金縛り

 今から十五年くらい前の、私が高校二年生だった夏の終わりの話です。


 私の実家は父親の方針で夜は早く寝なさいという家庭でした。小学生の頃は21時を過ぎても部屋に入らず居間でテレビを見ていると激怒されたものです。流石に高校生にもなると多少の緩和がなされたのですが、それでも平日は23時にはベッドに入っていました。その日もだいたいそれぐらいの時間に寝ようとしたのですがなかなか寝れませんでした。母親譲りの不眠症です。子供の頃から悩まされていた不眠症が発動したのです。父親はのび太くんかよってレベルで寝つきがいいのですが、似て欲しいところは似ないものです。一時間くらい眠ることもできず、ベッドでゴロゴロしていたのですが、睡魔が訪れる気配はありませんでした。水でも飲むか、とベッドから起き上がろうとしたところ体が動きません。なんじゃこりゃ!?力を込めるには込めることはできるのですがそこから行動に移せません。本当に指先一つ動かせないのです。扇風機の風や、布団の重みを感じることはできるので感覚がないという状態ではなかったのですが、とにかく動くことができませんでした。押さえつけられているとか、麻痺しているとかではなく、ただただ体が動かない、そんな状態でした。ただ唯一マブタだけは動かせたので目をパチパチさせて、動こうと必死でした。どれくらいの時間そうしていたのかわかりませんが、あぁもう無理と動くのを諦めて天井を眺めると“何か”が天井の隅にありました。すっかり暗闇に慣れた目は、カーテン越しの月明かりで十分に室内を見ることができたのですが、視界に入ったそれは正体不明でした。球形の白いモヤのようなモノでした。モヤはウネウネというかグネグネというかそれ自体が形を変えながら蠢めいていました。何と言ったらいいのかわかりませんがモザイクみたいな雲って言うのが一番近いと思います。正体不明なナニカを見て声をあげようとしたのですが、悲鳴をあげることはできませんでした。体が動かせないだけでなく声も出せないということにその時初めて気づきました。私にできたのはそのモヤを見ることだけでした。気持ち悪い、怖いけど目がそらせない、そんな感じでした。するとモヤが移動しました。天井伝いにゆっくりと、本当にゆっくりと。ナメクジが這うように私の真上まで時間をかけて迫ってきたのです。ごめんなさい、すいません、ゆるしてください、やめて、助けて、無理無理、来るな来るな来ないでください、助けて勘弁してください、頭の中はそんな言葉と恐怖でいっぱいでした。真上まで来たモヤは、今度はゆっくりと私の方に降りてきました。恐怖で吐きそうでした。叫んで、逃げ出したかったです。しかし体はピクリとも動かず、一声もあげることはできません。目を瞑ってしまいたくても目を離すことはできませんでした。神様仏様助けてください、それしか考えられません。自然と南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏と頭の中で唱えていました。モヤは変わらずゆっくりと私の方に降りてきていました。いよいよあと数十センチというところで恐怖の限界、目を固く閉じ、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏。とにかく念仏を唱えました。

 しばらく念仏を唱え続けましたが、痛みも衝撃も何もありません。モヤと接触したら何かしら感触があると思っていたのですが、何もありません。それでも怖かったので目を開けることもできません。できるのは念仏を唱え続けることです。五分くらいそうしていたと思います。流石にいくらゆっくりでもモヤと接触していないとおかしい時間です。これはひょっとして助かったか、と思うのですがそれでも目を開けてモヤが目の前にあったらと思うとなかなか開くことができません。助かったんなら早く確認したいという思いと恐怖の板挟み。ああっらちがあかん!もう知るか!と目を開けると、そこには何もありませんでした。「あぁー」ため息が自然ともれました。って声が出せる!?動ける!?いきなり襲ってきた金縛りは、とける時もいきなりでした。そこからは急いで部屋を出て、隣の両親の寝室に飛び込み、母親を起こして、今さっき起こったことを説明して一緒に寝てくれと頼みました。

「馬鹿なこと言ってないで早く寝なさい。お父さん目ぇ覚ましたら怒られるで。汗すごいから部屋戻って着替えてから寝なさい。」

 半泣きの息子の必死の訴えは却下されました。一人で部屋に戻るのも、寝るのも怖かったですが、翌日も学校があるので寝ないわけには行かず、その日は電気をつけたまま寝ました。


 翌日、学校で友達に金縛り体験を話すと大受けでした。怖かったですが、終わってみれば良い経験、人生一度くらいは金縛りもやっとかないかんよな、ぐらいの気持ちでした。その夜、昨日は金縛りもあって余り寝れなかったので早めにベッドに入りました。寝不足で部活の疲れもあるしよく寝れるだろうと思っていたのですが、不眠症が仕事をします。ベッドの中でまた二時間くらいゴロゴロしていました。あぁ寝られん!トイレでも行くか、と起きようとしたところ体が動きません。えっ嘘やろ、二日連続とかないだろ!と、思うものの体は動かず声はでず。まさかと思い天井の隅に目を向けるとそこには、何もありませんでした。よかった今日は動けんだけかと安堵したところ、右耳に小さく何か聞こえます。???なんだ?とよく耳をすますと「なんでなんでなんでなんでわたしがなんでなんでなんでなんでわたしがなんでなんでなんでなんでわたしが」小さな声でしたが感情のこもらない抑揚のない女性の声でした。他にも何かしゃべっているのですが、聞き取れたのは「なんでなんでなんでなんでわたしが」だけでした。右耳のすぐ近く聞こえてくる声は恐怖以外の何ものでもありませんでした。若干生暖かい吐息のようなモノも感じられました。南無阿弥陀仏、とにかく念仏を唱えました。信心深いわけではありませんが、人間どうしようもなくなったら神頼みしかありません。南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏、結構長いこと唱えていましたが声は聞こえ続け、生暖かい吐息も右耳を刺激します。どうすりゃいいの、なんで俺がこんな目に遭うの、なんかしたかよ、いい加減にしてくれ!恐怖は次第に怒りに変わりました。痛いわけでも苦しいわけでもなくただ怖いだけ、ならなんでビビんなきゃならんのだ、二日連続とかいい加減にせぇよ、明日も部活あるんだぞこっちはふざけんな!念仏から、理不尽な金縛りに対する文句に変わっていきます。いい加減にしろ出てけ出てけ出てけ!頭の中で怒り爆発、気づくと声は消え、体も動きます。すぐに隣の両親の部屋に。母親はやっぱり「馬鹿言ってないで寝なさい」でした。その日も電気をつけたまま一人で寝ました。


 さらに翌日の夜その日もまた金縛りにあいました。モヤも見えませんし、声も聞こえませんでした。ただ体が動かないだけ。もう怖くも何ともありませんでした。ただうっとうしいだけ。出てけ出てけふざけんな!強い気持ちで怒りをぶつけるとすぐに動けるようなりました。

 そこから四日間毎日金縛りは続きましたが、気持ちを強く持って怒りをぶつける対処で難なく乗り切ることができ、それ以来襲われことはなくなりました。皆さんももし金縛りになったら、謝ったり、怯えたり、許しを請うのではなく、強い気持ちと言葉をぶつけてみてください。何とかなるはずです。多分。


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