第2話 病気との闘い方

SBMA(球脊髄性筋萎縮症)は、徐々に筋肉が萎縮して、全身の筋力がなくなり、約15年ほどで、完全な車椅子生活を、余儀なくされる。と厚労省のホームページにはある。

厚労省による難病のホームページや患者会のホームページ。

様々な医師会のホームページによると、ろくなことは書いていない。

希望的なことは、まず書いていない。

五体満足で、元気はつらつだった自身の身体が、突然動かなくなる。

受け入れ難い真実。

迫りくる恐怖と不安。

さらには、神経筋疾患にありがちなのが、周囲の人々の理解不足。

手も足もなくなっていないのに動かないということが信じられないのです。

下手をすると、動かす気がないとか、根性がないからとか言われたりする。

万が一、それが家族だったりすると、闘病が非常に孤独なものになる。

そうなると、悲惨極まりなくなる。

人間の闘病において、もっとも大切なものは、愛する人々の支えであると思われます。

難病の場合、しばしばこの支えが揺らぐのです。

幸いなことに、現在では病気の進行を遅らせるお薬が承認されてますが、それすらも治すことはない。

今から10年以上前に病気の認定を受けた患者は、限りなく繰り返されるだけの研究治験にあきらめやため息の涙を流したことだろう。

しかも、病気の進行を遅らせるということは、ある程度以上に病気が進行した患者にとっては病気による苦しみが長引くだけになりかねないということでもある。

このように難病の闘病は、とかく孤独との闘いになりかねない。

ついでに、世間は余命が短い病気だけが気の毒で、神経難病は、気力の問題という風潮なのだ。

その感覚を患者の家族までもが持つ。

冗談ではない。

神経難病の患者からすれば、死ねるものならうらやましい。

そして、自殺願望にさいなまれる患者が出る。

ところが、自殺する体力すら残っていないのに闘病は続く。

痛みや呼吸の苦しみは残ったまま。

どう闘えば良いのか、どうすればつらくない死に方ができるのか。

それすらわからないのである。

一般の人々にとって、病院とは病気を治し、病状を軽くする場所なのである。

しかるに、難病は完治などあり得ないばかりか、病状を軽くすることすらできないのである。

それすら理解できないのが大多数の一般の人々なのである。

医師や看護師と言った医療関係者ですら、難病専門の部門の経験がなければ、すぐに一般論を言いたがる。

頑張って生きて下さい。

患者は、すでに疲れていることにも気づかない。

SBMAの場合、異常に進行が遅い場合がある。

超長期におよぶ闘病に、精神的支えの期待できないSBMAの患者。

病名確定時には、すでに数年経過している確率が高い。

つまりは、人間は誰しも体調不良がなければ、病院受診は、しないということにさかのぼります。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る