殺戮者は霧の廃園に佇む

 彼女は今でも日本に暮らしていた時代の記憶に悩まされる事があった。

 生まれつき声の出せなかった彼女は、いつでも壮絶な虐めに遭っていた。やがて幼子だった彼女が美しい女性に育つと、その虐めはより陰湿で気味の悪いものへと変化して行った。やがてそれは虐めという範囲に収まるようなものではなくなり、16歳の夏には望まぬ形で処女を失った。

 それでもなお彼女はこの世界を愛していた。

 彼女は、世界を救いたいと思っていた。


***


「音が聞こえたら、もう遅い」

 そう言い伝えられていた。


 少年は山道を走っていた。谷を挟んで対岸の山は既に真っ白な霧で覆われ、霧の縁から徐々に木々が枯れ果てて行くのが見えた。

 霧はゆっくりと街の方向へ向かっている。このままでは少年の父母も、幼馴染も、お世話になっている街の人々も、皆霧の中に飲まれてしまう。そうなる事だけは何としても避けなければならなかった。そんな時にその音は聞こえた。


――ジジジ、ギギギ…

 最初は虫の音だろうと思ったそれは、どこまで少年が走っても追いかけてきた。よく聞くとその音の一つ一つには何かの音階があるようで、聞けば聞くほど不思議な音色の音は、それぞれが一つの音楽を作っているようだった。


 もう、僕は助からない。

 そう思ったが、それでも少年は足を止めなかった。必死で走り山の向こうの街、その中央へたどり着くと、彼は最後の力を振り絞って叫んだ。

「アルケーが来た!アルケーが来たんだ!逃げろ!」

 叫んだ瞬間に周囲の人々は身動きのできなくなったように凍り付き、長い耳をピクピクと緊張に震わせた。


 一瞬の後、人々は持っている物を何もかも投げ捨て、少年が来たのとは真逆の方向へ向かって走り始めた。悲鳴を上げ逃げ惑う群衆、その恐慌は街中に伝わり、やがて街全体が言いようのない恐怖とパニックの中で叫び声に溢れかえった。

 少年は自らの喉から血が溢れている事に気が付いた。遅れて身体から力が抜け、その場に倒れ込んでしまう。逃げ惑う群衆の中で唯一逆方向に、彼の下へ向かう少女がいた。彼女は少年を抱き起すも、そのまま何もできずに泣き声を上げる。既に少年は事切れていた。

 山の方からゆっくりと霧が下りてきて、街を覆いつくそうとしていた。


「美しい。善き愛ですね」

 軽やかな声が聞こえ、少女が見上げる。そこには背の高い女が立っていた。真っ白な肌に真っ白な髪を腰まで伸ばし、眼だけが真っ赤に輝く。

 その顔を見て少女は直感した。これこそ死神の姿だ。

「あなたは苦しみの無いように『救って』さしあげましょう」

 喉に大きな傷のある女は口を一切動かさずに少女の心に、意思に語りかけた。それは少女の心を甘く溶かすような冷たい響きをもって少女の心を恐怖で染め上げて行く。もはや少女には抵抗する意思すらなくなっていた。

 黒いドレスに身を包んだ女が、まるで演奏会でも始めるかのような優美な仕草で腕を上げる。既に霧に包まれ真っ白になった空間から青白く光る楽器が現れたかと思うと、彼女は細い肩にそれを構えた。


 ゆっくりと楽器の音が聞こえ始める。それは虫の音のようであったが、一つ一つの音が上げているのは叫び声だった。言葉にならない慟哭と苦痛、そして絶望が少女の中に流れ込んできたのを感じた時、少女は少年を抱きかかえたまま絶命した。


***


 女が楽器を奏でれば奏でるほど、霧の範囲は広がって行った。街一つを覆いつくし、街から必死に走り出した群衆すらも霧が覆いつくすと、遂に誰一人として彼女から逃れられるものはいなくなった。

 霧を吸い込んだが最期、咳が止まらなくなり、人々は体を震わせながら喉から血を吐いてその場に倒れた。群衆は息をする事もできなくなり、街は苦痛の涙と吐き出した血でどす黒く染まった。


 うめき声や悲鳴、血を吐く音もしばらくは聞こえていたが、やがてぱったりと止んだ。霧の中は風も通らず、何の音もしなかった。

 白い女はふと何かに気づいたように演奏を止めると、楽器と弦を持つ両腕をだらんと垂らした。何も音の聞こえなくなった、真っ白な世界。足元に佇む少女の亡骸は穏やかに微笑んでいた。

 女は楽器を放り投げると、少女の抱きかかえる少年の亡骸と少女の亡骸の手を繋いでやった。どちらももう既に霧の力で黒く変色し、崩壊を始めていた。そうして亡骸の少年と少女が手を繋いでいる形を作ると、白い女は…アルケーはにっこりと微笑んだ。

 アルケーは手を繋ぎ逝った二人の姿を微笑みながら見つめていた。


 時の止まったような静寂と死の中で二人の身体はゆっくりと崩れてゆき、灰のようになって消えていく。

 ついさっきまで平穏な日常の中に生きていた数万の命が、一瞬にして消え去ったのだった。アルケーは静かにそこに佇んでいた。


***


 彼女は18歳で死んだ。

 薄暗がりの路上で暴漢に襲われ、声の出せないのを良い事に男たちの根城に連れ込まれた。食事も与えられぬまま三日三晩男たちに回され、彼女は見るも無残な姿で衰弱死した。男たちは彼女の死体もそのままにどこかへ消えてしまった。

 四日目の朝、部屋の隅に電源の付いたまま放置してあった加湿器から火花が散り、火が上がった。部屋は男たちの炊いていた違法なハーブの煙と壊れた加湿器から溢れ出す霧で満ちていたが、やがてそれは炎で満ちて行った。

 大火災となった現場からは、彼女の遺体は見つからなかった。千度にも到達した室内で彼女の身体は灰も残らぬ程焼き尽くされ、そして消えた。


 それでもなお彼女はこの世界を愛していた。

 彼女は、世界を救いたいと思っていた。




**********

・クロニクル外/廃王の死徒

・登場人物

「廃園の天使」アルケー

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