1-1. ある魔女の死

1. 世界の始まり

1-1. ある魔女の死


 後にも先にも、あれほど暑い夏の日は有りませんでした。こんな風に私たちの関係が終わってしまうなんて、思っても見なかった。今でも私は彼の声が電話の向こうから聞こえてくるような、そんな気がしています。私には彼の死を受け容れる気など全くなかったのでした。


2019年8月12日

18:17


「今日は何時に終わるの?ごはん作って待ってるわ」

「ありがとうカナちゃん、多分…そうだな、20時には終わらせて帰る」

 電話の向こうに聴こえる彼の声には、隠し切れない疲れが滲んでいた事を覚えています。私は少し心配でしたが、若くして責任ある仕事を任された誠さんを止める事は私にはできませんでした。

「…分かった、お仕事頑張ってね。愛してます」

「俺もだよ、香菜子」

 そうスマホの画面を一つタップして、私は振り返りました。お鍋の中で煮えるロールキャベツの色合いを確認すると、私は手元にあったスプーンで煮汁を掬って味を確認しました。誠さんは少し塩味の強い風味が好きでしたから、私はもう少しお塩を足そうと思って棚に手を伸ばしました。


20:24


 時間通りに出ていれば、そろそろ誠さんが帰ってくる頃合いでした。テーブルの上に自分の分と誠さんの分、ご飯とお味噌汁に魚の煮付けとサラダ、後は誠さんの大好きなロールキャベツを並べ終え、私は誠さんが帰ってくるのを今か今かと待っていました。

 大好きな彼が喜ぶ顔を想像すると、自然と頬が緩むのを感じました。

 と、その時でした。マンションから外に見える空が光ったかと思うと、遅れてやってきた大きな音と共に雨が降り始めました。私は少し心細くなって、誠さんが帰ってくるまでにもう一品作ろうと台所に再び立ちました。


20:58


 誠さんは帰ってくる気配が有りませんでした。

 テーブルの上の料理には既にラップをかけて、私は少し苛立ちながら誠さんに電話を掛けてみましたが、彼が電話に出る事は有りませんでした。


22:32


 普段夜の早い私は、冷めきった料理の並んだ食卓を前にしてうとうととしていました。

 雷鳴は止んだものの、外は相変わらずの雨。濛々とした湿気を帯びた空気がエアコンの効いた室内に入ってくることはありませんでしたが、それでも夏の夜の雨が打ち付ける音を聞いていると、蒸気の向こうからやってくる暗い眠気へ引きずり込まれそうになります。いけない、私は少しソファで休もうと椅子から腰を浮かせました。


 その時でした。

 テーブルの上に置いていたスマホが振動に震え、床に落ちました。私はあわててスマホを拾うと、画面には見た事のない番号が表示されています。胸騒ぎを覚えて通話ボタンを押すと、そこから聞こえてきたのは誠さんの上司である部長さんのお声でした。

「古倉の嫁さんですか、私です。上司の新山です」

「は、はい、誠さんに何かあったんですか?」

「それが古倉は…誠は今、緊急手術中なんです」

「えっ?」

 あまりの衝撃に手から力が抜けそうになります。取り落としそうになったスマホを、慌ててもう一度耳に構え直しました。


「…会社の前で倒れている所を私が発見しまして、どうも心筋梗塞か何かのようなんです、今すぐ雨が丘病院に来て貰えませんか!」

「わ…分かりました!すぐ行きます!」

 それだけ言うと私はスマホの通話を即座に切りました。真っ白になった頭では何も考える事ができず、傘とお財布だけを手に取って、マンション前の道路に丁度止まっていたタクシーに駆け込むと、そのまま病院へ飛ばしてもらいました。


2019年8月13日

時刻不詳


 病院の暗い廊下で、私は誠さんの無事を祈りながら眠れない時間を過ごしていました。

 時折話しかけてくる部長の新山さんは心配そうに廊下を行ったり来たりし続けていましたが、いつしかその表情に深い疲労の色を見せ始め、廊下に設置されている椅子に腰かけたまま動かなくなりました。私はただひたすら両手を組んで、ごく小さな音量で祈りの言葉を唱え続けていました。

「主よ、どうか誠さんをお助け下さい…どうか…」

 限られた照明と手術室へ至る扉の窓から見える灯りの他には、その場には何もありません。夏とは思えぬほどひんやりとした空気が一瞬私を撫でてゆくのを幾度となく感じました。暗い空間にこだまする私の囁き声が反響し続けるのを聞くうちに、私はストレスと緊張でおかしくなってしまったのでしょうか、幾人もの人たちがそこに集まっているような奇妙な感覚を覚えました。


「…奪われた…別れ…叫び…」

 目を瞑って祈り続ける私の耳に、不思議な言葉が聴こえてくるのを感じました。それは日本語とは少し違ったような、それでいて決して不快ではない、何かが私に語り掛けているのだと思いました。

「…行く先…再び…出会い…向こう…」

「…哀しい…哀しい…哀しい…」

 そこで私の意識は一度途切れています。眠ってしまったのかもしれません。


 夢を見ました。

 雲一つない空の下、小高い丘の上です。耳の長い、肌の黒い女性が弓を片手に遠くの山々を見つめています。私は何故だか分からないけれど、それがとても愛おしい誰かであるような気がしました。それが誰なのか必死に思い出そうとしました。酷く切迫して、思い出さねばならないと焦っていました。

 女性が振り返りました。端正な顔立ちに優しげな微笑みを浮かべて、聞いた事も無い言葉で女性は私に語り掛けてきました。何故か私には、その言葉の意味がはっきりと理解できました。


「行こう、カナコ」

 女性は手を差し伸べ、私はその手を掴みました。


04:18


「ふざけるな!どういう事だ!執刀医はお前か!」

「新山さん、やめてください…!」

 手術室から現れた先生は、酷く申し訳なさそうな表情をして私に頭を下げました。その時点で私は何が起きたのかはっきりと理解しました。もう、誠さんは帰ってこない。


 私の心はその瞬間から時が止まってしまったかのように凍り付いてしまいました。それとは対照的に、新山さんは鬼の形相で先生に掴みかかると、今にも先生を殴らんばかりの剣幕で怒鳴り声を上げました。

「あいつは努力家で!誰にも弱音を吐くこともなく!…そんなあいつがどうして!」

「いいんです新山さん、やめてください、やめて!」

 自分がそんな声を出せる事に、少し驚いていました。新山さんはぴたりと動きを止めると、掴んでいた先生の胸倉から手を放しました。


「あの人に…誠さんに会わせてください」


04:31


 運ばれてきた時にはもう、誠さんの身体はすっかり冷たくなっていました。静かに微笑むようにして目を閉じている彼は、今にも目を覚まして私におはようの言葉を言ってくれるような気がしていました。

 新山さんはしばらく私を背後から見守ってくれていたようでしたが、やがて静かに去っていきました。


「もうすぐ朝ですよ、誠さん」

 二人きりになった霊安室で、私は誠さんにそう話しかけました。でも、誠さんは二度と起き上がる事は有りませんでした。二度と私を抱きしめてくれることは有りませんでした。

 遺体保存の都合上、私が誠さんと二人きりで言葉を交わせる時間はそれほど長くありませんでした。物言わぬ誠さんの身体に静かに寄り添いながら、病院のスタッフが声をかけるまで私は誠さんの傍でしばし目を閉じていました。


***


…2055年8月

ある暑い日の午後


 それから三十年以上の月日が流れても、私の心はまだ凍ったままでした。

 過ぎ去って行く時を忘れたくなって、私は誠さんのいなくなった都心のマンションを引き払い、故郷の長野へ帰ってきていました。両親が遺してくれた小さな家で独り暮らしを始めた私は、失われた時を取り戻そうとするかのようにある時から執筆活動を始めました。

 いくつかの雑誌の文芸賞に応募しては落選を繰り返し続け、そろそろ誠さんが遺してくれた莫大な遺産も尽きようとしていた頃、とある編集者から私の下へ連絡が届きました。華やかな文壇には程遠い小さな出版社の、名も知られていないレーベルでしたが、私の描いた作品は何冊かのシリーズとして世に出る事になりました。


 長い耳に黒い肌の、うつくしい女性が主人公のお話。

 言ってみれば単調なファンタジーでしかなかったそれは、熱心に読み続けてくれる読者が付いた事で多少は版数を重ねる事が出来ました。やがて紙の本が廃れた後になっても、ネット上に展示された私の空想は世の人々の心に訴えかけるものが有ったらしく、わずかばかりの収入を私にもたらしてくれました。


 そうして書き連ねる事を三十年以上も続けた、ある夏の暑い日の事でした。

 遠い目覚め…そう題した章の一節を電子ペーパーへ書き込んでいる時のこと、私は突然の酷い胸の痛みにその場に倒れ込みました。

「…あっ…っ!」

 あまりの痛みに声も上げられず、その場にのたうち回ることしかできませんでした。これでやっと終わるんだと思うと、不思議な事に私は三十年も前に逝ってしまった想い人の事を深く深く思い出しました。私の走馬灯でした。


「誠さん…私も…そっちに…」

 止まっていた時が動き出すような、時計の音が鳴り響いたように聞こえました。


 それを最後に、私の命の灯は消えました。

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涙の庭-短編集 汎野 曜 @SummerShower

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