第354話:葛藤の螺旋
親方の目がこちらを窺って、ふいと酒のほうに向いた。
「駄目、か。さっさと切り替えをした、身近な例を出してみたんだがな」
「そういう──すみません」
ボクを諭すような話が続いたので、世間話的に小休止として話しているのかと思っていた。
でもこれも、ボクへの助言だったらしい。
「どうにも、前を向こうって面じゃねえな」
「すみません……」
「いや、性急すぎるとは分かってるんだ。けどお前さん、放っとくとそのままずるずる行っちまいそうでな」
今カップに注いだ分で、コニーさんの置いていった水袋をとうとう空にしてしまったらしい。直接に口を付けて、一滴たりとも逃すまいという格好だ。
「そうだ、こんな話をしても慰めにはならねえかもしらんが。俺が上官を殺しちまったのは知ってるよな」
親方の話を聞くのが、苦痛になっていた。
つまらなくてとかではなくて、大人として正しく、優しい語りかけ。それが泥のように纏わり付く。
こんなことを考えては申しわけないのだけれど、鬱陶しくて堪らない。
浅い桶みたいな窪みは、どうして出来たんだろう。小石がごろごろ転がっているけれど、ここをねぐらにした住人たちは片付けなかったのだろうか。
親方の声から気が逸れてしまうと、そんな穴の中のどうでも良いことなんかが目についてしまう。
と、入り口の方向で気配が動いた。いつの間にかコニーさんが、すぐそこに戻ってきていた。
「あれえ? 親方が飲んでるのは、おいらのお酒じゃないのお」
「おっ──と、こいつはしまった」
じとっとしたコニーさんの視線から、親方は顔を背ける。口笛でも吹けばいかにも白々しいのだけれど、実際に出たのは欠伸だ。
おっさん臭い姿にコニーさんは苦笑を浮かべて「もう。代わりを取ってきてよ」と言いつける。
「あいよ。もうちっと早く立っておけば良かったぜ」
「ぶつぶつ言ってないで、早く行きなよお」
よっこらしょと唸りつつ、親方は立ち上がって穴の奥へ足を向ける。
そのまま行く様子だったので、とりあえず終わったとほっとした。のだけれど、その足がまた止まる。
「そのまま腐っちまわないでくれよ。俺も寝覚めが悪いんでな」
「はあ……」
何を言っているのか、よく分からない。しかし意味を問い質す気にはならないし、コニーさんも「しっしっ」と追い払ってしまった。
「……ねえ、アビたん」
親方が立ち去ってしばらくしてから、コニーさんはぽつと言う。親方が残していた果実酒を焚き火で温める手に、視線は注がれている。
ぱちぱちと静かに爆ぜる音が、時を刻む。その片手間には、暗い穴の空間と闇をも埋めていく。
「──なんでしょう」
膝を抱えて、そこに顔を埋めてやっと答えた。コニーさんが次に話すことは、ボクの人生に大きな意味を持つと予感がしたから。
「アビたんは、どうしたいのお」
「どう──って、何をですか」
何を聞かれているのか、分かっていた。でも考える時間が欲しくて、小狡く質問で返した。
考えようとしたって何もまとまらないのだから、いくら時間を作っても同じなのに。
「そうだねえ、色々と選択肢はあると思うよお。でも大きな二択っていうのが、あると思うんだよお」
「二択?」
これはすぐには分からなかった。ちょっと考えて、ああそうかと得心する。つまりコニーさんが、このままボクと話すかどうかということだ。
「うちに残るのか、残らないのかだよお」
「そうですね……」
残るとしたら、ボクはどんな立場になるだろう。団長もさすがに呆れているだろうか。トイガーさんやトンちゃんには、叱られるでは済まない気がする。
残らなかったとしたら、ボクはこれまたどうするんだろう。どこかで一人で生きていくのか、親方の世話になるのか。
残るも残らないも、その状態にある自分が想像出来ない。何かを決めるのがこんなに難しいなんて、知らなかった。
「おいらとしては、残ってほしいと思うよお。でもこればっかりは、アビたんがどうしたいのかだからねえ。お願いは出来ても、どっちかをお勧めしたりは出来ないよお」
ボクは黙っているのに、コニーさんはそんなことをずっと言ってくれていた。ボクの考えを邪魔しないように、問いかけでなく独り言として。
「ボクは……」
どうするんだ。ミーティアキトノに残って、またやり直すのか。
それとも退団して、どこかへ行くのか。
自問自答が、同じ文句を繰り返す。その螺旋はどこにも辿り着かない。
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