4-2

帰り道、自転車を走らせている間も、瀬尾さんと流花姉、そして楓のことが頭の中を渦巻いていた。

家に真っ直ぐ帰る気にはなれない。

駅近くの喫茶店かどこかで時間を潰そう。

ゆっくりと頭を落ち着かせよう。

そんなことを考えながら、ペダルを漕ぐ。



授業が終わって放課後になっても、私は席に座ったまま一人でじっと考え込んでいた。

教室で談笑している人達がまだ何人か残っているけれど、その音声は遠くの方に追いやられ、耳の奥までは届かない。


答えの見えない問い。

自分が今、何をしたいのか。

この状況を変えたいと思っているのか。

どう変えたいと思っているのか。

同じ言葉がずっと胸の奥で蠢いていて、ともすれば吐き気もするくらいに私の心を覆っていく。


あいつのことを考えずにはいられない。

全ての問いの裏側にこの気持ちがあることに、私はとっくに気付いていた。

気付いていたけれど、どうすればいいのかわからずに、心の奥の方にずっとずっと押し込めていた。

今も、どう扱っていいかはわからない。

そんな風に目を背けているうちに、感情は、溢れてしまいそうになるほど堆積していく。

溜まりに溜まって、爆発しそうな気持ち。

似たような状況に覚えがある。

中学三年の夏、あの時だ。


何度も繰り返されるそれに対して反応はせずとも、自分の心がぎゅうぎゅうと押し潰されていくのを感じてはいた。

その内側に少しずつ溜まっていった怒り。

どんどんと冷えていく私の心はついに凍り付き、ひび割れた。

私は、そこに残っていた怒りの欠片を粉々に打ち砕くかのように、全ての力を彼女たちにぶつけたのだ。


後悔したことはないし、これからもするつもりはない。

私は、そういう人間なのだ。


だけど、その時に私が抱いていた感情と今のそれには、違う点が一つある。

冷え切っていたあの時の気持ちと違って、今の私の中で蠢いている感情は、燃え上がり、熱を帯びていること。

固くて冷たい塊ではなく、ドロドロとした、沸き立つごちゃまぜの感情。

その呼び名を、私は知らない。

知らないけれど、もう放ってはおけない。

燻らせていた気持ちは、その結論にしがみついた。


だから、私は席を立つ。

席を立った勢いで、教室を飛び出す。

その挙動に教室の何人かは驚いていたけれど、どうでもいい。


私は、決断の遅い子供だった。


きっと今もそうなのだろう。

頭の中だけでぐるぐると迷路に入り込み、道を見失ってしまうのだ。

もっと早くにこうすることもできただろうに、先延ばしにして、目を背けて、触らないようにしていたら、感情はこんなにも膨れ上がってしまった。

だけど、迷路の出口は未だに見えていないけれど、もう、進むしかない。

壁を蹴破る勢いで、出口を目指すしかない。


抑えておくのは、我慢するのは、もう限界だ。

私のことを見てないあいつをこっちに振り向かせるために何が出来るのか、今の私にはそれだけしか思い付かなかったから。



保健室の扉をノックする。

「はーい、どうぞー」

中から園田先生の声が返ってきた。

「失礼します」

部屋に入ると、椅子に腰掛けた先生がこちらを向いていた。

「あら、会長さんじゃない」

「どうも」

「どうしたの?生徒会の用事?」

「いえ、違います。ちょっと体調が良くないみたいなので休ませてもらおうかと」

心の問題だとはわかっているけど、実際、寝不足になっていて調子も良くない。嘘はついていない。

「珍しいわね」

「ベッド、借りてもいいですか?」

尋ねる私の顔を、先生はじっと見ている。

「うーん……」

「なんですか?」

「貸すのはいいんだけど、その前に、ちょっと問診しましょうか」

「え?別に、そんなことしてもらうような具合では……」

「いいからいから。とりあえず、ここ座んなさい」

園田先生の勢いに逆らえず、私は先生の対面に置かれていた丸椅子に腰掛ける。


「ふむ。まぁ、来たときにすぐわかったけど、顔色悪いわね」

「そんなにですか」

「ちょっと気を付けて見てみればすぐわかるくらいにね。あんまり寝てない?」

「はい。最近ちょっと……」

答える私の顔を、先生はじっと見つめてくる。

先生の顔からは、どんな感情を抱いているのか全く読めない。


「鈴井さん」

「はい」

「悩み事でしょ」

唐突に向けられた言葉。動揺が走る。

「え?」

「眠れないの、そのせいね」

「どういうことですか」

「そのまんまの意味よ。鈴井さん、あなた、このところずっと同じことで延々と繰り返し悩んでる」


確かにそうだ。

ずっと、彼のことで、彼女たちのことで、悩んでいる。

そんな悩みにかこつけて自分のエゴを通そうとしたことに、苦しめられている。

でも、だけど。

「そんなこと、わかるんですか」

「顔に出てるよ」

そう言われ、思わず自分の手で顔を確かめてしまう。


「あはは、触ったって隠せやしないわよ」

先生はちょっと大袈裟に笑う。

「昔のことを今も引き摺って、それに足を搦め捕られてる?そんな感じね」

そんなことまで顔に出るものなのか。

「まぁ、情報源は顔だけじゃないわよ」

「じゃぁ、なんなんですか」


「勘」


勘?

勘だと?

ただそれだけのことで。

「長年、色んな学生を見てきた経験からくる、勘」

先生の目が、一瞬だけ真剣なものになったように見えた。


「そして、その勘はこう告げている」

改まった表情で、先生は口を開く。

「今のあなたの状態は、正しくあろうとしているのに、自分の気持ちがそれと相反してしまって、板挟み」

突き刺さるような台詞。

端的に、私の状況を言い表わしていた。


「どうして、って顔してるね」

「……」

それから、先生はしばらく黙り込む。

その向かいで私は俯いて、時間が過ぎるのを待っていた。


「あのね、あまりこういうことは言わないようにしてるんだけど」

「なんですか?」

顔を上げ、答える。

言わないようにしているのなら、私にも言わないでほしい。

これ以上、心の中を掻き乱さないでほしい。

私は、静かに時間を過ごしたいだけ。

それだけなんだ。


「学生が抱える悩みなんて、そんなもんよ」

「は?」

思わず、そんな声が出てしまった。


「特に、あなたみたいな人が出会す難敵なんて、想像するのは簡単よ」

いったい何を言い出すんだ、この人は。

「働きぶりを知ってるからこそわかるわ。あなた、真面目過ぎね」

真面目?

私が真面目だと?

そんなんじゃない。

私はただ、物事が上手く回っていくのが好きで、皆がそれを喜んでくれるのが好きで、それが正しいと思っているから。


「皆が幸せになってくれるのが、自分も嬉しい?」

心の中を読むかのように、先生は言葉を続けた。

「だけどさ、考えてみてよ。その皆の中に、あなた自身は入ってるの?」


私自身?

皆って、皆のことだろう?

私を囲む世界にいる人達のこと。

それが、皆というものだろう?


「功名心じゃなくて真面目さが先立って生徒会長をやるような人って、大抵そうなの」

先生の口は止まらない。

「皆が皆がって言いながら、自分のことはガン無視。奉仕精神か何か知らないけれど、自分はいつも捧げる側」

その言葉が、痛い。

私は、彼が楓ちゃんを連れて私の目の前に現われた時のことを思い出していた。

なんで今ここで、その場面が頭に浮かぶんだ。

そんなの、関係ないはずだろうに。


「そういうのはね、よほど剛胆な人じゃないと本来は無理な役目なの」

率直な物言いが、心を直に撫ぜていく。

「けど悲しいかな、そうでない人の方がこういう立場になること、多いのよね」

私が精神的に強くないこと、そんなのは、わかっている。自分でもわかっている。

楓ちゃんがいなくなったことを知った日、彼が泣いたあの日、私はその横で、彼を励ますことも出来ず、ただ横に佇んでいた。

一緒に泣けばよかったのに、そんなことも出来ず、我慢して、全部押し殺して、心の中に浮かび上がってきた醜い感情に蓋をして、その場をやり過ごすことに必死だった。


我慢強かったわけではない。

自分の感情を表に出してしまうのが、それを彼に見せてしまうのが、怖かっただけなのだ。


今だって。

そう、今だって、私の内側にある汚いものを、彼に見られてしまうのが、知られてしまうのが怖くて。


「で、そういう人が追い込まれるとね。心の内側に自分を閉じ込めて、殻で覆って、結局身動きが取れなくなっちゃうの」


あぁ、その通りかもしれない。

彼のこと、瀬尾さんのこと、楓ちゃんのこと。


一人で抱えているのが辛くて彼に少しだけ漏らしてしまったあの日から、私は自分の心を黒い殻で覆って、その中でぐるぐると空回るだけになった滑稽な人間だ。

わかってしまえば、自分の姿はこんなにもあっさりと見えてきてしまう。

そんなんじゃ、先生に見透かされるのも無理はない。

「だからさ、そんな人を見るとついつい構いたくなっちゃうのよ。そのまま割れて壊れてしまわないか、心配でね」

私を見る先生の目は優しい。

「あのね、鈴井さん。思ってること、吐き出してもいいのよ。ここには私しかいないんだから」

先生のゆったりとした声が、耳の奥に響く。

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