インクまみれの皇帝と黒き妃

 その日彼女が群衆の前にその姿を現すと、どよめき、そしてそのすぐ後に嘲笑の声が響き渡った。愛しの彼が彼女を見る表情も驚きに満ちていた。これで全て終わったと思うと、彼女は絶望と羞恥のあまりその場に俯き、しゃがみこんでしまいそうになった。


***


「私の妻になってくれないか」

 そう言われた時、まるで自分ではない誰かのために向けられた言葉のように彼女には聞こえた。驚きのあまり目を見開いた彼女は小さく息をのむと、そのまま表情を固まらせてしまった。

「君らしくないな」

 返事がない事に不安げな表情を浮かべる彼に何か言葉を返さなくてはと思うものの、何を言えば良いのか分からなかった。必死で言葉を探そうとするも、頭の中は真っ白になってしまって、その場にふさわしい言葉は一言も思い浮かびそうになかった。

「…すまない、気を悪くしてしまったか」


――そうじゃない!

 そう声を大にして言えれば良い所を、彼女は彼の身を案じる事しかできなかった。しんしんと雪の積もってゆく中で、必死に彼女は声を出す。

「…陛下」

 か細く消えてしまいそうな声だったが、それでも彼の耳にはしっかりと届いた。その声がゆっくりと続けられる。

「陛下の御身おんみと私のような追放者ダークエルフの身では…その、…釣り合いません」

 彼は雪を踏みしめながら繋いだ手に力を込めた。その温もりがまるで彼女を放さんとするかのように、強く彼女の手を握った。

「そんな事はない」

「…こんな…、私のような者で陛下は…良いのですか?」

 縋るような眼を彼の背中に向ける。自然と彼女も彼の手を強く握り返していた。お互いの温もりが手を通して行き来しているかのような感覚に、恋をした経験もなかった彼女はくらくらとしながらも、必死に前を歩く彼について行く。

「君しかいない」


「…しかし私のような」

「そんなに自分の事が嫌いか」

 彼は緩みかけていた手に再度力を込めると、振り返った。女の手を引いて彼女に向き直る。

「レギナ、お前は雪の中で死にかけていた私を…、情けない私を助けた。私はお前を一目見た時から美しいと思った。…これ以上の理由は必要か」

「必要…ないです」

 冷たい雪の中にあっても、ゆっくりと顔が火照ってゆくのを隠し切れなかった。

「君は黒き女神リザの遣いだ。あのまま雪の中で死んでいたはずの私と、帝国の運命に命を与えてくれた」

 自然と二人は顔を近づけていた。雪原の真ん中とは思えない熱をもって二人の間の空気が温まってゆく。彼女の黒く艶やかな髪を男の手が掻き分け、ゆっくりと撫でた。

「君が居なければ私は無力だ。私の傍にいてくれ」

「陛下…」

「ジークと呼んでくれ」

 そう言うと男は彼女に唇を合わせた。女も初めは恐る恐る、そして穏やかに彼の唇に自分の口を付けた。


***


 二代皇帝の死後長らく空位が続いていた皇位。その継承権者の中で最上位に位置していたジールック・アルタバルの生還、それも追放者ダークエルフの女を伴っての帰還は、伝統と名誉を重んじる帝国宮廷を騒然とさせた。

 北部の雪原地域を移動していた最中に馬車ごと崖から滑落し天に召された――顔を破壊した亡骸まで用意し、満を持してそう発表したルグラ大公は権力簒奪を企図した大逆人として処刑される事が決まり、帝国臣民たちは俊英と知られたジールックの帰還を喜んだ。

 …彼の連れてきた褐色の女の事を除いて。


 即位するなりルグラ大公に連なる反逆者たちを次々に粛清し宮廷内の反乱分子を一掃した三代皇帝ジールック・アルタバルは、一転しその他の者たちには寛容な態度を示した。一つには、片時も彼の傍を離れる事が無かったレギナ・ソル・イリューミが彼に飴と鞭の使い分けを説いたからだと言われている。

 帝国歴1358年の試月オディールには皇帝ジールックとレギナの婚姻の儀が執り行われる事になった。ハイエルフの帝国であるアルタバル帝国、その皇帝座に在る者がダークエルフと結ばれるという事は前代未聞であり、臣民たちも彼の前途を祝福するものと褐色の帝妃を口汚く罵る者とに分かれた。


***


「きれいだ…レギナ…」

 帝妃となる女は純白のドレスで彩る。これは月天王ルミナリスがかつてリザ神を通じて世界に伝えた影追い達の風習を元にしているという。これに合わせて皇帝も白い長衣を身にまとい、陽天王アケルダニアの像を前にして愛を誓いあうのである。貴族階級の婚姻は一般にこうして結ばれた。

 婚姻の儀の直前に行われる衣装合わせもまた一つの儀式であり、結ばれる男女が隣り合わせの別室で行うものとされていた。ジールックは白い衣を身にまとうと一目散に部屋を出た。隣の部屋をノックして入ると、よく太った獣人のメイドがレギナの着た白いドレスの裾を直している所だった。


 彼女の褐色の肌には純白のドレスがよく映えた。大きく開いた背中を頭からふんわりと垂れた白いヴェールが覆い、鍛えられ引き締まった彼女の腰のラインがゆるやかなカーブを描くその姿は、皇帝たるジールックの目をしても嘆息せざるを得ないものだった。

 レギナは彼を振り返ると褐色の肌を一気に紅潮させ、その場で顔を手で覆い俯いてしまった。まだ固定されていなかったヴェールがはらりと落ち、彼女の黒髪がゆっくりと流れて行く。長い耳がせわしなさそうにぴくぴくと動いた。

「陛下、お妃様はこれからもっとお綺麗になられますから、しばしお待ちください」

「あ、ああ…すまない。また後で」

 メイドの非難がましい声で我に返ったジールックは自らドアを閉めなおし廊下に戻ると、胸の高なりを鎮めるために一つ深く息を吐いた。

――美しかった。

 彼は自分の目が正しかったことを、今や深く深く確信するに至っていた。彼が今まで見てきた帝国中のどんな花々にも引けを取らないばかりか、彼女の姿はこの世の誰よりも愛おしく感じられた。どんな非難が有ろうと彼女を愛すると決めると、彼は陽天王の巨像が鎮座する大庭園へ面したバルコニーへと向かった。既に数千人の臣民が陽天王の像を囲むようにして皇帝が姿を現すのを今か今かと待っていた。


***


 …レギナは中々姿を現さなかった。

 場を繋ぐためにジールックはバルコニーに設えられた席から立ち上がり中央の演台に立つと、曇り空の下に集まる群衆たちに対して予定にない演説を始めた。先帝の成し遂げた帝国の版図拡大、妖精の帝国ステラ・ティリーク及び地下人ドワーフたちとの交易に伴う利益、奴隷の身から解放された自由獣人たちの権利保護などについて語り始めた。

 リーダーシップの重要な要素に「声」がある。高らかに響きつつも聞くものに安心感を持たせるジールックの声は、彼の祖父であり帝国の建国者であるアルタバル一世から受け継だ彼の特質であった。

――レギナはまだか…

 群衆へ語りかけながらも彼女の事を心配していたジールックが衆目を見渡すと、視界の端にバルコニーの扉を半開きにして合図を送る従者の姿が写った。ジールックはひとしきり聴衆に帝国の未来を語り終えると、一息付くようにして席に戻った。すぐさま従者が駆け寄ってくると、彼の長い耳に小声で何かを伝えた。すぐさまジールックは従者に指示を返すと、従者は一瞬躊躇う表情見せながらも、もう一度ジールックから何かを言われると血相を変えて走り去っていった。


 その一瞬の後にレギナはバルコニーへ姿を現した。

 インクを撒かれ黒く染まり、足元をずたずたに切り裂かれたドレスを身にまとった彼女の姿は、控えめに言っても新たなる皇帝の妃の姿にはふさわしくない。それでも必死に肩を張ってバルコニーの中央まで歩いた彼女であったが、驚きを隠し切れないジールックの表情と群衆の小さなどよめきが聞こえてくると彼女は大きな目に涙を浮かべ、その場に俯いた。

 いよいよ群衆たちの動揺が収まらなくなってきたそのタイミングでジールックは再び演台に立った。息を切らせた従者が何か小さなものをみすぼらしい麻袋に包んで持ってくる。それを掴み取ると、ジールックは再び高らかに声を上げた。


「聞けぇい!我が臣民たちよ!」

 いつになく威厳と迫力に満ちた声に群衆たちも気圧され、徐々にどよめきが収まってゆく。押し殺したような沈黙が場を覆ってゆくと、ジールックは風を切る音を立てて左手を振り下ろし、群衆の方を向いたままレギナへ手を差し伸べた。恐る恐るその手をレギナが掴むと、ジールックはその手を握り締める。

「我が帝国は肌の黒い者たちを追放者と罵り、侮蔑の目線を向けてきた!」

 麦色の瞳から涙を流し、泣きはらしたレギナにぶしつけな目線が向けられた。

「だがそれも今日こんにちまでだ!ここに立つ我が妃となる女を見よ!」

 群衆を威圧するが如きジールックの声を聴きながら、レギナは自然と自らの身体が再び肩を張り、姿勢を整えてその場に立っているのを自覚した。まだ涙は流れ続けていたが、不思議とその心の中には再び火がともったような気がした。

「ここに立つ者はかつてのような虐殺者ではなく、女神を奪い我らを神なき子らにした追放者などではない!」

 そう言うとジールックは右手に掴んでいた小さな瓶を口元に当て、その栓を噛み取ったかと思うと、頭上から自分の身体に掛けた。黒々としたインクの色に染まってゆく皇帝の姿に、押し黙る群衆から悲鳴のような叫び声が上がった。


 レギナもまた彼の姿を見て息をのんだ。白い肌をインクの黒で汚し、ゆっくりと伝液体が彼の長衣の裾に至るまでに黒い染みを作ってゆく。

「再び手を取り合う時が来た!我が帝国は今日より黒き肌を持つ民と和解し、彼らの戒めを解き放つ事をここに誓おう!ここに在る我が妃こそ、その証である!」

 ジールックは初めてレギナの方を向くと、彼女は涙で濡れた顔で微笑んだ。ジールックはインクまみれの顔で微笑み返すと、彼女を自らの隣へ立たせる。


「誓おう!」

 ジールックが再び声を張り上げる。今度は群衆に対してではなく、その中央に鎮座する陽天王の像に対して。

「我、アルタバル帝国三代皇帝ジールック・アルタバルは、ここに在るレギナ・ソル・イリューミを魂の尽きるまで愛する事を、陽天王アケルダニアに誓う!」

 そうしてジールックはレギナと向き合うと、微笑みながら涙で潤んだ彼女の目元をゆっくりと拭った。指先まで滴ったインクが彼女の目元を汚すと、レギナもまた嬉しさに微笑み返した。

「すまないな」

 そう一言、直後にジールックはレギナに口づけを交わした。ゆっくりと曇っていた空から太陽が覗き、愛を交わす二人を照らした。


 やがて群衆たちの中からパラパラと拍手の音が鳴り始める。それは陽の光に包まれる二人を見守る人々に伝播して行き、そして最後には群衆全体が万雷の拍手と歓声を上げるに至った。

「帝国万歳!皇帝陛下万歳!」

 その声が大庭園を埋め尽くすころには、空は先ほどまで曇っていたのが嘘のようにすっかり晴れ渡っていた。長い長い口づけを離し、ぽうっと紅潮した顔でレギナが見守る前で、ジールックは臣民たちへ向けその手を掲げた。

 インクまみれになった皇帝によって始まった「緑の春」の時代の到来であった。


***


 いずれの歴史書にも第一帝国に到来した最初の繁栄期である「緑の春」は最良にして最長の平和であったと書かれている。帝国の版図拡張に成功しながらもその残忍な本性を隠そうともしなかった二代皇帝と比し、その後を継いだ三代皇帝ジールック・アルタバルは穏やかで開明的な明君であった。

 五大貴族たちの所領の統治効率を鑑みた公平な再分配、武人たちによる貴族主義体制から平民を広く登用する官僚機構による統治への転換、ダークエルフのみならず獣人やドワーフ族を含めた異種族を平等に処遇する人材制度など、後にララス魔導帝国の「桜花の姫帝」もその遺構を継いだ第一帝国の大陸統治は完成度の高さをもって他の国々とも対等の国力をエルフたちへ持たせた。その基礎を創り上げたのが「インクまみれの皇帝」として臣民たちから親しまれた彼である。


 婚姻の儀という晴れ舞台においてルグラ大公派の残党の手により黒いドレスを着せられる事となったレギナ・ソル・イリューミ・アルタバルであったが、ジールックをその生涯にわたって支え続け、また彼からも終生変わる事のない愛を受け続けた幸せな王妃としてその名を帝国史に輝かせている。第一帝国最初のダークエルフ系王妃であった彼女もまた皇帝と並んで賢明で知られ、帝国宰相と共に皇帝を影から支え続けた良妻であった。彼女はその後ジールックとの間に生まれる「灰君」の治世に至っても帝国を支え続け、最後には国母として臣民に惜しまれながら世を去った。

 彼女の歩いた生はその後エルフ族がエレゼアに生きるウッドエルフ、獣人とのハーフであるワイルドエルフに分かれ、そして世界の空にアルカたちが浮かぶ時代になっても、諸種族の間に美しき恋の物語として語り継がれ続けた。ダークエルフをはじめとする肌の黒い種族は黒いドレスを身にまとうという文化が定着したのも彼女の物語の影響であり、後に魔獣姫としてその名を世界に轟かせるラグカ=ラーツヴァイルでさえ夜の闇のように黒い長衣を身に纏ったという。


 元は月天王ルミナリスがエルフ族の化神であるリザの歩む苦痛に満ちた道を憐れんで彼女の呪いと共に書き足した恋物語を、やがて物語の神であるラゼリアが聞き届け、世界で初めて愛し合ったハイエルフとダークエルフの姿に思いを馳せるまで、まだ数千年の時を要する。

 世界はゆっくりと第一帝国中期へと時間を進めた。それはこの世界が、僅かな間希望で満たされた時代であった。




**********

・クロニクル第四稿/アルタバル帝国

・登場人物

「緑の大帝」ジールック・アルタバル

「黒の姫君」レギナ・ソル・イリューミ

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