路地裏の怠け者

第202話：近づく剣戟

　目的を遂げたら、死ぬつもりか。いや、もしかすると……。

　憶測をどれだけしたところで、成果はない。今は目の前に、目を向けなくてはならないことがたくさんある。

　まずはフラウやボクたちが、縛り付けられているこの状況。次にはリマデス辺境伯の軍勢の只中にあって、周りの兵士が逃がしてくれるとは限らないこと。

　すぐ近くに居る兵士は、さっきの会話を聞いていたかもしれない。だから逃がしてくれるかもと甘い考えをしたとしても、それ以外の兵士はそんな事情を知る由もない。

　何もいい考えが浮かばずに「どうしよう」と漏らすまで、それほどの時間はかかっていない。

　その間にも、戦況は刻々と変わっていった。

　辺境伯の軍勢は、ほぼ完全に王軍へと矛先を向けた。他の部隊に対しては、最後方が受け流しているだけみたいだ。

　その最後方が、急速にボクたちの近くへ迫っていた。

　前線が瓦解したのでなく、後方の部隊が薄く皮を剥がすように前方へと移動しているからだ。

　そうすると当然ながら、中抜きの敷き物のように後方の前線は萎んでいく。

「この調子なら、このまま待っていればメルエム男爵やワシツ将軍に助けてもらえるかもしれませんね」

「いえ、その考えは捨てたほうがいいでしょうね」

　他人の行動だけを当てにするのはどうだろうか、と思いつつも言ったことを否定されて、やはりそうかと反省する。

　しかしどうやらボクが考えたのとは別の理由で、ミリア隊長は言ったらしい。

「ここは戦場です。敵であろうが味方であろうが、邪魔になる物は踏み潰されて当然と考えなければいけません。もちろんアビスくんの言った通りになる可能性もありますが、少なくとも身の自由だけは確保しておいたほうが良いかと」

「そういう――ものですか」

　ミリア隊長はこくりと頷いて、周囲を注意深く見回していた。

　当たり前に、彼女も脱出する方法を考えている。しかしあの様子だと、やはりこれという方法はないみたいだ。

　そういえばコニーさんはと見ると、いつも通りの暢気な感じで自分の正面を見ていた。

　何かに注意を払っているような様子は全くなくて、すっかり諦めてしまったという調子でさえない。

　まさか、どうしようもないと悟って現実逃避？

　それこそコニーさんに限ってあり得ないとは思ったけれど、結局どういうことだか予想がつかなかった。

　本人に「今、何を考えているんです？」と聞いたところで、答える人でもないし。

　そうこうしている内──いや何もしない中、最後方が移動しなくなった。

　元々はボクたちの居る辺りが最後方であって、部隊が大きく移動したでもないのに、後退するにもそれは限界があるだろう。

「あそこが最終防衛線ということですね。王子殿下を討ち果たすまで、のですが」

「ええ、遠いですね……」

　それは心象としての距離だ。実際には民家が五、六軒も並ぶくらいの距離でしかない。

　しかし今のボクにとって、途轍もない彼方に感じられる。

　前へ、前へ。

　味方を鼓舞する声さえ聞こえてきそうな勢いで、男爵やワシツ将軍の旗が近付いているのを見ていた。

　でも今また、その前進がぴたりと止まっている。

「ああ……」

　あれは、きつい。

　精鋭で鳴らすワシツ将軍が、あれだけの大軍を一手に引き受けていたメルエム男爵が、どうして攻めあぐねているのか理解した。

　二人の前に立ちふさがっているのは、ほとんどがギールで構成された部隊だ。

　ハンブルとギールと、人種として総合的にどちらが優秀と決めつけられるものではない。それはキトルだって同じだ。

　けれどもこと戦闘に関して言えば、その両者では平均値に格段の差があると言わざるを得ない。

　これは優劣の問題でなく、向き不向きの問題だ。

　誰だって水を汲むには、フォークでなくカップや桶を使うだろう。肉を食べるには、ナイフやフォークを使うだろう。

　ただそれだけのことだけれど、それが絶対と言っていいだけの差になっている。むしろ押し気味なのが不思議なくらいだ。

「ん？」

「どうしたんでしょうね」

　最初からフラウの見張りに立っていた二人の兵士の一人が、もう一方に歩み寄って何か話している。

　これまでずっとボクたちの縛られている格子板の両脇で動かなかったのに、何かあったのか？

　怪訝に見ていると、二人が並んで歩み寄ってきた。

「何です？」

　兜の奥の目で、二人はこちらをじっと見ているようだった。

　問いかけても何も返事はなくて、妙なことを考えてはいないだろうなと不安を感じた。

「ぷっ」

　笑った？

　一方が吹き出して、それで堪えきれなくなったらしく、肩を震わせて笑い始めた。

　それでも声は抑え気味で、どういう状況なのかまるで分からない。

「作戦は、もう一つだったみゃ」

　やれやれといった風に、笑っていないほうの兵士は息を吐いた。

　いやでもこの声は、この喋り方は

「――トンちゃん？」

「でも、ここまで来たことは認めてやるみゃ。惜しかったみゃ」

　ボクたちの被っていたのと同じ、鼻筋を隠す兜。その向こうで薄い唇が、にやと笑った。

　こっちがトンちゃん、ということは

「メイさん？」

「お手伝いに来たみゅ！」

「ありがとうございます！　って、お手伝いです？」

　ボクがここに来ることを、分かっていたということだろうか。辺境伯の目的がこちらにあると気付いたのは、トンちゃんと別れてからなのに。

「アビを補助しろって、団長に言われたみゃ」

「ああ、なるほど――」

　全然、なるほどじゃないけれども。

　いつからこの軍勢に紛れていたのか知らないけれど、擬態しているのに気付いていなければ、そう出来ない。

　あの人は、いつから気付いていたんだ？

　話している間に、メイさんは爪でロープを切ってくれた。

　分からないこととか不思議なこととか沢山あるけれど「この場をとにかく離れましょう」と言ったボクに、ミリア隊長は「無理ですね」と言った。

　彼女が指す方向から、まっすぐこちらに突き進んでくる軍勢があった。