4-6

返事はいらないから。


すっきりとした笑顔の流花姉は、そう言い残して屋上から去っていった。

屋根から飛び降りるもんだからスカートが大変なことになっていたけれど、もう、それを指摘する気力さえ僕の中には残っていなかった。

屋上を出ていく流花姉の後ろを、扉の裏から出てきた瀬尾さんが追っていく。

去り際に二人が僕の方を見たが、その視線の意味するものを僕は汲み取れなかった。

ただ呆然と、その場所に立ち尽くしていた。


なんなんだ。

いったい、なんなんだ。


混乱と感情の濁流が、僕の内側でうねっている。

考えれば考えるほど、今の自分の状況がよくわからなくなってくる。

瀬尾さんは、何と言っていた?

流花姉は、何を口にした?

耳にしたそれが、頭の中でひたすら反響し、脳を埋め尽くす。


そもそも、どうして二人が同時にこんなことをした?

彼女たちの目的は、いったい何だったんだ?

考えているとなんだか立っているのすら面倒になってきて、僕はその場に仰向けに倒れ込んだ。

手足を大きく開き、思いきり寝転がる。


あの二人は、僕にいったい何をした?

今、僕の中を流れる感情の源泉は、あの二人ではない。

これは、僕自身がずっと抑え込んでいた感情だ。


嬉しさ。苦しさ。楽しさ。辛さ。

愛しさ。寂しさ。怒り。悲しみ。

安心。不安。満足感。喪失感。


見知った単語を単純に並べていくだけじゃ、全然足りない。

全てが綯い交ぜになって僕の血管を巡っているようだった。

手足の先の感覚が、敏感になっている。


彼女たちに突然投げつけられた感情の塊。

それを僕は無防備に、全身に浴びてしまった。

全身に被り、見せつけられたてしまった。

自分がいる世界、その色を。


世界を灰色に染めていた、心を覆う殻。

瀬尾さんと流花姉、その二人は強引にその殻を破いてきた。

好意という暴力が存在することを、僕は初めて知った。

感情で殴られて、目を覚まさせられた。

こっちを見ろと、無理矢理に顔を振り向けさせられた。

抵抗する間もなく畳み掛けられた。

「ははっ」

押し寄せてきた現実という波に飲まれたせいか、自然と笑い声が漏れ出す。


そうして寝転がったままひたすら空を眺めていると、どこからか微かに足音が響いてきた。

音がしてきた方に視線を向けると、屋上入口の近くに、何故か田島が立っている。

田島は、僕の方まで歩いてきながら口を開いた。

「どうしたんだよ、大の字になって。シャツ、汚れるぞ」

近付いてきて、僕を見下ろす。

「いいよ、そのくらい」

今の僕にはどうでもいい。

頭のほとんどの領域は感情の処理に使われていて、些事に回している余裕はないのだ。

「なんか笑ってるな。いいことでもあったのか?」

「いいことねぇ……。わからんなぁ」

僕は適当に返事する。

わからないのは、本当だけど。


そんなことよりも僕は、どうして田島がここにいるのか、そんなことを考えていた。

確か、生徒会の用事で生徒会室にいるはずじゃなかったか。

ただ、少しだけ、思い当たることがあった。

ちょっとした気付きみたいなものだけど、それを確かめるべく、僕は口を開く。

「なぁ田島」

「ん、どうした?」


「お前さ、知ってたろ、楓のこと」


誰から、どこから聞いたのかはわからない。

だけど、そう考えると腑に落ちることがあるのだ。

瀬尾さんの話を僕にしたこと、流花姉を屋上へ誘導したこと、瀬尾さんに僕の連絡先を教えたこと、それらが頭の中で結びついていた。

もしかしたら、他にも裏で色々とやっていたのかもしれない。

そんな気がしたのだ。

「なんのことだ?」

田島はそんな台詞を口にするが、顔はニヤついている。

「ま、いいけどさ、どっちでも」

僕は、心の底からそう思っていた。

仮にそうだったとしても、田島は促しただけに過ぎない。

結局、僕や彼女たちの行動がこの結果をもたらしたのだ。


「なぁ、佐倉」

「なんだ?」

「女子二人に同時に告白されるって、どんな気分だ?」

「覗き見かよ。趣味悪いぞ」

「いいじゃねぇかよ。そんくらい」

どうやら、誤魔化す気はないらしい。

いったいどこで聞いてたんだか。


「まぁ、告白っていってもさ、瀬尾さんの方はそんな感じじゃなかったけど」

「あの台詞でそう解釈するのはなかなか難しいんじゃねぇかな」

「そうかな」

「そうだよ」

田島は笑う。何がおかしいんだ。

ひとしきり笑ったあと、田島は僕の近くに腰を下ろす。

「ズボン、汚れるぞ」

「シャツよりはマシだろ」

そんな軽口を叩き合う。


田島はそれからしばらく黙っていたが、ふと、口を開いた。

「佐倉、お前もここらでさ、青春ってやつを味わってみてもいいんじゃないか?」

「なんだよ、薮から棒に」

「そろそろ、そういう頃合いなんじゃないかと思ってな」

「何の頃合いなんだよ」

そう言い返しながら、青春という言葉をじっくりと噛み締めてみる。


中学生だったあの時、楓と一緒に過ごしていたあの時間。

それは、青春と呼べたものだったのかもしれない。


楓がいなくなってから、世界は灰色に染まり、周りの何もかもが目に入っていなくて、僕はずっと後ろを向いていた。

今の僕は、瀬尾さんと流花姉、その二人に無理矢理力づくで振り向かされた格好である。

僕の視界はまだ強い光に目が眩んでいて、まともに動くことすらままならない状況だ。

けれど、それにも次第に慣れていき、ちゃんと周りを見れるようになるのだろうか。

目の前にいる二人のことを、ちゃんと見ることができるようになるのだろうか。


田島が言うには、僕はその二人から同時に思いを告げられたらしい。

そのせいで、僕は無理矢理に現実という日の下に連れ出されることになった。

もしも彼女達の狙いがそうすることだったのだとしたら、あまりにも手段を選ばなさ過ぎる。

有無を言わせないとはまさにこのことだ。

そのせいで生じる、変化する関係には御構いなし。

「青春、か」

「おう」

「……青春って言葉を使うには、ちょっと状況が込み入ってるんじゃないか、これは」

僕はそんな台詞を吐き出す。素直な気持ちだった。

「両手に華ってやつじゃねぇか」

「どちらかといえば、僕の方が二人に持ち上げられてる感じだよ」

「ははっ、そうかもな」

田島は、そんな僕の台詞を笑い飛ばす。

僕は、大きく息を吐く。


「まぁ、でも」

「でも?」


目を見開いて、空を見る。

視線の先にはまばらに雲が散りばめられていて、空の青は深く遠くまで続いている。自分の身体がそのまま吸い込まれて、宙に浮かび上がれそうな気がしてくる。

飛び上がった先から街を見下ろしたら、どんな風景が見えるのだろう。

僕が今まで目を逸らし続けていたものたちは、どんな色をしているのだろう。

暗い水底に沈んでいた僕を、強引に地上に引き上げた二人の両腕。

その感触を、僕はまだ知らない。

今は、落ち着いて呼吸を整えることで精一杯だ。


だけど。

そうだけど。


「そんな状況に浸ってこの世界を楽しむのも、それはそれでいいのかもしれないな」


大きく息を吸う。

窮屈だった胸の奥がじわじわと広がっていく。


そろそろ、起き上がる時間だ。

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