第97話:正義と法

 入り口からの足音が近づくにつれ、うひひと気持ちの悪い笑いをストルトは増していった。

 しかしその足音が実際に目の前まで来ると、ストルトの笑いは一瞬にしてかき消える。


 何か良くない知らせでもあったのか?


 ボクからはまだ、帰ってきた兵士の居るであろう場所は見えない。何かを知らせたのなら身振り手振りか筆談かになるけれど、そういった様子もない。


「あなたの言う正義とは、軍の支給物を無駄に壊す行為かな?」


 聞き覚えのある声。清々しい音色が手を伸ばし、床に放られたペンを拾い上げる。


「いえ、そのようなことは――」

「知っているかな? 正義とは己の心に秘しておくもの。それを表にした途端、正義は横暴と化すということを」

「いえ、そのようには。これより心致します」


 東に向かったはずのメルエム男爵がそこに居た。話しながらストルトの居る部屋に入ったので、兵士を二人連れているのも見えた。


 兵士の一人は、先ほどここから出て行った兵士。もう一人の兵士に腕の関節を極められて、自由に動けないでいる。


「――恐れながら、その者が何か」


 どう見てもよろしくない立場にあるその兵士について、ストルトは自分から聞いた。二人が上下関係にあることはすぐに分かるのだろうから、自分の責任を果たす振りくらいはしておこうという腹か。


「正義とはどこまで行っても、誰かの一方的な理屈に過ぎない。故に、国を守るのは正義でない。法なのだと理解しているかな?」

「は、それは当然のこと。それが王のご意向であらせられます」


 男爵は質問の答えを保留して、信賞必罰を掲げているというこの国の方針を確認した。つまりきっと、これからそれについて問うので覚悟しておけということだろう。


「では聞くけれども、あなたはこの兵士が行っていたことを知っているのかな?」

「その者には、調べ物に行かせておりました。尋問中の者たちから聞いた内容について、裏を取らせるためでございます。それ以外に何かございましたでしょうか」

「なるほど、知らないと」


 男爵の顔はいつもと変わらない。笑みこそ浮かべていないが、柔和そうな人好きのする表情のままだ。

 だから今の会話も、ストルトが言った内容を「なるほど、そうか」と全て納得しているようにも見える。


 それでストルトも男爵が姿を見せた時よりも、余裕が出てきている。これは言い逃れできると思い始めている。


「では、これは誰の物かな」


 軍衣の裏をごそごそやって取り出されたのは、ペンだった。ストルトはそれを見て何か感じたようだけれど、ボクには何を意味しているのか分からない。


「私の物です――」

「そうですか、やはりこの印はあなたの家の物ですか。であれば先ほど軍の支給物を壊したと言ったのは、早とちりだったようだ。それには謝りましょう」

「滅相もないことにて」


 ストルトは隊長と呼ばれていたから、たぶん騎士なのだろう。騎士であれば士爵を名乗ることが許される。準貴族というやつだ。


 人は中途半端に偉くなると、その特権を行使したくて堪らなくなるそうだ。その一つが紋章。家の紋を作ることを許される。


 ただワシツ将軍がそうであったように、士爵になったからと家紋を作るとは限らない。どちらかというと少数派だと聞いている。

 市民の間では、純粋な貴族ではないのに見栄を張っている偽物だと揶揄されることさえある。


 ペンにはその家紋が入っていたらしい。これまでの言動を聞くに、やっぱりと合点のいくことではあった。


「ただまあ、やはり物は粗末にしないほうがいい。さておきそれでは、この兵士は三つの罪を犯したことになる」

「三つ、ですか」


 言い逃れできそうだという期待が、ストルトから急速に失われていく。怪しかったというような曖昧な言葉でなく、罪とはっきり言われてしまったのだ。


 彼はきっと、最近で一番に忙しいだろうな。どうやって保身を図るか考えるのに。


「一つ。あなたの私物であるペンを盗み出したこと。一つ。調書置き場にペンを持ち込んだこと。一つ。調書置き場の中から錠をかけたこと」


 そんな細かい決まりがあるのか。やはりボクは、軍人だったり貴族だったりにはなれそうもない。


 ボクの怠惰な感想はともかくとして、ストルトは真っ青になっていた。兵士が連れて来られた時の状況からある程度は予想していたものの、そこまで最悪の状況を押さえられたとは思っていなかった。そんなところだろう。


「恐れながら、一つ訂正をさせていただきたく」

「何かな?」


 唾を飛ばしながら、ストルトは訴える。部下の兵士のため――ではないと思う。部下の罪が重くなれば、その管理者であるストルトの責任も重くなるからだ。


「ペンは私が貸し与えた物です。ここで尋問をするに当たって、記録を取るために」

「では調書置き場へ持っていけと指示したのかな?」


 少しでも状況を良くしようとする、ストルトの策は無駄に終わった。これを肯定すれば、責任の追及ではなく共犯になってしまう。


「いえ。閣下の仰る内容にて間違いございませんでした。失礼を致しました」


 観念したストルトに、とりあえず今晩のところは撤収するように男爵は言った。それが慌ただしく実行されると、やっと男爵はボクのほうへ視線を向ける。


 単純に助かったと考えていたボクには、その視線の意味が分からない。

 何だか悲しそうな、難しい顔をした男爵がそこに居た。

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