第177話:黒衣の少女ー12

 この上のない幸福。

 きっとこれがそうなのだという気分だった。


 尊ぶべき人物が居て、その人は自分を愛してくれている。今だってこれだけたくさんの人々が居るのに、自分だけを愛してくれている。


 火を囲んでの宴の最中。服を着たままではあったが、フラウは辺境伯の膝の上に居た。そこで自分の体を揺すっている。

 同じ火を囲んでいる隊長格の騎士たちも、自分が目を付けていた奴隷の女をそれぞれに愛でていた。


 しかしフラウにはそれが宴であることも、周囲が何をしているのかも理解出来ていない。


 目の前にはブラムが居る。視線は酒や食べ物、それに隣で話している誰かに向かっていても、体の一部は繋がっている。

 それはつまり、必要とされているということだ。

 それだけで幸せだと感じていた。


 でも何だか――忘れているような気がする。


 頭の片隅、意識の陰、心の底。どこかそんなところに、置き去りにしてしまった何かがあるように思えた。


 ブラムにはいつも傍に置いてもらいたいと、心中で願い続けている。

 けれどもそれとは別に、そこに居て良いのだと、そこへ居ることに理由など必要ない。そんな場所が、どこかにあったようにも思う。


 夢を見ていたのかしら。


 それが本当に夢なのだとしたら、酷い悪夢だ。

 やるべきことを果たし、肉欲にも答え、必要性を示さなければ人が生きる意味などない。それをブラムが許すことなどない。

 許してもらうことこそが、喜びだ。


 その事実に誤りなどないと思い直した時、ブラムと目が合った。


「何を考えている?」

「いえ、大したことでは。ブラムさまに愛されるのは、幸せだというだけです」

「それが大したことでないとは、お前も贅沢になったな」


 そう言われて、フラウははっと青ざめた。

 何てことを言ってしまったのか。それが生きるための至上だというのに、説明をごまかすためのだしに使ってしまうとは。


「いっ、いえ! 私はこうさせていただくことが、何より幸せです! 先ほどの言葉は――」

「構わん。大方、呆けてしまっていたのだろう。幸せでな」


 ブラムが助け舟を出してくれたことに、ほっと息を吐いたものの、フラウはまた別の疑念を抱いた。


 私はブラムさまにする説明を、ごまかした?

 何のために――。


 目を合わせたまま、ブラムは手元をごそごそと何やらしていた。その手には何か握られたのか、当人の口元に運ばれてひょいと中に放り込まれた。

 酒で流し込まれた様子を見て、どこか体調が悪いのだろうかと案じずには居られない。それに何の薬であっても、酒で飲むのは良くない。


「ブラムさ――」


 開いた口に、ブラムの口が押し当てられた。同時にブラムの口にあった酒が、フラウの喉の奥へと注がれる。

 小柄なフラウの口や喉に比して、ブラムのそれはとても大きい。普通に飲むのであれば、一時間ほどをかけて飲む量を一気に飲まされた。


「……ブラムさま、どうされましたか?」

「フラウ、お役目だ。予定は少し変わったがな、今日こそお前に働いてもらう。それが叶わないようなら、お前の命など捨ててしまえ」


 お役目。そう言われると、体の奥へ芯が入ったように思える。


 今日こそ働ける。今日こそ――? いえ、そんなことはどうでもいい。失敗すれば後がないほどのお役目をもらえるのに、余計なことを考えている暇はないわ。


 息苦しかった世界が、一気に広がった気がした。それが何かは分からなくとも、目に入っていた宴の光景も見えなくなった。

 世界は黒一色に染まって、そこにあるのはブラムとフラウだけになった。


 黒い世界に、見慣れた住人が姿を見せる。人の子の形をした、黒い何か。

 ずっと以前から知っているそれらを、フラウが恐れる理由はない。自ら手を伸ばし、迎える準備をした。


「……分かったな?」


 やるべきことは、尊い人が教えてくれた。出来るかどうかなど考える必要はない。指示されたことを淡々と、ただ行えばいい。


「さあ、行きましょう」


 まとわりつく黒いものを引き摺って、黒い世界の黒い道をフラウは歩き始めた。

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