第4話 なぜか悟り出す

神経難病のSBMA(球脊髄性筋萎縮症)を、罹患して十数年。

その間合併症のように、脳出血や低カリウム血症、膿胸、誤嚥性肺炎等々、それだけで死亡原因になる病気を、

様々発症して、緊急手術や入院を繰り返しながらも生きながらえると、痛みは全身のあちこちに発生してくる。

呼吸は常に苦しくなり。

すでに死への恐怖や不安はなくなり。

世の中のすべての出来事で、自身に関係することは、すべてが自業自得になりつつあります。

良くも悪くも、自分次第となるのです。

南無阿弥陀佛が口癖になり、南無妙法蓮華経と常に口にする。

こうなると、どんどん自宅自室に引きこもるようになり、もちろんキリスト教の患者は、十字架を、握りしめるようになる。

丸々1日、お題目を唱え、アーメンと唱える以外は、テレビが友達。

動けないもので、家族のお出かけにも誘われず、妻と子供達が楽しげに出かけるのを、見送るだけの生活になる。

こうなると、もう自分のことなどどうでもよくなる。

とにもかくにも、自然に苦しみ少なく死ねるなら死にたいと願う。

この時期になると、主治医に、延命治療を、断る患者が続出する。

当たり前だ。生きていることが一番の地獄なのである。

だが、研究者の先生方は、必死の思いで研究を進めてくれている。

IPS細胞の発見で、期待が膨らんでいる。

まぁ、現時点でかなりの進行症状の我々は、期待しても間には合わないとは思うが。

それなら、できることなら研究材料になりたいものである。

良いのか悪いのか?

人間ここまで落ちれば、どうにでもなれと思いはじめ、生きるの死ぬのすらどうでもよくなる。

神経難病の専門の病棟に入院すると、あまりの静かさに驚くと思います。

そう、ほとんどの患者が寝たきりで廊下に出てくる人は、付き添いの人です。

当然、入院患者同士の会話などありません。

会話ができる患者は、付き添いの人や同室の患者の家族と会話する。

それでも、自分の家族がたまにでも来てくれる患者はいい。

それすらない患者は、どうすれば良いのでしょうか。

もちろん難病患者の入院には、普通とは違う意味がある。

自宅で、患者の家族で、家族が疲れ切らないようにすることが目的のレスパイト入院と呼ばれる入院がそれである。

数ヶ月に一度、患者の家族を、休憩させることを目的に、入院させるのですが、患者には休憩はありません。

常に病気と闘っているのです。

それも、必ず敗北することがわかっているのに闘っているのです。

神経難病である限り、今の地球上の医学では、闘う前から勝てないことを患者は全員わかっているのです。

癌患者は、一か八かのために闘って、勝つ患者も多くなってきましたが、神経難病患者は、神風です。

勝てる見込みは、0なのに闘いに挑んでいるのです。

下手をすると、家族からさえ孤立しながら。

せめて声援ぐらいは寄せられないものかとは思うのですが。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る