第8話 死ぬ時のために
難病患者の痛みや苦しみは、残念ながら、死ぬことでしか終わりません。
しかし、また残念なことに、人間は一生に一回しか死ぬことはできません。
ある一定の時期を過ぎると、難病患者の多くは、死ぬことを考え初めてしまいます。
良いか悪いかの問題ではないのです。
難病患者の多くは、脳だけしっかりしています。
自分が死ぬまで難病で寝たきりになることを悟り、自分の難病が医学の発展では間に合わないことも悟ります。
そうなると、考えることは自殺等という馬鹿なことではなく、どうすれば、少しでも痛くなく、苦しくなく楽に死ねるのかを、考えながら眠ります。
そして、また目覚めてしまって自分を呪うのです。
そうです。眠っている間に死ねたら楽なはずなんです。
そして、できれば自らの身を研究材料にして欲しいと願います。
そう、願っているのは、尊厳死です。
また、消極的安楽死とも言います。
と同時に、余生余命をいかにすれば楽しく自分らしく過ごせるのかを、模索します。
自身の過去の趣味嗜好であったり、好きな収集であったり。
日記等は、非常に難しくなっていきます。
なぜなら文章一行を書ける体力と集中力が残っていないのです。
神経難病専門の病棟に入院すると、あまりの静かさに驚かれると思います、
4人部屋の病室でも、下手をすると、全員が寝たきりで、全員が胃樓と呼ばれる流動食対応で、異様に早い時間帯の食事と食事時間ですら異様に静まりかえった暗い雰囲気に驚かれると思います。
会話できる患者はほとんどいないのです。
車椅子に座れるなら、まだまだ軽いのです。
もちろん、軽症だから車椅子で済んでいるわけではありません。
車椅子の利用者でも、かなりの重症患者はいます。
車椅子利用の重症患者、それは本人の努力よりご家族の努力の賜物です。
ベッドに寝かせておくことが安全であることに間違いありません。
しかし、少しでも長く家族とリビングに等、思いは様々でしょうが、かなりの思いなしには重症の難病患者がいつまでも車椅子利用ができるわけはないのです。
患者本人は、口から食べられないので共に鍋をつつくなんて無理でも、家族の団欒に参加させるのは大切なことのようです。
本人、もしかしたら辛いのかもしれませんが、やっぱり車椅子で家族と共に過ごす方が幸せな余生と言えるのではないでしょうか。
もちろん、それすらも修行なのかもしれません。
苦しみながらも生きながらえさせられるのも死ぬための修行なのかもしれません。
そう、死後に極楽に行くための修行です。
戦国時代の一向一揆の指導者は、僧侶であるにもかかわらず、死ぬは極楽退くは地獄等というわけのわからない教えを広めていたようですが。
一向一揆。浄土真宗の創成期で、顕如上人という女性法主を奉じて大阪にあった石山本願寺に立て籠って、織田信長に反逆した。
大阪の石山本願寺は、後に大阪城が建築された場所にあったと伝えられていますので、かなり巨大な寺院であったと考えられます。
しかし、よくも死ぬは極楽、退くは地獄等というおおよそ僧侶らしからぬことを平然と。
そんな戯言を信じて職業軍隊でも当時最強であったはずの織田信長の軍団に立ち向かって、敵う相手ではないんですけどね。
目的が死ぬことなので、厄介ですね。
大量の自殺願望者の自殺を手伝わねばならない、しかも相手は念仏を唱えているのですから。
そう、死ぬ時のために念仏を唱え、精神修行を行い、死ぬ準備を整えてお迎えを、待っている。
難病患者の闘病期間は、そのためにあるみたいです。
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