第264話:瑣話ー鉄血の淑女
私は幼いころ、口減らしのために捨てられた。
それがどこからどうなったのか、数万の人間が争う戦場に、頭から爪先までを立派な鎧に包まれて居合わせるとは。人の運命とは数奇なものと、納得せざるを得ない。
私とて、女の端くれではあるのだが。
捨てられたと言っても、そのころの記憶はない。失ったのではなく、幼かったから覚えていない。
今はアーペン連合王国の傘下にある私の故郷は、比較的に大陸東方の民族の血が濃いらしい。その風貌のおかげで、後々になって生みの親も判明した。この親も、もう生きてはいないけれども。
幼い私が死なずに成長したのは、まず山の村の人々のおかげではある。いくらか人が集まって住んでいるから村と言っただけで、ここからここまでがそうだという境界も判然としない。だからもちろん、村の名もない。
そこに住む人たちにとって、子は宝となる。いくらか食べ物を与えれば、赤子だって数年で働き手になる。幼ければ幼いほど、その期間も長くなるのだから喜ばれる。
だからといって、よそから攫ったりはしていないようだった。そんなことをしなくても、探せば捨て子なんていくらでも居た。
乳飲み子を脱したかどうかくらいの時期だったそうだが、私はすぐに働かされた。複雑なことではない、集落から少し下ったところを流れる沢へ水を汲みに行くのだ。
そんな子どもが水を入れて持ち運べる物だから、小さな容器だ。それを日が昇ってから暮れるまで、延々と運び続けた。
私が数十回の往復を費やして増やした嵩を、暑いからと頭からかぶるために使われた時などは多少の理不尽さを感じもした。
しかし話に聞く奴隷などよりは、よほど扱いは良かった。夜には、お腹いっぱいに食べることも出来た。
その煮炊きにも水は使うのだから、運ぶ役割りは誰かがしなくてはならないのだ。
一年だか二年だか。少し成長したので、また違う仕事をするとかいう話をしている時、彼らが現れた。
狩人か何かのような風体だったが、聞けば職業は人買いだった。
商談は、気に入らなければ金を払わずに連れていくということだったので、人攫いと言っても良いだろう。
彼らが欲したのは、物心のつくかどうかくらいの子どもだった。つまり私も、その中に入る。
全員を連れて行かれては困るが、そうでなければどれでも連れていけと村の大人たちは言った。もちろん、実の子どもは隠してある。
私の他に、何人かが買われた。
それぞれがこれまでに食べた食事代と、これから同じ人数が同じだけを食べる食事代が支払われた。
つまり、端金だ。
それでも現金収入などほとんどない、村の人々は喜んだ。希薄ながらも村の一員としての気持ちはあったのだが、「じゃあな」とも言われなかった。
多少は残念にも思いはしたが、そんなものなのだなと素直に理解も出来た。実の親さえも、要らないと捨てた私なのだ。ここの親は、自身の子を確保しているだけはましというものだろう。
村から発つ時点で、子どもたちは二、三人ずつに分けられた。別の場所に行ったその子たちがその後どうなって、今はどうしているのか全く知らない。まあ、興味もない。
連れていかれた場所で、私はとにかく肉体を鍛えさせられた。当時は知らなかったが、そこはレリクタの武闘の里だった。
村から一緒に来たもう一人の子は、それほど経たない間に死んだ。死んで当たり前の訓練を、普通にこなせるようでなければならなかった。
自分で言うのもどうかと思いはするけれども、十歳ころになると私は美しい容貌に成長していた。
いや本当に自分ではそれをどうこうと思ってはいなかったが、レリクタの大人たちがこぞってそう言っていたのだから間違いないのだろう。
武闘の技術を得るための場所で、容貌が関係するのかと。
大いに関係する。
もちろん多数と多数でぶつかりあうような場合には、あまり意味を持たない。しかし私たちが未来に買われる先は、主に護衛やら暗殺やらを求めている。そういう場面では、一つの武器として十分以上に役立つ。
相手が男であれば、女を相手にいつもと同じ調子で戦える者は少ない。「俺は女であっても容赦はしない」などと吐く輩も居るけれども、そんなことを言う時点で何らか意識をしているということだ。
逆に女であれば、同性ということで張り合ってくるか、馴れ合おうとするかのどちらかが多い。
暴力が圧倒的にものを言うこの世界で、女が働ける場所は少ないのだから、張り合いたくなる気持ちは分からなくもない。しかし得てしてそうだとこちらに悟らせる女は、容貌や声のように後天的にはどうしようもない面で争おうとする。
そこでまず優位に立てるのは、悪いことではない。
馴れ合おうとする女の大半は、こちらを利用しようとする。容貌が意味を為さないのは、唯一この相手だろうか。まあそれも場合による。
というのも、彼らに教わったことほとんどそのままだ。その後の実体験ではなるほどと思うばかりで、多少の付け加えがあったくらいだったと思う。
肉体的には、依然として筋力と運動能力を鍛えさせられた。その上で適度に脂肪もつけろと指示された。それに役立つ薬物も支給された。
おかげでどんな超重武器であっても、どんな防具であっても使いこなすだけの技量と筋力を手に入れた。
他の国ではどうだか知らないが、少なくともハウジアやその近辺の国々で、男も恐れを抱くような筋肉を見せつける女に色目を使う者はかなりの少数派だ。
だから薬まで与えてもらって、見てくれにも気を使うことが出来たのは恵まれていた。
もしもこの話を善意の誰かにしたとすれば、そんな男だと分かっているならば相手にするべきでないと言われるだろう。
分かっている。
だが私は、普通の色恋を目指して訓練しているのではない。そういったことを利用して、あらゆる意味で勝つことを目的にしているのだ。だからそうしやすいほうに自分を合わせるのは、至極当然だ。
そんな日々が過ぎて、私は十八になっていた。買うにも借りるにも私は高額で、なかなか行き先がなかったのだ。
そのころレリクタにやって来たのが、シャナルさまだった。
ひと目でご高齢と分かる風貌ではあったけれども、身のこなしは全くそれと釣り合っていなかった。
顔見知りらしく、いくらか会話をしただけで村に入ってきて、そのまままっすぐに私のところに来た。
「お嬢さん、お名前は?」
「……名前?」
問われるまで気付いていなかった。私には名前がなかった。
レリクタでは、訪れた時点で既に名があればそれを使うが、なければ名無しのままになる。
そのほうが、持ち主となった者に都合の良い名を付けやすいからだ。
それにこれまで、私自身が名前を必要としていなかった。
拾われた村でもレリクタでも、用があれば「おい」とか何とか呼び止められるのだから不都合はない。
「おや、ないのですか。こちらで付けさせていただいても?」
とても紳士的に、シャナルさまはそう仰ってくれた。
どう答えて良いものか分からずに、着いてきていたレリクタの大人を見ると頷きが返ってきた。
「よろしくお願い致します」
ほんの僅かに左の踵を下げて腰を折ると、「ほう」と感心したような声が聞こえた。
顔を上げるとシャナルさまは優しく微笑まれて、私の肩に両手を置いた。
「よく勉強していますね。良い名を贈らせていただきますよ」
シャナルさまは、他にも買い付けるべき人材が居ないかと私から離れていった。
背中を見せているのに、まるきり隙がない。足元は草葉があるのに、音がしない。それでいて姿勢良く、きっとどこかの執事か何かをされているのだろうと容易に想像がついた。
レリクタで教えられた中に一つだけ、私には出来ないだろうと思っていたことがあった。
それは、誰かを好くということ。それも永遠に叶うことのない相手であるのが望ましい。
そんな片想いを心に秘めた女は、理屈でない美しさを持つのだと教えられた。
あくまで私が教えられていたのは戦闘術で、話術や心理に関してはそれを活かすための従物に過ぎない。
ましてや自分自身を騙すような、器用な真似は出来ない。そう思って諦めていた。
しかし私は、いとも簡単に恋に落ちた。
生まれて初めて、他の人々と違う私を示す記号を知りたいと言ってくれた。ただそれだけで。
それはシャナルさまに取って、商品の名を聞いただけなのだろう。
私だって商店に見たことのない野菜でもあれば、名を尋ねる。
でも良いのだ。
最初がそんな勘違いであったとしても、今はグレーの髪が愛おしい。
落ち着いた中にも、抑揚のある声が愛おしい。
よく洗顔や手洗いをする姿を見かけて、清潔に保たれた顔や手足が愛おしい。
執事服であっても、戦闘服であっても、それぞれに背の伸びた姿勢が愛おしい。
音もなく、動作も見せず、そうだと悟らせずに人を屠る情のなさが愛おしい。
私だけにでないのは少し悔しいけれど、部下たちに気を砕いてくださるのが愛おしい。
出会った次の朝。宿泊されたシャナルさまは、最初に私に会いに来てくださった。
「いやはや、夜通し考えてしまいました。やはり己が名前となると、愛着を持てるものが良いでしょうからね」
「私の名を、ずっと──でございますか」
「ええ。おかげで良い名を思い付きました」
私はその名を、誇りに思う。この名を持つ限り、私はシャナルさまに着き従う。
「詩歌の女神。美しくしてなお、教養に溢れるあなたにはぴったりでしょう」
「シェクトニア──ですか?」
「ああ、いや。そのままではあなたも畏れ多いでしょう? ですから、セクサと」
私、セクサは影の中──いや鎧の中にあって恋をする乙女に成り下がった。これほど嬉しいことはない。
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