第58話:怪しい人物

 しばらくして訓練場に出入りする人数も落ち着いてきたころ


「あれは――」


と、水場から戻ってきていたイルリさんが何かに気付いた。


 視線の方向を見ると、軽装鎧を着た人が一人、敷地内に入ってきていた。

 その人は夫人と一緒に、街中へ出て行っていた護衛の一人だ。名前は聞いていないが、顔は覚えている。


 どうして一人で戻ってきたのか気になったが、それ以上にその人の足取りがおぼつかなく、怪我でもしている様子なのが気がかりだ。


「ちょっと行って参りますね」


 ボクに断るのももどかしく、イルリさんは赤ちゃんを抱いたまま、その人の傍に向かった。セクサさんはユーニア子爵のところへ、経緯の報告に行っていて今は居ない。


 見ているとイルリさんは近くに居た人に助けを求めて、護衛の人は肩を貸してもらっていた。


「診てもらわなくて大丈夫ですか?」

「まずはご報告をせねばなりませんので。ありがとうございます」

「そうですか、じゃあまた何かあれば言ってください」


 護衛の人をボクのすぐ傍の敷き布に座らせると、肩を貸してくれた人はまた元の辺りに戻っていった。でもこちらを心配そうにちらちら見ていて、いい人だ。


「フィン、何があったのですか。怪我は本当に大丈夫?」

「酷く痛みはしますが、今すぐにどうこうという怪我はありません。ただ、奥さまたちが――」


 フィンと呼ばれたその男の人は、息を切らしながらもはっきりと話すことが出来た。しかしワシツ夫人には何かあったらしい。


「母がどうかしたのですか?」


 もちろんこれに、イルリさんも反応する。最初に大きな声を出そうと息を吸い込んだけれど、そこではっと気付いて声を抑えた。

 さすが、赤ちゃんへの気遣いがすごいな。


「あ、いえ。失言でした。奥さまご本人は無傷です。それ以外の者たちが全員、負傷しているというのが正確です」


 イルリさんから聞いたところによると、護衛役の人たちのうち何人かは、この訓練場周囲の警戒に当たっている。そうすることで、警備隊の人員を事態の対処に当てられるからだ。


 残った九人――一人はここに戻っているけれども――がワシツ夫人に同行しているそうだが、それが全員とは穏やかでない。


「命に別状ある者は居ません。が、重傷の者は居りまして、怪我人ばかりでは連れ帰ることも叶わず――」

「それであなたが先に戻ったのですね? 賊は?」


 努めて冷静に聞いていたイルリさんだったが、最後に息を継いだのは待ちきれなかったようだ。


 フィンさんが頷いて「賊は既に去りました」と答えると、しゃがみこんでいたイルリさんは立ち上がって言った。


「アンを連れてきましょう。怪我人を運ぶくらいなら、メイドたちに出来ますし。あなたはちょっと休んでいなさいね」


 有無を言わせず赤ちゃんをフィンさんに抱かせたイルリさんは、それまでのお淑やかさからは想像できない脚力で訓練場の建物に入っていった。


「どうしてあの速さで裾が乱れないんだ……」

「はは――お嬢様の特技だ」


 慣れた手つきで、フィンさんは赤ちゃんをあやしていた。苦しそうだった顔が、一気に緩む。


 その顔や腕には、痣と切り傷が出来ていた。狭い範囲に集中した濃い痣。

 これはその辺の無頼漢が使うような、ナイフやこん棒ではつかない。ウナムが使っていたような、硬い手甲で殴りつけた跡にしか見えない。


「ん、どうした?」

「――いえ、傷が痛そうだなと思って。刃物じゃなくて、殴り合いだったんですか?」


 さすがにじっと見過ぎだったか。怪訝そうに聞かれて、思っていたことをほぼそのまま質問してしまった。


「ああ、変わった山賊だったな。ナイフなんかも持ってたが、革のグローブをした手が硬いんだ。中に鉄板か何かを仕込んでたんだな」

「山賊ですか?」


 やはりそうだと確信を強める反面、フィンさんが相手は山賊だったと断言するのが気になった。


「あの風体はカテワルトで逃げてる山賊だと思ったが――何か心当たりでもあるのかい?」

「いえ。その人たちが首都にまで来ているとは思っていなかったので。山賊っぽいというと、小汚い感じですよね、きっと」

「そうだな。でも強力な協力者が居れば、岩盤回廊を通って来ることは出来たかもしれない。君がこちらに来るのと同じくらいだったのかもな。汚れて擦り切れた服を着てたし、間違いないと思う」


 その協力者っていうのがボクなんですけどね、とはもちろん言わない。

 ボクたちの逃がした山賊じゃないのは分かっている。


 でも、奴らでもないのか? 手甲で戦うことに特化しているなんて、そんな賊はそうそう居ないと思うんだが……。

 悩んでいると、イルリさんがアンさんたちを連れて帰ってきた。


「フィン。あなたは休ませてあげたいのですけれど、道案内を頼めるかしら」

「もちろんです、お嬢様。こんなもの、傷のうちにも入りません」


 イルリさんは申し訳なさそうに赤ちゃんを受け取ると、足手まといになるから自分は残ると言った。それにアンさんは「お任せください」と力強く答える。


「ボクも行きます」

「――何? 君は無理でしょう」


 さあ出発というところにボクが言ったから、ではないと思うけれど、アンさんは強めに言う。


 でも、今起こっていることの一番近いところに居るのはボクだ。夫人たちが襲われて、でも夫人だけは無傷なんていうおかしな事態が起こっているなら、ボクが行って分かることもあるかもしれない。


「熱は下がりました。ついていくだけです。ここでボクだけが寝ているなんて、出来そうもないんです」


 解熱剤が効いて、熱は下がっている。きっちりと布を巻いてもらっているので、歩くだけなら何とかなる。それは本当だった。


「良く言ったにゃ!」


 アンさんたちが固まっている後ろで、誰かが叫んだ。ボクたちの視線が一斉に向くと、その人は気まずそうに咳を払う。


「ん、んっ。ゴホン。私は以前に警備隊をしていた者だ。あなた方のお話を、失礼ながら立ち聞きさせてもらった。微力ながら同行させていただければと思うのだが」


 うわあ……。


 その人はやけに細身の男性で、警備隊の兵士と同じ格好をしている。ただまあ、嘘だろうな。


「それは助かりますわ。怪我人を運ぶだけですけれど、途中で何が起こるか分かりません。ぜひお願い致します」


 どうしてだかイルリさんはすっかりその人を信用して、深く頭を下げた。他の人たちもそれに倣っている。


「では早速行きましょう。あた――私のことは、コーラと呼んでください」


 怪しさはものすごいが、コーラさんが同行することに異存はない。ボクも立ち上がって、傍にあったナイフを腰に装着した。

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