それからー6:男爵との別れ

「やあ、またここで会うとはね」

「あ、どうも……」

「うん? そんなに緊張してどうしたんだい?」


 刃こぼれを修繕してもらおうと、アビスはアッシの店を訪れた。作業を待つ間に並べられている品を物色しているところに、メルエム男爵が現れた。


「それはまあ――色々あるじゃないですか」

「ええ?」


 どうもとぼけているのではないらしいと、もう少し実情の確認をしてみることにした。即ち自分の職業と男爵の職業と、それぞれ何だったですかねと。


「ああ――そういえばそうだった」

「そういえばって」

「いやどうも忙しくてね。今日ここへ来たのも、ようやく時間の合間を見つけたんだ」


 男爵は外掛けウエストコートを着てはいるものの、その下に着ているのは鎧下のようだ。第六軍の正式装備でも着けていて、終わったあとに鎧だけは部下に預けてここへ来たという風だった。


「そうみたいですね。まだ事後処理が続いているんです?」

「ううん――そうと言えばそうだし、そうでないとも言えるし。それこそ色々だよ」

「はあ、そうですか」


 どうも本当に偶然に出会っただけで、しかもその上にもボクを捕まえる気はないらしい。

 そういう予測が立って、話題も変わってしまった。ここで殊更に剣呑な方向へ行く必要もなかろうとアビスは思う。


「ところでエリアシ――フラウ嬢は元気かい? 今日は一緒じゃないんだね」

「ええ、ここには軍関係の方もよく来られるみたいなので。体調は悪くないみたいですよ」

「体調、は?」


 やはり鋭い。何だか完全に嘘を吐いてしまうのも心苦しくて、含みを持って話していた。抑揚も普通に言ったはずなのだが、男爵は素通ししてくれない。


「……ええと、実は記憶がちょっと」

「まさか、自分が誰かも分からないとかじゃないだろうね――」


 心から心配している様子に、黙っていることは出来そうもなかった。しかし細かな説明は、こんな場所で出来るものではない。

 おっと、こんな場所なんて言ったら怒鳴られる。

 などと思うのは置いて、声を潜めて言った。


「意識を取り戻すのに、色々あって」


 今日はここで、もうどれだけの絵の具を使ったか。言葉とは、存外に不自由なものだと思う。普通に会話を行うに足る言語知識を持っていても、不用意に使っては他人や自分を傷つけることがある。

 周囲を気にせず好きなように扱える場所というのも、考えてみれば僅かなものだと気付いた。まるで、剣やナイフだ。


「そちらこそ、ペルセブルさんはお元気ですか。命を取り留めたということは聞きましたが」

「元気とは言えないが、回復しているよ。今日もこのあと、会いに行くんだ」


 フラウに恋をしていると言った、男爵の気持ち。それを思うと、話題を逸らさずにはいられなかった。

 以前にも増して健康ならば、まだ良かっただろう。それが記憶に問題を抱えているなど、気軽に会える間柄ではなくなったのに、自分ならばどうしていいか分からない。


「そうですか、良かった。やはり海軍で最も手練れと言われるだけはありますね。あ、いや。最強の男でしたか」

「まったくだよ。命じた私が言うのもなんだけれど、しぶとい男だね」


 しまった。と、アビスは悔やむ。話を逸らすことばかり考えて、これも男爵からすればいい記憶ではなかった。

 何せそのままずばり、死ねと命令したのだ。


「あっ、ええと──その。ううん──だ、男爵もお強いですよね。そんなペルセブルさんに勝ってしまいましたし。今や男爵が最強の男ですか」

「ん? ふむ──」


 あまりに白々しかっただろうか。男爵は、何やら思案を巡らせているようだった。悩んでいるのでもないらしいが。


「お互い、ままならないね。どうだろう、今晩一緒に夕食でも。先日のあの店でね」

「えっ……そんなことをして大丈夫です?」

「問題ないようにするよ。君たちも、新街区を堂々とは歩けないだろう? それに合わせるさ」


 君たち。という言葉は、フラウも連れてこいと聞き取れた。それに、誰だか分からなくなるくらいに変装をしろとも。

 この人なら、今のフラウを見せてもいいのかもしれない。少なくとも、それを港湾隊に言い触らしたりはしないだろう。

 古樽亭の一夜が思い出されて、アビスはそう確信する。




 男爵も剣の手入れを頼みに来たそうで、先に作業の終わったアビスはアジトに戻った。いつもの広間にはいつものように、団長が居る。その横に居るメイと二人でこくりこくりと昼寝をしているらしい反対では、トイガーがフラウと対面していた。


「──戻りました」

「お帰りなさい」

「お帰りですにゃ」


 二人が挟んでいるテーブルには、今朝まで建築関係の資料が山積みになっていたはずだ。しかし今そこにあるのは、最近トイガーが嵌ってしまっていたらしいそれらとは違って見えた。


「どうしたんです、二人して」

「虐めてはないから、心配ないですにゃ」

「そんな風には考えていませんよ……」

「薬について聞かれていたの」


 興味本位に、アビスも尋ねたことはあった。しかしすぐに断念した。目の前にそれらが並んでいればまた違ったのかもしれないが、ただ聞くだけでは情報量が膨大すぎる。


「建築士の次は、薬師になるんですか」

「ミシェルとモーリーが気になるだけですにゃ」


 誰だそれは、薬の話じゃなかったのか。

 ガルイアの人間らしい名前が出て、そう聞きたくはなったものの黙っていた。からかうネタとして分かりにくく言っているのだろうが、きっとフラウが解説してくれると信じたからだ。


「クッキーの話よ」

「え、ええ? クッキー? ミシェルとモーリーという人が、クッキー作りの名人なの?」


 余計に分からなかった。混乱するアビスを、にゃにゃにゃとトイガーは笑う。彼女が声を上げて笑うのはそれほどなく、余程愉快だったに違いない。


「いいえ。クッキーに混ぜていた毒を、モーリーと呼んでいるの」

「ああ、そういうことか。でもクッキー? って、もしかして──」

「ええ。私があなたにあげた──らしいけど。そのクッキーよ」


 ええと──と、アビスの言葉が止まった。フラウにもらってから食べてしまったし、それをトイガーに渡してしまった。

 それから知っているだけでも、コニーにメイ、先王やメルエム男爵が口にしている。


「食べちゃったんだけど……」

「問題ないですにゃ。モーリーはミシェルと出会って、初めて機能するようですにゃ」

「ええ……二種類の毒を混ぜ合わせないと、効果がないということですか」


 まだ毒薬が擬人化して扱われていたので、分かりにくかった。が、そういうことだろう。

 トイガーは、理解してしまったかつまらない、とでも言うように表情を失った。


「正確には二種類ではないの。ミシェルもモーリーも、いくつかの毒を混ぜ合わせた物だから」


 聞けば詳細に教えてくれるのだろう。しかし理解出来そうにないので、聞かなかった。記憶することと理解することは違うのだ。


「例えばミシェルを薬茶として飲ませて、モーリーの入ったクッキーを食べさせます。量を調節すれば、死ぬまでの期間を数日からひと月ほどにすることが出来ます」

「どちらかを食べ続けても、死ぬことはないのですにゃ?」

「なくはないですが、薬の効果で死ぬよりも先に、体を壊すと思います」


 食べさせてからどれほどで死ぬのか、調節出来る。これを聞いて、アビスの脳裏にはデルディの顔が浮かんだ。

 フラウは彼のことを、覚えているのだろうか。アビスの食べたクッキーは、きっと彼を殺めるために作られた物だ。


 え──?

 クッキーについて、記憶のページが順番にめくられていた。その中に、おかしなものがあると思った。


 それは戦場でのこと。プレクトス伯爵に化けていた団長は、今は退位したガレンド王にそれを食べさせた。

 他の人はただおいしいと言っていたのに、ガレンドは何やら目眩か何かがあったと言っていた。

 あれは、どういうことか。


 だが聞かなかった。聞いたところで、答えは出てこない。フラウが自然と思いだしたのならともかく、わざわざつらい思いをさせることはない。


「トイガーさん、終わったらフラウを返してくださいね。メルエム男爵と夕食をご一緒することになったんです」




 男爵のことも、フラウは覚えていた。食事に誘われたことを告げると、難しい顔をしながらも行きたいと言った。

 新街区を出歩くならば、念を入れたほうがいい。アビスは思いつく限り、小綺麗に。フラウにも同じような格好をさせた。

 知らぬ者が見れば、貴族の子息が兄弟で歩いていると見えるだろう。


 夜の帳は、もうすぐ張り終えられる。その道を歩きながら、男爵はさぞ驚くだろうと考えていた。

 だからといって、団長がアビスをからかうようには楽しめない。見せる相手が男爵でなかったなら、違っていたのだろうが。


「この店は覚えている?」

「──ええ。何度か来たことがあるはずよ」

「そう。良かった」


 散らかった記憶を辿るには、どんな工程があるのだろう。悩ましげな表情だけでは、それが分からない。

 ただ、アビスとフラウが最初に二人で食事に訪れた店――だと気付いていない。それは分かった。


 大丈夫。そんなことで、死ぬわけじゃない。焦ったり悲しんだりする必要はない。忘れたのではないのだ、こんがらかっているだけで。きっといつか、すっきり元に戻るさ。

 呪文のように、アビスは胸中でそんなことを唱えた。


 店に入ると、案内の店員にアムの名を告げる。男爵がそう言えと指定していた。

 やはり約束が通っているらしく、食事をしている人々の横を通って奥に案内された。


「こちらでお待ちでございます」

「ありがとうございます」


 どうやら男爵は、個室を頼んだようだ。手前の席からは見えない向きに、凝った彫りの扉がある。店員はそうと指示されているのか、扉を示しただけで去っていった。

 開けてくれるものじゃないのかと思ったものの、アビスとしては肩が凝らなくて具合がいい。


「どうぞ」


 ノックをすると、間髪入れずに返事があった。その声は間違いなく男爵で、待たせてしまったのかと悔やむ。

 とはいえ約束の時間通りのはずだった。また約束をする時には、少し早めに来るべきだと記憶に留める。


 見た目の重厚さに似合わず、扉は軽快に開いた。軋む音もない。

 中には六人ほどで掛けられるテーブルがあって、少人数での密談でもするための部屋と思えた。そうだとすれば、今日ここに集まる予定の三人には相応しいだろう。


「あの……」


 そう感じながらも、アビスは入り口で立ち止まったまま動けない。部屋を間違えているのではないかと、先ほどの店員を呼び戻そうかと思いもした。


「どうしたんだい? 突っ立っていないで、入るといい」


 部屋のどこかから、紛れもないメルエム男爵の声がする。

 おかしい。この部屋に居るのは、以前にフラウが着ていたような簡易のドレスを着た女性だけだ。

 髪も腰ほどまであって、立ち姿は可憐そのものだった。


「お招きいただきまして、ありがとうございます」


 青年の姿をしていながらも、フラウは女性としての礼を示して部屋に入った。そのことにまた戸惑いながら、アビスも釣られる。


「あはは。やはり気付いていなかったんだね。私だよ。正真正銘、メルエムだ」

「え……め、じょ……あの、ええと。そ、これはううん……ええ?」


 メルエム男爵は見目麗しく、王国の女性がみな憧れる男性だと思っていた。

 まさか似合うからと女性の衣装を着てみたのだという冗談だろうか。いやそんなはずはない。

 大きく開いた襟ぐりから覗く胸の膨らみは、男爵の性別をこれ以上なく証明している。


「驚くとは思っていたが、そこまで激しいとは思わなかった。私には、そんなに似合わないだろうか」


 苦笑とともに、男爵は自身の姿を眺め回した。スカートの裾を広げて、仕草も完全に女性のものだ。


「いえ、そんなことは! すごくお似合いです。綺麗です」

「そうかい? 嘘でも嬉しいよ、ありがとう」

「嘘じゃありませんよ! 本当に綺麗です!」


 男爵の表情が、苦笑を通り越して少し困った顔になった。どうしたかと見ると、視線はアビスから外れている。それを辿った先は、横目でアビスを見るフラウだ。


「それくらいにしておいたほうがいいね。信じるけど、悪いから」

「そ、そうですね。失礼しました」


 がたがたと椅子を鳴らしながら、アビスはフラウを座らせて自分も腰を落ち着けた。そこですぐに用件を話し始めたのは、空気を替えるためではなくそれが本筋だからだ。

 そう自身にも言いわけをしたが、真偽は定かでない。


 フラウの髪が、男児かと思えるほどに短くなっていること。記憶が混乱して、過去の行動を辿るのが困難であること。それらとその経緯を聞いた男爵は、真顔のまま黙っていた。

 けれどもそれほど長くはなく、自然に瞬きを五度ほどしたあとには言葉が接がれる。


「そうか――私は君に、どれほど感謝しても感謝しきれない。私は前に言った。彼女を連れて、どこかへ逃げてくれと。しかし君はそうしなかった。逃亡者として隠れ住むのではなく、カテワルトに彼女の居場所を作ってくれた」


 いつか見たように、男爵は深々と頭を下げる。既視感はあるのだけれど、やはり違うとも思える光景だった。

 男ならいいというのでもないが、女性にいつまでもそんなことをさせるのは心苦しい。


「頭を上げてください。ボクは周りに居るみんなに助けてもらったんです。もちろん男爵にも。お礼を言うのはこちらのほうです」

「ありがとうございます」


 アビスが言って、フラウも礼を言った。感情がそれほど乗っていない、深みのない言葉だった。それが男爵にどう聞こえたのか、きっと自分と同じに違いないとアビスには思える。

 フラウに恋をしていると、男爵は言ったのだから。


「私の名は、アーマビリア・アル=メルエムと言う。最初に名乗った時は、たぶん家名しか言わなかったんだね。新たに名乗る機会なんて最近なかったから、うっかりしていたのだと思うよ」

「ああ――女性らしい、いいお名前ですね」

「また睨まれるよ」


 話題が男爵のほうに移って、彼――と思っていた彼女は笑う。睨むなどという複雑な感情を、今のフラウが示すはずはないと分かっていながら。


「私の用件は大したことじゃないよ。久しぶりに、二人とゆっくり話したかったのが一つだ」

「ということは他にも?」

「うん。私は、ジェリスに駐留することになった。緊急対応でなく、正式な任務としてね」


 ジェリスという場所がどんなものか、アビスには想像もつかなかった。孤立した海上の拠点なのだから、厳しい環境というのが何となく思えるくらいだ。


「ではいつ帰って来られるか」

「分からないね。戦争でもあって、武勲を立てれば希望は出来るけれどね」

「それは――そうなればいいですねとは言えませんね」


 つまり男爵は、別れを告げに来たのだ。

 ジューニが陸の最前線であったのと同様に、ジェリスは海上の最前線だ。たった今が落ち着いているからと言って、次の瞬間も平和とは限らない。瞬きをしたあとは、血みどろの地獄になっている可能性もゼロではないのだ。


 もう二度と会えないかもしれない。それはアビスの胸を締め付けたが、そんなことをわざわざ機会を作って言ってくれたことも嬉しかった。


「無事にお帰りになることを祈ってますよ。それに……」

「それに?」


 言いながら思いついたことを、そのまま言おうとした。しかし言っていいのだろうか。何を馬鹿なことをと、笑われるだろうか。そんな迷いが浮かんだが、男爵との縁を思うと言わずにはいられなかった。


「ボクなんかで役に立つことがあれば、連絡をください。男爵のためなら、どんなことだって――団長にも頼んでみます」

「……へえ。それは頼もしいね」


 それからフラウも、思い出した断片を時に語った。二人は笑って、フラウもぎこちなく微笑んでいた。楽しい時間は夜が明ける近くまで続いて、思う限り話し尽くした。


「女の身で恋をしていたって、そういう意味なのかな。それとも違う意味があったのかな。次に会ったら、聞いてみよう」

「何の話かしら」

「男爵に聞き忘れたんだよ」


 小さな嘘ではあった。聞き忘れたのでなく、聞くのが悪くて聞けなかったのだ。

 人は誰だって嘘を吐く。けれどそれは、優しい嘘であるべきだ。人を傷つけるための嘘を吐かないでいい人生を、アビスは送りたいと思った。


 しかし、いま自分の視界の全てを占める、この女性は別だ。

 フラウを守るためならば、ボクはどんな嘘だって吐いてみせる。世界で最も強い男にも、世界で最も素早い男にもなってみせる。そんな嘘を、自分に吐いてみせる。


 二度と会えないかもしれない男爵を思って、失いたくない女性のために、アビスは誓った。

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