最終話 ぼくたちの心
ステーションスクエアに降り着いた頃にはラサも泣き止んでいた。ラサはぼくに恨めしそうに言う。
「最近のセージ、ちょっと気障すぎない?」
「う……。それは否定はできない」
ラサはあははは、と晴れやかに笑う。
とはいえ呑気にはしていられない。法がない研究所とは言え、ぼくたちに何らかの罰則が下らないはずがない。
「とりあえず、モナドに逃げ込もうと思うんだけど、どうかな」
ぼくは提案した。
「うーん、どうだろう。所長が言っていたように、わたしたちには本当に逃げ場はないのかも……」
ラサが困り眉で言った。その表情もすごく可愛い。そういえば、所長のことをおじいさまとは呼ばなかった。まあ、どうでもいいことだ。
「モナドの位置情報を完全に消去すれば、誰もあとを追ってこれないのでは?」
シエルさんが、そのように指摘する。
「それはいい考えかもしれない!」
ラサが意気を高めて言う。しかしすぐに、ああ、でも駄目だ、と言って、
「位置情報はこっちの転送装置だけじゃなくて、上の所長席にも保管されているはず……」
そうしょげるラサに、シエルが彼女の肩に右手を置いて、優しい口調で、
「ラサ。やり方さえ教えてくれたら、わたしが消去してあげる」
「え、ど、どうして? そんなのリスクが大きすぎるよ。シエルを巻き込むわけには……」
シエルさんはラサの言葉を最後まで聞かずに、左手をラサのもう片方の肩に乗せた。
「……幸せになってね」
小さい子供に言い聞かせるような、有無を言わせぬ……いや、この言葉は、シエルさんの心の底からの祈りだった。それがあまりにも強すぎて、ラサは抗うことなどできずに、素直に頷くしかなかった。
「ありがとう……」
「わたしたち、親友でしょ?」
「もちろん!」
半ば蚊帳の外にいる感じがしつつも、二人の様子を穏やかな心境で見ていた。
転送装置が設置されている、研究所の中にある研究所。そこにぼくたちはいる。こちらにあるモナドの位置情報はラサがなんらかの手段(全く理解できなかったのでそう記すしかない)でいとも容易く消去して見せた。忘れていたけど、この女の子は天才だった。そして、ラサは調査報告用のノートを、もう必要のない物のように一瞥して、一枚の紙を破りとった。そこに、所長室にあるモナドの位置情報の消去方法を子細に書き込んだ。そして、それをシエルに渡した。
「これで、お別れだね、シエル。……ひとりぼっちのわたしと友達になってくれてありがとう」
「わたしこそ、あなたと過ごした時間はかけがえのないものだった。初めてあなたが、作り笑いの仕方を教えて欲しいって尋ねてきたときなんて、もう人生で一番笑ったわ」
シエルさんとラサに、そういう過去があったのか。なんとも微笑ましい。当のラサは赤面して、恥ずかしそうに、
「そ、そんなこともあったね! ま、まあ? 今のわたしは作り笑いなんかしなくても、ちゃんと笑えるけどね!」
「ふふふ。良かった。ラサが幸せなら、わたしも幸せだよ。……元気でね」
「うん。……ばいばい!」
そう言って、ラサは転送装置のある方を向く。ぼくもそれに従う。ぼくたちは頷きあって、その中に入る。シエルさんが、
「じゃあ、転送するよ。……ラサ、大好きよ」
その言葉とともに、ぼくたちは光に包まれる。やばい、目を瞑らないと。
「わ、わたしも! だいすき!」
その言葉が、シエルさんに届いたかわからなかった。でも、それは多分、聞こえなくても、ちゃんと届いていた思いだろう。
じゃなかったら、シエルさんがラサを大好きだと思わないから。
ずっと目を閉じていた。そうしていたら、ラサが、
「もう! いつまで目を閉じてるの。セージってビビりだね!」
そうからかってきたので、ぼくはむっとして、思い切って目を開けた。
すると、そこは赤色世界だった。今朝、この世界を立った時は緑だった楓の葉が、一様に色づいていた。
「うわあ、なんだこれは。綺麗だ……」
「さて、問題です! どうして一日も経たずに葉っぱの色が変わったでしょうか?」
急にラサがかわいらしいポーズとともに問を出す。—―右手の人差し指を立てて、頬にちょんと添えて、右手は背中に回して、少し前傾になってぼくをじっと見つめる。
—―こういう、こういう一瞬の、ふいに見せる可愛い仕草に、ぼくはとことん弱い。何そのポーズ、可愛い、と馬鹿な思考がぐるぐるしてラサの問いを考える余裕もない。
「……はい、時間切れ! もう、ちゃんと考えてるの? 答えはね、この世界の気候にヒントがあるんだよ。この世界は、年がら年中、同じ気温でしょ? 楓は気温が低い日が続かないと、葉を赤く染めない。だから、基本的にこの世界の楓の葉はずっと、緑色なんだけど、—―ここからはわたしの持論なんだけどね。ある時に、まるで変わらないことに限界を感じたかのように、一気に葉を赤く染めるの。それは、楓の葉に変わらなければならないという強い意志が宿っているからだと思うんだよね。それは楓に限った話じゃない。変わらない生物って一つもないんだよ」
なんだか、答えになっていない気がしたが、ラサの考え方は素敵だと思った。
論理的じゃなくても結構。非科学的でも全然オーケー。ラサが世界を見て、心で感じた彼女だけの世界がそこにあるのなら、それに勝るものはないのだ。そして、ラサが自分の世界をぼくに語ってくれることで、その世界はぼくのものにもなる。彼女が語ってくれなかったら、そんな世界を知らなかったのだから。
「ラサとずっとにいたいよ」
ぼくは無意識に呟いていた。
「え、ええ!? 急に何言うの? も、もしかして、それって、ぷ、ぷろぽーずっていうやつ?」
あ、そうか。こんなところで、そんなことを言えば、そりゃそう取られるよな。ああ、困ったな。
……まあ、いっか。
「うん、そうだよ。ぼくと一生、一緒に居てくれるかな?」
「あ、ほ、本当にそうだったの? え、え、え、ええとお! よ、よろしくおねがいします!」
無茶苦茶慌てふためいている、その姿が、この上なく、最高に可愛かった。
三か月後。あの後、ぼくたちへの追っ手はなかった。ただひたすらに平凡で幸せに満ちた日々が続いていた。それはつまり、この世界が名実ともに、唯一の世界になったということだ。実験のために作られた世界が、その枷から自由になり、ここだけが唯一存在する世界と言っても良いくらいに、確固とした一つの世界に昇格したということだ。
そうか、これから一生肉を食べることができないのか、そう考えると少し淋しかったけど、ラサがいるだけで何の問題もない。
ぼくは心の底からラサを愛し続けるつもりだった。平凡な毎日の中で。
しかし、ラサはそうではなかった。
ラサの異変は、夜眠っているときに顕著に表れた。ひどくうなされているのだ。ひたすらに、謝り続けている。
「ごめんなさい! お母さん……、食べちゃって……」
……! ぼくは浅はかだった。彼女の苦しみがここまで強烈に彼女の心に巣くっていたとは。
ぼくはある日の朝に思い切ってラサに聞いてみた。
「ラサ、毎晩のようにうなされているよ」
「そ、そうなんだ……。じつはね、怖い夢をみるの。わたしが嬉しそうにお母さんの……死体を貪ってる夢。それをセージが……見て、軽蔑の言葉を言う、の」
ラサはぼくの機嫌を窺うように、ちらりちらりとこちらを見ては俯くのを繰り返して言った。
「大丈夫。ぼくは決して、ラサを軽蔑しない」
「うん。それは心の底から理解してるよ。でも、わたし、生きているのがどうしようもなく辛くなる時があるの」
「え? どうして……」
「ううん! セージと一緒に居られるのは嬉しいよ。でも、思っちゃうの。わたしにこんな幸せな日々を送る資格があるのかなって」
ラサの抱えていた悩みは、あまりにも重かった。
「罪悪感……ってこと?」
「そうなのかな……」
そう言ってラサは不安そうな表情を浮かべる。
ぼくは必死になって、彼女の苦しみを和らげる方法を考えた。それは一日で答えが見つかるような簡単な問題ではない。彼女の心を自分の心のように想像できるまで考え続けるしかなかった。
そして、そこから何日か経ったある日、ぼくは彼女に一つの提案をした。ぼくが考えに考え抜いた末の一つの答えだった。
「なあ、ラサ。旅をしないか?」
「旅って、どこへいくの?」
「どこへも行かない旅さ」
「どういうこと? 詳しく聞かせて」
ここで、ぼくの頭がおかしくなったと思わないのがラサの尊敬すべきところだ。ちゃんとぼくが確かな考えをもって発言していることをわかってくれている。
ぼくはラサに、自分が考えた遠大な旅の計画を話した。多分、こんな荒唐無稽な話をだれも聞き入れないだろう。—―ラサを除いて。
「無限世界をひたすらに歩くんだよ。ぼくたちの人生をかけて。これは贖罪の旅だ。人が犯した罪、ぼくたちが犯した罪をぼくたち二人で償おう」
それがこの世界で死んでいった人たちへの償いになればいい。
それがラサが抱える罪意識の償いになればいい。
ぼくの提案にラサは喜んで受け入れてくれた。
「償いの旅……。いいね! やろう」
話は一瞬にして決まった。すぐさま準備に取り掛かった。
とはいえ、準備したのは食料だけだ。大きなひとつの麻袋に大量の草を詰め込み、もう一方の麻袋には、ラサの大好物のセミの幼虫を詰め込んだ。全財産を使い果たした。
そして、今僕たちは大道の上に立っていた。眼前に広がるのは無限に続く草原地帯。永遠に景色は変わらないであろう、その景色は、ぼくが、彼女が、死ぬ前に見る光景と全く同じにちがいない。
ぼくとラサは並んで大道に立っている。ラサが穏やかに微笑みながら、
「なんか変な感じ……。わたしがこの世界で暮らしていた時は、無限空間を歩いてみようっていう発想はまったく浮かばなかった。そこに道があれば、何も疑わずにその道を歩くことしか考えられなかった」
ラサは無限を見つめ、そう言う。
「俺の暮らしていた世界もそれは同じだよ。決められたレールをただひたすらに歩くだけの人生さ。でも、多分、それが一番正しい生き方なんだよ」
ぼくの言葉に、ラサがふふ、と笑う。
「じゃあ、わたしたちはこれから、一番正しくない生き方をするんだね」
「そうなるな。それは、とても楽しいだろうな」
「そうかもしれないね」
ぼくたちは一緒に、せーので最初の一歩を踏み込んだ。
三年間だった。ラサはそれから三年後に死んだ。食料はわずかに残っていた。一週間に一回は雨が降るから、水も不足しなかった。原因はわからなかったが、ラサは次第に衰弱していき、最後には身動きも取れずに死んだ。
これだけは確信を持って言える。ぼくとラサはこのこの三年間で、最高の日々を過ごしたと。一日も無意味な日はなかった。毎日が幸せで、笑顔に溢れ、愛に満ちていた。たまには口喧嘩もした。でも、それすらもぼくたちにとっては大切なコミュニケーションだった。彼女の一言一言はぼくにとって、何物にも代えられない価値があったし、それはラサも同じだと信じている。
三年間、無限空間を歩いたが、やはり永遠と同じ景色が続くだけだった。何もない草原をひたすらに歩き続けた。それでも、ぼくたちは毎日が希望にあふれていた。世界はカラフルで豊かで、光り輝いていた。それは他ならぬ、ぼくたちの心が映し出した世界だ。ラサと作り上げたぼくたちの心の世界だった。それがあれば、世界に何一つオブジェクトがなくたって、問題にはならないのだ。
心が病むと、世界は絶望的に見える。逆に気分が良いと、世界はみんなが幸せそうだと錯覚してしまう。これがぼくがこの長い旅で見つけた心の真理だ。心は脳内の物質的な現象ではない。ぼくは唯脳論を否定する。
ぼくたちの幸せな日々に起きた出来事を少しだけ、本当に少しだけ記そう。すべてを記すつもりはない。それはぼくの心だけに残っていて欲しい。
こんなことがあった。ラサがぼくにおんぶをねだった。ぼくは喜んで応じたのだが、おんぶの仕方がわからなかった。だからぼくはラサのお尻を不用意に触ったり揉んだりしてしまった。それにラサが激怒して、そこから五時間くらい口を利いてくれなかった。ぼくは誠心誠意謝罪して、やっとラサは許してくれた。以上。
この出来事でぼくはラサのおしりの感触を知った。想像以上に柔らかかった。ラサの照れながら怒る顔がかわいかった。本音を言うと、ずっと触っていたかった。そして、ラサのささやかな胸も触りたくなったのを覚えている。もちろん、ぼくたちは何度も睦あった。何度も、何度も。それにもかかわらず、ぼくたちには子供が出来なかった。それでぼくたちは笑い合った。どちらかが不能なのかもね、と。
こんなことがあった。ある日ぼくたちが、楽しくおしゃべりをしていた時、一人の男の死体を見つけたのだ。それはゴラべイオン氏のものだった。ぼくたちは驚いて、気分が落ち込んでしまった。それから、ぼくたちは彼を埋葬した。彼が何のためにここを歩いていたのかを二人で必死に考えた。それで一つの結論に至った。彼は、ヨスの国を捜していたんだ、と。ぼくとラサはその答えに至ったとき、爆笑した。あまりにも不謹慎で、それをぼくが指摘したら、ラサがさらに笑った。それにしても、すごい偶然だったな。四方八方に無限に広がる空間において、ゴラべイオン氏に出会うとは。
こんなこともあった。これは二か月くらい前だろうか。日にちの感覚はとうになくなっているので、絶対に違うと思う。でも、それくらい遠いようで近い記憶。ラサがぼくに言った。もしわたしたちのふたりのうちどちらかが、先に死んでしまったら、その時は迷わずに、見捨てて歩き続けること。そこからが、わたしたちの本当の贖罪だから、と。ぼくはそれは無理だといった。そうしたら、ラサはぼくに説教をするように、だめ! と言ってぼくの頭を撫でた。ぼくは涙が止まらなかった。その時初めて、ラサがいつか死ぬのだということを意識した。仮にぼくが先に死んだらどうだろうか、そうしたら、ラサはどれくらい悲しむだろう。ぼくは気になった。ねえ、ラサ、ぼくが先に死んだらどうする? その問いにラサは泣いた。わたしも一緒に死ぬ、と言って。おいおい、それじゃあ、さっき言ったことと違うじゃないか。じゃあ、仮に君が先に死んだら、ぼくにどうして欲しい? ぼくは尋ねた。ラサは迷わずに答えた。見捨てて歩き続けて、と。—―この娘は優しいな。ぼくはそう思って、優しく微笑んだ。
そんなラサが死んだ。ぼくは泣き叫んだ。ぼくとラサの築き上げた世界は崩壊した。ぼくの眼前に広がるのは茫漠な草原。色彩を持たない草原がただ、無意味に広がる。
ぼくの彼女への愛が、ぼくを突き動かした。
ぼくはラサの肉を食べた。残りの人生で、もう肉を食べることなどないと思っていたが、こんな形で肉を食べることになるとは。
あらかたの記録を終えてしまった。もうこれ以上ここに記すことは無い。今、ぼくは彼女の乳房を貪っている。ぼくの行いを咎めたり、非難する存在はもうこの世界にはない。ぼくの意志だけがこの世界に存在している。ラサは、ぼくがこんなことをするのを赦してくれるだろうか。いや、むしろ、これは彼女の願いだった。なのに、何かがぼくを咎める。
そうだ。ぼくはラサの罪を食べるのだ。ラサの抱える罪意識は、薄れることがないようだった。それだけが、日々のぼくの煩いだった。どうにかして、彼女の罪を消してあげたい。そして、ぼくが出した答えがこれだったのだ。そうに違いない。—―ラサの罪をぼくが引き受ける、ということ。それが、ぼくが彼女にできる最後の愛情表現だ。愛するなら、彼女を埋葬するのが筋だという反論が、ぼくの心の隅の隅で聞こえた。ぼくはその反論を一蹴した。彼女をこんなところに埋めてたまるか。なにが埋葬だ。それなら、彼女もぼくの体の中で眠っていた方が幸せだろう。
この世界のあらゆる価値基準は、ぼくの中にある。
……さて、そろそろ彼女の顔を食べる時だ。ここでやめたら、ぼくの彼女への愛など、たかが知れていることになる。
さあ、食べるんだ。さあ。さあ! 食うんだ!
……無理だ。食べられない。
心のアラームが激しく鳴る。
—―これがぼくの限界だ。
涙が流れる。彼女の頬を雫が流れる。
ぼくの心は狂い死にそうだった。
でも、死ねない。それがぼくの心だった。
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