第334話:伝わるもの

「アビス……」


 潤んだ目が、ボクを見つめる。

 ボクの腕を抱いたまま、何をか言いたいけれど言葉が出てこないように、口が開きかけて閉じる。

 真っ赤な唇が、フラウの命そのものに見えた。


「ごめん。でもボクは、この提案を受け入れるわけにはいかないんだ」


 泣き出しそうな顔のまま、彼女は小さく、薄く笑った。


「どうしてあなたが拒むですにい? 望んで死にたいわけでもないですにい」

「もちろんそうです。でもその話を受け入れると、やっぱりボクは死ぬんですよ」


 何を言っているのか分からないと、夫人は困ったように「ええ?」と漏らした。


 分からないだろう。あなたには。

 悪辣な意志の下に、人でない道を示されて。そうとしか生きられなかった人間が、どう感じるのかなんて。


「またボクを物として扱うんですね、あなたは。ボクがどう考えているのか、今どうして生きているのかなんて全く関係なく」

「──否定はしないですにい」


 鼻から息を吐いて、温度のない視線がボクを刺す。

 この目だ。これが昔から、ボクを縛っていた。熱くもなく凍えることもない、何の感情も乗らない視線。


「どうであっても、死ぬよりはいいと思いますにい」

「駄目なんですよ。百歩譲ってそれを良しとしたとしても、フラウを犠牲にして生き続けるなんて出来るはずがない」


 伝わらない。ボクも感じていることを言葉に出来ているとは言えないが、どうしてこんなに伝わらないのだろう。

 同じ言語を話しているのに。人間同士だろうに。

 どうしてここまで、理解されたと手応えがないんだ。


「なるほど、そういうことですにい」


 違う。そうじゃない。

 夫人が次に何を言うのか、どう受け取ったのか分からないけれど、違うということだけは分かる。

 ボクが言いたいのは、そうじゃない。


「閣下、大変に我が儘を申しますにい。その少女をも、こちらで買い取らせていただくことは出来ますかにい」


 ああ、やっぱり……駄目だ。この人とは、分かり合えない。


「違う!」


 ボクが吠えたと同時に、地面が揺れた。

 地面を伝わる振動だけでなく、空気を伝ってくるものもあった。即ち、大きな音。


 ドン、と。口で言い表してしまえば単純な、破壊音としては派手さに欠ける。でも巨大な音量を持っている。

 それは爆発の音だった。


「どこだ」

「すぐに」


 起きた場所は遠いのだろう。音も振動も、それだけで驚かされてしまうほどではなかった。誰か呼ぶためにだろう。ヌラが高く鳴らした手と手を打つ音のほうが、よほど驚いた。


「城の一部が崩れております。詳細は確認中ですが、爆発物によるものであるのは間違いありません」


 天井から降ってくるように、影の一人らしい男がすぐに現れた。間髪入れずと言っていい。

 しかしヌラが頷いて、さがるように示しても立ち去ろうとしない。


「他に何かあるのですか?」

「いえ──余計な話とは存じますが」


 片膝を突いた姿勢から、男は蹴りを放つ。

 床に接するほどの低い位置から、ヌラの顔面を襲う槍の一撃のような。体の捻りと脚を突き出す動作を、同時にこなすその体幹。その動きには見覚えがある。


「団長!」

「呼ばれて飛び出たにゃん」


 いや、呼んだのは今なのだけれども。

 それはともかく、咄嗟に体を反らして避けたヌラ。それでも団長の脚は途中で軌道を変えて、鳩尾の辺りを打ちにいった。

 それには堪らず、さすがの執事も三歩分ほどを跳んでさがっていた。


「おかしいですね。あなたはカテワルトに向かったはずですが」

「仲間の危機と、お宝のあるところには必ず現れるのがあたしにゃん」

「あと、お酒ですね」


 全身の力が抜けてしまいそうだった。嬉しいのか、安心したのだか、張り詰めていたものが緩んでしまいそうだった。

 軽口の一つも言って、気を他に逸らさなければ危ないところだ。


「そうだにゃ。サマムは発酵酒がたくさん貯蔵してあるらしいにゃ。ご馳走してほしいにゃ」

「機会がありましたら、ぜひに」


 椅子を立って、団長の横に並ぶ。フラウは後ろに隠して、ヌラから目を離さない。

 でもこの場で油断ならないのは、ヌラだけではない。アレクサンド夫人の連れてきた操り人形マルネラに、ユーニア子爵だって手練の戦士だ。


 今はそのどちらも動こうとはしていない。気配でそれは察せられるけれど、動き出してしまえばそれでは駄目だ。

 さらにそこへ、他の影が入ってくるのも当然にあるだろう。


 手が足りない。

 ボクが頭数に入らない、情けない事実は無視するとして、団長だけではこの場を切り抜けられない。


「あの、メイさんは──」


 団長にだけ聞こえるように、こっそり聞いた。彼女が入れば、状況は全く違う。同じ意味で、サバンナさんが居るというのであっても心強い。


「ここには来てないにゃ」

「あら……」


 いつも通りの微笑みには、安心感を覚える。

 でもそれでは、ヌラが両手を背に隠しながら間合いを取ることの慰めにはどうにも足らなかった。

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