第176話:互いの事情

「ずっとお鍋を見ていたのにちょっと窓の外を見て、目を戻したら吹きこぼれていたなんてことがありますよねえ」

「誰しも、一度くらいはやるでしょうね」

「故意にそうさせることが出来るんですよう?」


 オクティアさんは教えてくれた。レリクタで作られた薬のことを。

 それは使った人間への注意を、低下させる効果があるという。透明になるわけでも、見られた事実を失くすわけでもない。他へ注意を逸らせると言ったほうがいいのかもしれない。


「つまり見ていた者が、全員で一斉によそ見をした――ということでしょうか?」

「そうなりますねえ」

「見失ってからも、自分は何を監視していたんだったっけ? となるわけですか」

「そうなりますねえ」


 それは何て強力な効果なんだ。

 ヌラとオクティアさんとの会話に、思わず割って入ってしまった。

 もしもそれを街中で強盗を働く生業の人間なんかが手にしたら、被害を防ぐことも捕まえることも相当に困難だ。


 でもオクティアさんが言うには、特に強い精神作用ということもないらしい。

 誰だって意識的にまばたきをしたくなることはあるし、道を歩いていて何となくこっちに曲がろうと考えることはある。

 そういった意識を起こすだけなのだそうだ。


「それが大変な気がしますが」

「そうかにゃ? 何となくどんよりした道より、清々しい道のほうが良くないかにゃ? 黙ったままつまらなそうな他人より、笑って楽しそうな知り合いのほうに目を向けないかにゃ?」

「よくお分かりですねえ、そういうことなんですよう」


 それから細かい説明もしてくれたみたいだけれど、難しくてよく分からなかった。

 けれどもつまるところ、幻覚や幻臭なんかを利用したものらしい。表面的に気持ち悪いとか臭いとか感じさせるのでなく、無意識に目を背けたくなるようにしているのだと。


「どうにも詳しいねえ。あんた、どうしてそこまで分かるんだい?」

「オクティアさんは、レリクタで育ちましたからねえ」


 少し離れた先の倒木に腰かけて、黙って聞いていたクアトがこちらへ来た。口調は問い詰めるものだけれど、表情はいつものまま薄く笑っている。


「それを言ったら、あたいたち全員がそうだろうよ」

「あらあ? オクティアさんはですねえ、武闘の里ぶとうのさとの前に薬毒の里やくどくのさとに居たんですよう」

「はあ?」


 レリクタとは一つの場所でなく、複数あるとは聞いていた。

 今の話からすると、そのそれぞれに名前のようなものもあるらしい。しかもクアトやウナムたちは、そこで一緒に育った仲だと。

 武闘の里とは――それはどういうところだか知らないけれど、何だかこの人たちの特殊な戦い方にも納得がいく気がした。


「里を移動する奴が居るなんて、知らないけどねえ。ジジイ、そうなのかい?」

「さて、私はあそこの管理とは関係ないのですがね。そういうことも、稀にはあるそうですよ」

「そうかい。疑っちまって悪かったね」


 やけにあっさりと、クアトは引いた。部外者の居る前で、ここまではっきり裏切りを疑う発言をしておいて。

 しかし言われた当のオクティアさんも、気にした素振りは全く見せずに答えを返す。この人はそもそもそういう表情しかしないので、実のところはどうなのか、だけれど。


「いえいえ。勘繰る前に、何でも聞くのがルールなのですう。分かっていただいて嬉しいですよう」


 話はそこで戻された。これからどうするべきか、だ。


「つまり初めて火の番を任された小っちゃな子どもみたいに、きっちりがちがちになって見てればいいってことかみゃ?」

「そういうことですね。そうすることで相手に気取られるかもしれませんが、見失うよりはいいですし」


 木の枝に寝そべったまま、トンちゃんが問う。

 言う通りその薬への対処法は、いとも単純なものだ。でもトンちゃんのように熟練している人には、それがなかなか難しいのかもしれない。


「おやあ。トンちゃんにも、そういう経験があるのかにゃ?」

「――団長、ウチにそんなのないことは知ってるみゃ?」


 からかう団長に、トンちゃんは少しの間を空けて答えた。何を馬鹿なことをと鼻で笑うような言い方ではあったけれど、その視線はそれ以上を言うなと制しているようにも見えた。


 影たちはお互いを一蓮托生みたいに思っているようだけれど、ボクたちミーティアキトノは互いの過去をあまり知らない。

 ボクは多くの団員に知られているほうだと思うけれど、それでも細かいことまでちゃんと知っているのは団長とメイさんだけだ。


 どっちが正解ということはない。あちらにはあちらの、こちらにはこちらの、いい面と悪い面がそれぞれにある。

 現にボクは、ここに居られて救われている。それで十分だ。


「さて問題は、辺境伯が軍勢の外に釣り出されるようなことはもうないだろう、ということですね」

「そうだにゃあ。あたしに考えがあるけど、乗ってみるかにゃ?」


 団長が指を一つ立てる。

 またフラウをさらわれ、辺境伯を取り逃がしてしまったのは、もちろん怪しい薬が最大の原因だ。

 でも影たちと共同でことを行うために、結局のところ互いの行動を制限してしまったのも理由の一つらしい。


 つまり今度はそうではない。団長の作戦に、誰もが耳を傾けた。

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