2-6

一週間後、灰色の雲が空を覆い、日差しは普段よりも弱まっている。

雨の気配は無いが、どこか涼しさが漂っていた。

私は屋上のフェンスに寄り掛かって、ぼんやりと街を眺めていた。

視界に入るだけでも、眼下には数え切れないほどの人間が蠢いている。

それぞれが人生というものを持ち合わせていて、人間同士が関わり合っている。

世界は、人間同士の絡み合う糸で張り巡らされたネットワークの上に出来上がっている。


正直、吐き気がしてくる。

繋がりなんて、身を縛るだけで、ちっとも役に立たない。

世界は重くて鬱陶しい。

私には、こんな気分になることがたまにあった。

そういう時にはこうやって街を見下ろすことで、自分がそんな世界から外れた位置にいるのだという自覚を持ち、なんとか心の安寧を手に入れていたのである。

いつからだったか、こういう気持ちになることはなくなっていたのだけど、今日は急に気分が落ちていった。


私の心に何かが起きたのか、それとも何かの予兆なのか。

考えていてもわからないので、私は思考を放棄した。

考えるのをやめて、ただただぼんやりと街を眺めることにする。


そうやってしばらくぼーっとしていたら、ドアノブの動く音がした。

いつものように、佐倉だろう。

どうせあいつから話し掛けてくる。わざわざ振り向く必要もない。そのまま、人の蠢きに目をやっていた。


そして、扉の開く音。


「……かえで?」


次に聞こえたのは、佐倉の、そんな微かな呟きだった。


かえで?

振り向くと、そこには無表情の佐倉が呆然と立っていた。

「なに?かえで?誰かの名前?」

「え?」

呟きの意味がわからなかったので聞き返すと、佐倉は我に返ったかのような反応を見せる。

「あ、あぁ、いや、なんでもないんだ。気にしないで」

慌てたように手を振る佐倉。

気にしないでと言われたら、余計に気になるだろう。

「どういうこと?」

「ほんと、なんでもないから」

普段の飄々とした態度とは打って変わって、狼狽している佐倉。

その様子が、面白いを通り越して不思議でならなかった。


そんな佐倉を不審がって見ていると、彼はふと思い立ったかのように口を開いた。

「あー、今日は少し暑過ぎるね。僕、ちょっと体調が良くないみたいだし、やっぱり帰るよ。じゃぁね、瀬尾さん」

佐倉は早口でそう言ってから踵を返し、屋上から出て行こうとする。

「え、ちょっと待ってよ」

思わず呼び止めてしまう。


「なに?」

「なにって、なんか様子おかしくない?何かあったの?」

「だから、ちょっと体調が良くないんだよ」

「そういうことじゃなくてさ」

佐倉の視線は落ち着かない。

いつもならこれでもかってくらいこっちの目をじっと見つめながら話してくるのに、今は目が泳ぎっぱなしだ。私と目も合わせようとしない。


そんな様子を見て、ふと、私の頭に疑問が浮かび上がった。

その疑問は一瞬で頭を埋め尽くしていく。

普段の佐倉の視線、そこに感じていた違和感。

「ねぇ佐倉、あんた、いったい私に何を見てるの?」

止めるものがなく、思わず口をついて出た言葉。

辺りには静けさが広がっていく。


どれだけだろうか、互いに黙ったままの時間が続いたが、ふと、佐倉が口を開いた。

「何って、そりゃ瀬尾さんだよ」

彼はおどけたようにそう言うが、何の表情も浮かんでいないその顔とはちぐはぐだ。

明らかに何かを誤魔化している。

「じゃぁ、またね」

だけど、私の返事を待たずに佐倉は屋上を出ていき、さっさと階段を下りていってしまった。

佐倉を追いかけるという発想がその時の私には思い浮かばず、ただ一人、屋上に取り残される。

そして、扉の閉まる音。

あとには、カラカラと空き缶の転がる音と、蝉の鳴き声だけが響いていた。


この時以来、佐倉は屋上に来なくなった。


朝に挨拶はするけれど、会話もほとんどなく、すぐに自分の席へ行ってしまう。

今までが今までだったから、最初の頃は不思議に思っていた。

だけど、その理由を彼に尋ねることはできなくて、時間はただただ経っていく。


別に、それが悲しいとかそういうわけじゃない。

春までの自分に戻っただけだ。

そのはずなのに。


ふと、いつぶりかの孤独を感じた。

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