日 公開)

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