僕には名前が二つある

ワンコロガシ

第1話

 開け放たれたガラス戸から、湿った空気が流れ込んでくる。それは、僕が覚醒してまもなくのことであった。

 重たくなった体を引きずって、敷居をまたぐ。ダークグレーのタイルを踏みしめると、体毛を通じて、風呂特有の心地よい熱気が体中に染みわたった。


 僕は温泉街を訪れていた。妻である千秋ちあきと共に――おそらくはこれが最後になるであろう――周年記念日を祝うために。

 結婚十周年を迎えた今日。毎年恒例となったこの旅行だが、僕は一度も湯船につかったことがない。否、つかることができない。


 天井と前面がガラス張りになった

 立ちのぼる湯気の向こうで、千秋の白い肢体が官能的にくねった。夕焼けをガラス越しに受けた、ほっそりとした面。目をつぶり、頬に張り付いた黒髪を整えながら、何やら口ずさんでいる。

 濡れそぼった髪に手を差し入れ、束ねた。後ろで輪を作ってくくり、うなじに尻尾を垂らす。

 千秋が振り返った。まぶたがゆっくりと開かれる。直後、その奥がはっとして僕を見つめた。頬の火照りがだんだんと耳朶へ広がっていく。


「来てくれたのね」


 千秋がうわずった声を器用に弾ませた。かと思うと、寂しそうに笑った。


「そのまま寝ちゃうのかと思っていたものだから」


 いつからだっただろうか。気がつけば、妻の笑顔は“幸福の象徴”たりえなくなっていた。




 あれは、籍を入れて一ヶ月が経とうかというときのことだ。連絡も無しに、あんなに帰りが遅いことはなかったと千秋は語る。

 時計の秒針が一つ、また一つと進む様を目で追いながら、僕の帰りを待っていたそうだ。中で虫が行進しているかのように厭な音。午前零時を報せる鐘が腹に重く響いたとき、壁面に設置していた電話が空気を震わせた。電話の相手は、警察だった。

 僕はいつもどおり、定時に退社した。今から帰るよ。帰路を急ぎながら、いつもどおり、妻へ送るメールにそう打ち込んだ。思えば、僕自身も携帯の画面に夢中になっていたのかもしれない。後ろに迫っていた車に気がつかなかったのだ。

 車の音がやけに近くで聞こえた。僕が振り向いたときには、もうどうしようもなかった。軽自動車のフロントが僕の腰を掬って、かなりのスピードで電信柱に激突した。痛みなど、感じる暇もなかった。即死だったと聞く。

 僕をはねたのは、三十代の男だった。居眠り運転だそうだ。警察に男の所在を問いつめた千秋は、返ってきた答えに愕然とした。男はすでに死んでいたのだ。僕とときを同じくして。

 事故からしばらく経ったころ、男の妻子が死んだ。毎月少額ずつ慰謝料が送られてきていたが、あるとき、千秋のもとへ届いたのは一通の手紙だった。

 貯金が底を尽きた。事故の後、仕事をクビになり、娘を保育園へ通わせることができない。新たにパートの面接を受けたが、子供を理由に不採用だと通達された。頼るあてがない。世間は私たちに死ねと言うのか。娘は夫が死んだことも知りません。出張に出ていて、たくさんのお土産を買って帰ってくるのだと楽しみにしています。この手紙を送ったら、この子を刺して、私も死にます。ごめんなさい。もうお金は払えません。

 千秋は残された妻子の末期まつごを知って、自分を激しく責めた。




 ぼんやりとしていたようで、千秋の声に我に返った。赤みを帯びた膝小僧が眼前に突き出ている。

 聞いているよ。僕は答える代わりに顔を上げて、にゃあ、と一声鳴いた。


「いい子ね」


 節くれの立ち始めた手が、僕の白髪混じりの頭を二、三度撫でた。

 千秋は立ち上がった。檜の香りが漂う枡形の浴槽に腰掛け、湯に右手をくぐらせる。ちょうど良い熱さだ。満足そうに口端を上げると、こちらに背を向けた。

 つま先からまっすぐに伸びたカモシカのような足が、湯船に浮かぶ月を割いた。千秋はゆっくりと体を沈めていく。

 なみなみと浴槽を満たしていた湯が、ほんの少し、溢れた。


「ねぇ、しょうちゃん」


 千秋は中途半端に振り返って、僕の名を呼んだ。端正な横顔の上で、伏せられた睫毛が震えている。


「私、世界で二番目にあなたが好き」


 千秋の唇が弧を描いた。

 初めて聞く言葉だった。長い月日を経ても、千秋の思いは変わっていない。

 世界で一番あなたが好き。まだ、僕が僕であったとき、千秋はそう言ったのだ。

 千秋は顔を背けた。両の手のひらに湯を掬う。僕の骨張った手と恋人つなぎをするたび、指の間が痛いと言って笑った彼女。

 今では頼りないものだけが、彼女の隙間をすり抜けていく。千秋は何もなくなった手のひらで顔を覆った。


翔太しょうたさんが亡くなって、もうすぐ十年。私、あなたまで失ったら、生き甲斐がなくなっちゃう。だからお願いよ、そんなふうにはしないで。お願い」


 千秋が鼻をすすった。湯船から突き出た薄い肩が、小刻みに震えている。


「いやね。鼻炎がひどい。これじゃあ檜の香りが楽しめないわ」


 千秋が弱さを見せたのは一瞬だけで、すぐにいつもの彼女に戻った。いや、戻らなければならなかった。鼻炎だなんだと難癖をつけて、ぐちぐちと不満を漏らしている。

 ああ。もう、僕はそれほど長くは生きられない。死期が近づいていることはとうに感じていた。

 千秋は、先立った僕を思って涙しているのか、それとも、じきに死にゆく僕を思って涙しているのか、あるいは。

 心配しないで。大丈夫だよ。僕は猫として死んでいくけれど、君とさようならをするわけではないんだ。またいつの日か、僕を“しょうちゃん”と呼んでおくれ。世界で二番目に好きだと言っておくれ。だからお願いだ。ほんの少しだけ、辛抱してはくれないだろうか。

 千秋が背を向けているうちに、僕は踵を返した。またいだ敷居が濡れる。

 一度止まって、振り返る。降り注ぐ夜の気配。深まっていく夜空の中空に、丸い月がかかっている。

 千秋が自分の体を抱きしめた。小さなうめき声が漏れ聞こえた。ぎゅうっと締められたのどから、わずかな隙間を見つけて空気が逃げ出すように。

 僕は今度こそ前を向いて、重たい体を引きずった。木目調の床を踏みしめるたび、冷気が足を這い上がる。まどろみを誘う湿気が遠ざかっていく。千秋の声が聞こえなくなっていく。

 しばしのお別れだ。

 爪を差し入れ、引いた戸の向こう側は、もう僕の馴れ親しんだ世界ではなかった。

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