4-5

学校に辿り着いたのは、電話がかかってきてから十分後のことだった。

我ながら、急な呼び出しにしてはなかなか早く来れたのではないかと思う。


実習棟に入り、奥の階段を上がっていくと、屋上入口の扉は開け放たれていた。

逆光で、扉の先はよく見えない。

手を翳しながら入口を抜け、屋上に足を踏み入れる。

目の前は、いつも通りの開けた景色。

そこには誰もいなかった。

屋上に来いと言ったのは瀬尾さんの方なのに、当の本人がいないとはどういうことだ。

歩を進め、フェンスの方へと寄っていく。

眼下にはきっと、街の景色が広がっているのだろう。


「佐倉、こっちだよ」

背後から声がした。

振り返ると、屋上の入口に瀬尾さんが立っていた。

「来てくれてありがとね」

彼女は、そんな柄にもないことを言いながら、僕の方へと近付いてくる。

その足は止まることなく、気付けば僕と瀬尾さんの距離は十センチくらいまでに縮まっていた。


なんだ、この距離感は。

彼女とこれ程までに近付いたことは過去にない。


「ねぇ佐倉」

どぎまぎしていると、瀬尾さんが呼びかけてきた。

僕の顔を見上げる彼女の顔はちょうど僕の胸のあたりだ。

そうか、思っていたよりも背が小さかったんだな。

ふと、そんなことを考えてしまった。


瀬尾さんは、僕の瞳をじっと見つめてくる。その視線に逆らえなくて、僕も彼女の瞳に見入ってしまう。

しばらく、そんな時間が続いていた。

「あのさ」

唐突に瀬尾さんの口が開かれる。

そして放たれた言葉が、僕に突き刺さる。


「私と楓さんって、どれくらい似てるの?」


背筋を、怖気が走った。

あの日、僕は瀬尾さんの後ろ姿に楓の幻影を見た。

それが意味するものがなんなのか、僕はその時初めて自覚した。


わかってる。

瀬尾さんが、楓じゃないことなんて、わかってる。


僕が勝手に瀬尾さんの背景を知って、それに影響されて楓とダブらせた。

だからあれ以来、彼女と距離を取って、必要以上に近付かないようにして、二度とそんなことが起こらないように、そうしてきたのに。


何か、言わなきゃ。

そう思って口を開いても、言葉はまるで出てこない。


「無理しなくていいよ。わかってるから」

そんな僕を見ても、瀬尾さんは嫌な顔一つせずに言葉を続ける。

「あんたが私のことを知って、それで楓さんとダブらせたんだなってこと、鈴井先輩から話を聞いたから、もうわかってる。今のはちょっと、意地悪してみたくなっただけ」

だから気にしないで、と瀬尾さんは言う。

「これからが、本題」

彼女はそう口にしながら、僕との距離を更に詰めてくる。もう何センチもない。

「言いたいこと、本当はもっといっぱいあったんだけどさ、いざとなると、自分のこと、よくわからなくなるんだね」

彼女の吐息が胸に当たる。

普段よりもゆったりとした瀬尾さんの声。

そのせいだろうか、彼女の言葉一つ一つが強く耳に残る。


「だから、一つだけ、一番言いたいことだけ、言うね」

瀬尾さんが、深呼吸をした。

瀬尾さんの口が言葉を紡ぐ。


「あんたはさ、私のこと、全然見てなかったのかもしれないけど、私はあんたのこと、ずっと見てたんだよ」


じっと、見つめられる。

彼女の瞳の奥に、自分の顔が映っている。

「そろそろ、さ」

そう言ってから、彼女は目を伏せる。

だけどそれも一瞬で、再びその目は僕を捉える。

空白の間。

それがどれだけ続いたか、僕にはわからなかった。


「私のことも、ちゃんと見てよ」


瀬尾さんの唇が動き、吐き出されたその台詞と共に、彼女の右手が僕の頬に触れる。


冷えた肌の感触。

薄らとした夕焼けが、彼女の頬を照らしている。


瀬尾さんの笑顔を見たのは、初めてのことかもしれなかった。



キスでもしてしまおうか、そんなことをちらりと考えたけど、やっぱりやめた。

それはちょっとずるいかな、と思ったのだ。

伸ばしていた右手を引っ込めて、一歩、彼から距離を取る。


最後の一言の時、どうして私は笑えたのだろう。

それが自分でも不思議だった。気持ちというものはよくわからない。


私のその言葉の意味は、あいつにちゃんと伝わっただろうか。

熱を持った感情を、こうも穏やかにぶつけることができるとは思ってなかった。

あの一言に凝縮できるなんて、口に出すまで考えてもみなかった。

ストレートな表現は、苦手だ。

伝わってないならないで、それでもいい。

通じるまで、あいつに何度でも繰り返し言ってやればいいだけの話だから。


空を仰ぐ。

青が眩しくて、目の上に手を翳した。

あいつにも、この色がちゃんと見えるようになるだろうか。


「ねぇ佐倉、あんたはまだ帰っちゃダメだよ」

「……どういう意味?」

「すぐわかるから。それじゃぁ、またね」

私はそう言ってから、佐倉に背を向けて屋上の入口へと進む。

建物の中に入ったあと、扉の裏へと身体を滑り込ませる。

本当はその場に残っていたかったけれど、ちょっと不躾かなと思って、ここに隠れることにした。


あいつの目には、この行動がどう映っただろう。

まぁ、そんなことはどうでもいい。

私は、私のやりたいこと、私にできることをやった。

彼をこっちに振り向かせるため、必要と思ったことをした。

これからも、やりたいことをやらせてもらう、それだけだ。


さて、次は先輩の番。

この場所から見届けさせてもらおう。



多分、今、瀬尾さんは屋上から出ていった。

給水塔の横、彼と瀬尾さんが時間を過ごしていた場所から、さっきのやり取りを眺めていた。

そうすることに決めたのは、さっき、屋上に来たとき。


先輩も、ですか?


屋上の扉を開けた私を見て、彼女が放った言葉。

その一言を聞いただけで、私には瀬尾さんが何をするつもりなのかがわかってしまった。

彼を待っていたであろう彼女の目を見て、瀬尾さんがどんな気持ちでいるのか、わかってしまった。


けれど、私も自分の気持ちを譲れなかった。

だから、二人してこの場所で彼のことを話した。

瀬尾さんの見ている彼のこと、私の見ている彼のこと、それを互いに口にしあった。

そして私達は、私達のことを見ていない彼を振り向かせるため、周りの世界に見向きもしない彼の目を覚ますため、手を組むことにしたのだ。


といっても、一緒に何かをやろうというわけじゃない。

お互いのやろうとしていること、その邪魔をしないと決めたのだ。

私は、先に屋上に着いていた彼女に先手を譲り、この場所から二人のやり取りを眺めることにした。


別に、遠慮したわけじゃない。

後攻でもなんとかなると思ったわけでもない。

どっちでも、変わらないと思ったのだ。

通じるか通じないかじゃなくて、私は、彼に、ぶつけたい、それだけだから。

それに、喫茶店で彼に言ったあの台詞。


瀬尾さんのこと、ちゃんと見てあげてよ。


そんな言葉を口にしてしまったから、彼女の気持ちを先に見届けたい、彼がそれにどんな反応をするのか見てみたい、そんな欲もあったのかもしれない。

いずれにせよ、さっきまで、私はこの場所で彼と瀬尾さんの会話を聞いていた。

どんどんと近づく二人の距離に心を締め付けられながら、眺めていた。

彼女が右手を伸ばした時、もしかしてキスするんじゃないかと、瀬尾さんがそこまで積極的だったのかと、先手を譲ってしまったことを少し後悔したりもしたが、どうやらそれは未遂に終わったらしく、少し安堵した。


だけど、私にはあの距離感は難しい。

恥ずかしくて、あんなには近寄れない。

だから、私はこの場所を選ぶ。


「ねぇ、おっくん」

給水塔から離れ、屋上入口の屋根、その縁に立って彼を見下ろす。

その場所から、彼の名前を呼んだ。

頭上から呼び掛けられたことに彼は驚いたあと、少し呆れた顔になる。

「……そこで何してんの、流花姉」


彼が私をそう呼ばなくなったのは、楓ちゃんと付き合い始めてから。

私も、そんな彼に合わせて昔みたいな呼び方をしなくなった。それは、彼女がいなくなってしまったあともずっと続いている。

時々昔の癖が出てしまうことはあるけれど、そうでもなければ彼は私を鈴井先輩と呼び、私は彼を佐倉くんと呼ぶ。


だからこそ、今、私は意識して彼を昔のようにおっくんと呼んだ。

彼は聡いから返事を私に合わせてくれたけど、この後の私の台詞がどんなものなのかは、きっとわからない。わかるはずもない。


でも、それでいい。

自分の気持ちを彼にぶつけたい。今の私はそれだけで動いているのだから。


私は、じっと彼の目を見つめる。

彼は、不思議そうな目で私を見ている。

いざとなると足が竦む。

風が吹いて、目が乾く。


「あのさ、流花姉」

ふと、彼が話し掛けてきた。

「なに?」

「見える」


一瞬、顔が赤く染まるのが自分でもわかった。

でも、でも、もう、逃げられない。

「見ないでよ。こっちは向いたままでいてほしいけど」

「……無茶言うなよ」

こんなやり取りからも、彼が私をどんな目で見ているのか察しはついてしまうけれど、それでも、私は歩を止めない。

大きく息を吸う。

あと一歩、あと一歩進めば辿り着く。

私の心を覆う固い殻。それを少しずつ剥ぎ取って、中身を剥き出しにして、私は、ずっと言いたかったその一言を、強く吹く風にかき消されないように、大声で吐き出す。


「私ね、おっくんのこと、好きだよ」


現在形。

口にした瞬間、心臓がずきずきと痛む。

頭の中を、瀬尾さんと楓ちゃんの顔が過っていく。


もしかしたら、校舎の中にまで響いていってしまったかもしれなかった。でも、もう気にしてはいられない。

私の言葉を聞いて目を見開く彼に、追い討ちをかける。

「ずっと、ずっと前から」

彼が瀬尾さんと出会う、楓ちゃんと出会う、その前から。


言いたかったこと。

言えなかったこと。

それを今、彼にぶつけた。

ずっと隠して抱え続けていた気持ちを。

私のエゴの塊を。


けれど、そこに後悔はない。

好意の一方的な投擲。

我侭の極致だけれど、だからこその満足感があることは否定しきれない。


おっくんにとって、瀬尾さんにとって、私の取ったこの行動が正しいことだったのかはわからない。

だけど、今の自分にとってはきっと正しいことだったのだと、そう思える。


上気する顔。

緊張で口の周りがじんじんと痺れている。

私はまだ彼を見つめたままだ。

彼も、こちらをずっと見つめたまま立ち尽くしている。


そりゃぁそうだろう。

きっと、こんなことになるなんて少しも予想していなかっただろうから。

自分でそう思ったくせに少しだけチクリと心が痛んだけれど、どこか、気持ちの良さも感じていた。


あの時以来、周りの世界を自分の視界に入れなくなってしまった彼。

楓ちゃんに囚われて、他の人に意識を向けなくなってしまった彼。

そんな人を強引に振り向かせるには、このくらいがちょうどいいんだ。


これまで感じたことのない解放感と爽快感が私の身体を走り、自然と笑顔が込み上げてきた。

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