#20 いい雰囲気になりました

 浜離宮で水上バスを降りた私達は、そのまま浜離宮恩賜庭園はまりきゅうおんしていえんへと入園した。

「今の時期は紅葉が見頃なんだ」

 なんて大翔は言う。


 休日で庭園には人がいるけれど、お台場での喧騒が嘘みたいに静かだった。

 地面は舗装されてなくて足場が悪い。

 今日は買い物で歩き回るだろうと動きやすいブーツを履いてきて良かったと思う。


「幸は、俺と出かけるのは嫌か?」

 二人で並んで庭園を歩けば、大翔がどこか寂しそうな顔をして尋ねてくる。

 そんな顔をしても私は騙されない。


「嫌と言うか、婚約者がいるのに自分にプロポーズしてきた相手と二人きりで出かけるのはいかがなものかと思う」

「まともな人間のやる事じゃない?」

「だって、そうでしょう?」


 まともな人間はこんな事しない。

 ……でも、そう考えると一緒に出かけてる私もまともじゃないみたいな感じになるけれど、今回は半ば強引に騙されたようなものであって、例外という事にして欲しい。


「昔、付き合っていた時に言ってたな、『私は自分の思うままに生きたらどうしようもないくらいダメになってしまうから、自制してまともな人間になりたい』って」

 懐かしむように大翔は言う。


「憶えてたんだ」

 言われてみればそんな事を言った事があるような気がする。

 まだ付き合っていた大学生時代の話だから、一体何年前の事だろう。


「ああ、あの時俺はその言葉を聞いて、なんだか寂しく思ってしまったんだ」

「寂しい?」

 なぜ、その事で大翔が寂しいなんて思うのだろう。


「君の選択肢にはやりたい事をやって破滅するか、ただ我慢するかしか無いのかと、そう感じてしまったから」

 困ったような哀れむような、なんだかそんな感じの含みのある笑顔を私に向けながら大翔が言った。


「それは多分、当時はまだ私が若かったからだよ。今は、破滅しない範囲で適度にやりたいことを楽しむ位の余裕はあるよ」

 あの頃は、自分の考えるまともな人間という姿に振り回されていたように思える。

 今は一般的に見てまともな人間と見えるかどうか、という基準が自分の中にできたので、前よりかなり楽になった。


「つまり、今でも思うがままに生きたら破滅する自信があると」

「それは誰でも程度の差はあれ同じだよ。ただ、私は自分の中の煩悩が多すぎて全部聞いてたらどうしようもないダメ人間になっちゃうから気をつけてるってだけ」


 段々と日が暮れて空の色が赤く染まっていくのを感じながら私は答えた。

 一瞬、在りし日の瑞希との出来事がちらついて、私はゆっくりと深呼吸をする。

 人は、理性を持って人になるのだ。


「その煩悩の中には、俺との事も含まれてるのか?」

「……そうかもね。だから、私は大翔とも瑞希とも二人きりじゃ出かけたくないの」

 イタズラっぽく私の顔を覗き込んでくる大翔から視線を逸らす。


「俺は、そんな風に自分の好きなように振る舞う幸を見てみたい」

「私に破滅しろって?」


 そう私が尋ねた瞬間、隣を歩いていた大翔が急に立ち止まった。

 釣られて私も立ち止まって振り返れば、真剣な顔をした大翔がまっすぐに私を見ている。


「もし、俺の手を取ってくれたら、俺といる限り君を絶対に破滅させたりなんかしない」

 そう言って大翔は私に自分の右手を差し出す。


「……大翔は、私のどこがそんなにいいの?」

 昨日や一昨日の事に限らず、大翔は別れてからも定期的に私に復縁を持ちかけてきた。

 私はその理由が知りたい。


 日が沈んでいくのを感じながら私は大翔に尋ねる。

 空気が少しずつ冷たくなり始めていた。


「今にも溺れそうになって必死でもがいているのにこれは泳いでるんだと言い張っているような所が心配で、目を離せないんだ」

 どこか切なそうな優しい声で、大翔は言う。


 それじゃあまるで今も私が無理をしているみたいじゃないか。

 別に私はもう無理なんかしてない。

 問題なんて何もない。


 もし私が好き勝手に自分の思うように動いたら……。


 仕事も家事もせずに一日中ゴロゴロダラダラ過ごし、気が向いた時に瑞希や大翔にお金や食事をたかりつつ、子供が出来たら父親がわからない。

 肌のお手入れや体形の維持も怠って欲望の赴くままになんでも食べて、見た目もものすごい勢いで劣化しそうだ。


 そしてそんな自制心の無い人間は子供が出来たとしても、絶対にちゃんと子育てなんて出来ないだろうし、途中でやーめた、なんて我が子を放り出すかもしれない。

 少なくとも私の実の母親はそんな人間だったので、自分がそうならない保証はどこにもない。


 そんなダメ人間はすぐに陽向や瑞希、大翔はおろか、養子の私を大切に育ててくれて、大学まで行かせてくれた両親にまで愛想を尽かされてしまうだろうし、きっと誰も幸せになれないだろう。

 だから私はまともな人間にならなくてはいけないのに!


 多分大翔は私のやりたい事と聞いて、もっとキラキラした夢と希望に満ち溢れたものを想像しているのだろうけれど、私にそんな素敵な夢なんてありはしない。

 社会的にまともとされる範囲で日々を過ごすので手一杯なのだ。


「別に溺れそうになんか、なってない!」

 一瞬自分の頭に浮かんだ事をかき消すように私は答える。

 思ったより大きな声が出てしまったのがなんだか決まり悪くて、私は早足で歩きだす。


「……そうだな」

 私が歩き出すと後ろから大翔の妙に優しい声が聞こえる。

 これ、私が変に意地を張ってるとか、絶対そんな風に勘違いしてるよ……とは思いつつ、大翔にはその辺を説明しても理解してもらえないだろうな、と思って諦めた。


 心を無にしてしばらく池に沿ってお互い無言で歩いていると、閉演三十分前のアナウンスが流れた。

 足元がかなり暗くなっている事に気づいて立ち止まって顔を上げれば、オレンジ色に輝く東京タワーとそれぞれに明かりを放つビル群が目に入る。


「幸、綺麗な夜景の見られるところに行かないか?」

 ぼんやりと薄暗い中で輝きだした建物の明かりを眺めていたら、いつの間にかすぐ隣にいた大翔が話しかけてきた。


「……行く」

 特に文句も無いので頷けば、もう薄暗くて危ないからと大翔は手を繋いできた。

 別にまだお互いの顔がはっきり見えるくらいの明るさだったけれど、なんだかそれを振りほどくのも面倒になってそのまま大人しく大翔に手を引かれる。


 大翔に手を引かれながら、私はふとある事に気づいた。

 これって、もしかしていい雰囲気になってない……?

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