1-2
四月の終わり頃、たまたまやり忘れていた課題があって、普段よりも遅くまで学校に残っていた。
先生への提出も終えたので、その足で家に帰ろうとしていたら、ちょうど階段を通り過ぎたあたりで背後から何かの倒れる音がした。
振り向くと、階段の下に女の子が倒れてうずくまっていた。
腰まで届くであろう黒髪が床に散りばめられている。
階段から滑り落ちたのか?
何かあってはまずいと思い、僕はその子に駆け寄った。
「どうしたの?」
「……ぅ」
声をかけてみると呻き声が返ってきた。
「もしかして、階段から落ちた?」
それならば、打ち所次第では早めに対処しなければならない。
しかし、僕の質問が聞こえたのか彼女は首を横に振る。
「大丈夫……。そんな高いところから落ちてない」
か細い声が絞り出される。
「大丈夫だから、放っといて……」
そんなことを言いながら、彼女は階段に右手をついて立ち上がろうとするが、力が入らないのか腕はぷるぷると震え、しまいには手を滑らせてまた姿勢を崩してしまった。
彼女が階段に頭をぶつけそうになったので、僕は思わず手を伸ばす。
肩を抱き、すんでのところで衝突を回避した。
「いやいや、明らかに大丈夫じゃないでしょ」
この様子を見て、何事も無いと思う人はいまい。
「……近い」
肩を抱いたせいで、かなり顔が近付いていた。
「ただの立ち眩みだから、平気……」
彼女はそう言いながら腕を伸ばして僕から距離を取ろうとする。
とはいえ、力が弱い。
そして、まだ地面にへたり込んだままだ。立ち上がれないらしい。
「立ち眩みって言ったって、それで階段から落ちたんでしょ、放っておけないよ」
「いいって。平気、平気だから」
顔を俯けているので表情はわからないが、声色は明らかに平気そうではない。
僕を押しのけて立ち上がろうとする素振りは見せるものの、足に力が入らずすぐに尻餅をついてしまう。
手助けがなければこの場から動くことすら無理だろうに。
しかし、こっちが何か言ったところで頑なに大丈夫だと言い張るであろう空気も、彼女は同時に醸し出している。
……仕方ない。
「ちょ、なに?なにすんの?」
僕は彼女を無理矢理抱き上げた。いわゆるお姫様抱っこというやつだ。
幸いにも彼女は軽かったので、難なく抱き上げることができた。
「言っても聞かなそうだから、とりあえずこれで保健室連れてく」
「だからって、これはっ」
ひとまず会話が出来ているから、すぐに救急車を呼ぶ必要はなかろう。
まぁ、そういった判断も込み込みで保健室の先生に任せるべきである。
僕はそう思い、無理矢理彼女を連れていくことにしたのだった。
肩を貸そうかとも思ったが、彼女のこの様子だと抵抗するだろうし、そもそも立ち上がれるかも怪しい。
もちろん、今のままでも抵抗するような動きはしているのだが、なにぶん力が入らないようで、少し揺れるだけで済んでいる。その動きも、少し歩き出したら止まった。抵抗を諦めたようだ。
なんだか罪悪感と背徳感を覚えなくもないが、そういうものは意識の外へ放り出し、大人しく運搬に専念しよう。
保健室に着くまではひたすら無言だった。まぁ、特に話すこともないし、そもそも辛そうにしている人と話ができるはずもない。
「アラアラ、なあに?どうしたの、その格好」
保健室に入ると、園田先生がこちらを見るなりニヤニヤしながらそう呟いた。
無理もあるまい。
「ちょっとそこで拾ってきました。立ち眩みを起こして階段で転んだみたいです」
「あ、そうなの。なら、ベッドの方へ運んでくれる?」
「はい」
ニヤけていた園田先生の目は、すぐに真剣なものへと切り替わる。意識の切替の早さはさすがといったところか。
「そんな大袈裟なものじゃないです……」
腕の中からか細い声が響くが、園田先生は意に介さない。
「いいから、とりあえず横になんなさい」
抱えていた女の子をベッドに下ろすと、
「で、どこの誰?名前は?」
「瀬尾、瀬尾陶子です……」
腕で目を覆いながら、彼女は答える。
どこかで聞いたような名前だ。どこでだったか。
「……あぁ」
一方の園田先生は、何か思い当たる節があるといった感じだ。
とにかく、僕が運んできた女の子は瀬尾さんというらしい。
「さて、私はこれから彼女を診なくちゃなんないからさ」
先生が、瀬尾さんをベッドへ運び終えてぼんやりと立っていた僕の方を向く。
「男の子は立ち入り禁止ということで、よろしく」
「あぁ……そうですね」
どこをぶつけたのかもよくわからないし、まぁ、色々とあるのだろう。
「運んできてくれてありがとね。おつかれさま」
先生はそう言う。
「いえ、偶々近くにいただけなんで」
「ん〜、いい答えだねぇ」
「?」
よくわからない反応だったが、とりあえず僕が為すべきことは済んだらしい。
「瀬尾さん、お大事に」
ベッドの上の彼女に声をかけると、少しだけ腕が動いて目が覗いた。
こちらを睨んでいるように見える。
まぁ、仕方ない。あんな運び方をすれば怒りもするか。誰かに見られなかったのだけが救いである。あとのことは先生に任せて、僕は帰るとしよう。
「それじゃぁ、よろしくお願いします」
「はいよ〜」
保健室を出ていく僕に、先生はひらひらと手を振る。
先生が妙にフランクなのは何故なのかと去年から気になっているのだが、理由は未だにわからない。今後、わかることもなさそうだ。
ドアを閉じる際にベッドの上に目をやったが、もう瀬尾さんの瞳は腕の下に隠れてしまっていて、今、どんな表情をしているのかはわからなかった。
これが、僕と瀬尾さんのファーストコンタクトであった。僕の記憶にある限りでは。
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