第20話 最悪な王

 大道を歩き始めて、睡眠時間を抜いて約二十時間といったあたりだろうか。遠方の正に目の前に、遺跡のようなものが見え始めた。あれがオスだ。ぼくは直感的に悟った。

 オスにかなり近づいた。そして、その国の全容が明らかになるにつれて、ぼくは言葉を失っていくのだった。第一の理由に、何もないから。

 ただ、無限地帯の草を刈り上げただけの禿地が、国と呼ぶにはあまりにも狭い範囲に広がっているだけだった。

 そして、第二の理由が、—―これを描写するのは些か心が痛むのだが、生きている人間と死んでいる人間が、あたかも両者には違いがないかのようにないまぜになって、あちこちに散らばっていたから。

 何もない禿地に人がごみのようにばらまかれているその光景は、地獄という言葉でも言い尽くせない狂気に満ちていた。

 ここにいるのは、ほとんど女か子供のようである。そして、とりわけ目を引くのが、子供のお腹がぽっこり膨れていることだ。ぼくはその姿を社会科の教科書で見たことがあった。あれは確か病気だったはずだ。断じて、満腹でお腹が膨れているのでない。逆だったはずだ。ぼくは茫然と眼前に広がる悪夢の光景を見ていた。それはあまりにも鮮烈すぎた。何もない道をひたすら歩いて、まるでこのまま何もないかのようように思われたその果てにこの光景である。目を逸らすことなどできない、無いことによる「有」が現出していた。

「これは一体なんなんだ……」

 辛うじてぼくの口から出た言葉。すると、ラサは自分に確認するように、

「わたし、ここに、来たことがある」

「そうなのか? いつだ?」

「あれは、確か……、お母さんが連れ去られた後だった。そうだ、間違いない。息を切らせて、必死に走り続けて、ここに来た。確かにそれは覚えてる……!」

「ということは、ラサはそれからの記憶がないんだよな?」

「うん、そう。なんでだろう、思い出せない! 何か、何かがあった気がするの! ここで、なにかが……」

 ラサは苦悶に顔をゆがめている。その時、オスの人たちがぼくたちに気づいたようだった。ざわざわと犇めき始めた。まずいな、と思った。ここには身を隠すところなど皆無だ。それこそ、人込みに紛れるしかない。

「どうする?」

 ぼくはラサに尋ねる。

「とりあえず、この国の王に直接当たってみるしかないみたいね」

 同意。それしか、この先に道はない。


 ぼくたちが、人込みをかき分けながら、死臭の漂う荒れ地を歩き回っていると、突然野太い声が浴びせられた。

「てめえら、見ねえ顔だな? ……俺たちの食料になってもらおうか!」 

 ドスの利いた迫力のある蛮声。それとともに、男はラサめがけて、走りこんだ。

 ぼくがストロングマンではなく、ガバメントを構えようとすると、ラサがぼくを見て大丈夫だよ、と目で合図を送り、正面を見据える。余裕の構え。あるいは男には無防備に映ったかもしれない。勢いを増して襲い掛かる。

 —―ラサに限ってそんなことがあるはずがない。

 きっと男をにらみ、一瞬にして体を転換させる。ぼくとちらりと目がったかと思った次の瞬間には、彼女の右脚の回し蹴りが男の顎を破壊した。――たしか、虎尾脚だ。男は呻き声をあげて、その場に背中から倒れた。脳震盪を起こしたのだろう。ラサは、脚を元に戻して、それっぽいポーズをとる。ただただ、かっこいい。そして、ぼくは見てしまった。彼女のスカートが、振り上げる右脚につられて大きく開き、顕わになったストッキング越しの下着を……。一瞬だったけど、素晴らしい光景だった。この男も最後にあの光景を見られて、さぞ幸せだっただろう。

 そんなことを考えている場合ではない。割と冗談抜きで、そんなことを考えるのは場違いだった。この騒ぎに、辺りは騒然としていた。幸いなことに、ほとんどが、子供と女で身の危険はあまりないように思われる。

「良くない展開だね。どうしよう」

 どうしようって、ラサさん。あなたが起こした騒ぎですよ。まあ、ラサは悪くないけれど。

 その時、群衆が突然、道を作るように動き始めた。彼らの顔には、畏怖の表情が見られたような気がした。そして、その道を一人の巨漢――あまりにも大きな男が毅然とした態度で歩み寄ってきた。彼からは底知れぬ覇気を感じた。

 その男の髪は、ほかのすべてのオス人と同じ赤黒い色をしていて、長すぎる後ろ髪を結んでいた。頬はこけ、目は内くぼみ、瞳は不気味にぎらついる。浅黒い肌とあり得ないくらいに隆起した筋肉は圧倒的な力を周囲に誇示していた。化け物だ。

 そして、ぼくは同時に確信していた。こいつがリーダーだ、と。

「おうおうおう! 男どもをメスに送り込んだかと思ったら、奴らは帰って来ず、お前たち二人がやってきたと。それは予想外なこった」

 ラサは目の前の巨漢に怖気づくことなく、堂々と立ちふさがる。

「あなたがオスの王ね」

「ああ、そうだとも。俺の名前はヴァルモア。ヴァルモア二世だ。……ところで、女。送り込んだ男たちがどうなったか知ってるか」

 もちろん知っているだろう、という圧とともに聞く。

「全員死んだよ」

「なんだと? あいつらが、メスの人間にやられたってか。それはありえねえなあ。奴らは人を殺せないからな。—―そうか、お前だな? さっき、そこの男を倒した要領で全員叩きのめしたってか?」

 自らのペースで、悠然と言う。それは圧倒的な支配力の証左のように思われた。

「それは違う。彼らは勝手に死んでいったは。そして、メスの人たちも大勢殺された。私たちは、あなたに話が合って、ここに来た」

 ラサの言葉を聞いて、男は豪快に下品な笑い声をあげた。

「話だと? そんなものしても無意味だろうよ! だってそうだろう? 俺たちの国の戦力である男たちが軒並み死んだんだ。この国は直に消滅するだろう。だったら、俺がするべきことは一つだけだ。—―わかるだろう? 女」

 その言葉をきいて、ラサははっとする。そして、怒る。彼女の本来の属性。そして、今は数ある感情の内の一つに過ぎない、怒り。

「そんな、そんなことはさせない!!」

 ラサの怒号に応えるように男も怒鳴る。

「黙れ、女!! 俺たちは十分に苦しんだんだ。今度はお前たちに苦しんでもらう。あんな人を殺せないような雑魚共、俺一人で皆殺しにしてやるよ!!」

 ぼくはその絶大なる豪気に身がすくんだ。体が硬直して、ガバメントを手に取ろうにも、まず手が動かない。変な動きをしたら、即座に殴り殺されそうな気がした。不甲斐ないぼくとは対照的に、全く怖じないラサは、

「ふざけるな!!! そんなこと、ぜったいに、ぜったいに、させないから!」

 声高高に宣言する。その時、男が一瞬驚きの表情を見せた気がした。そして、にやりと笑った。

「さてはお前、昔、オスに一人でやってきた娘だな? そうだ! その明るい赤髪、お前はあの時の母喰いのガキじゃねえか!」

 え? ぼくとラサが硬直する。母喰い? ぼくは脳内で変換された言葉が適切か訝った。それが正しいとは信じられなかった。

「な、なにを言っているの?」

 ラサは威勢を削がれたように聞く。

「なんだお前、母親を喰ったことを忘れたってか。ひっでえ奴だなあ? あんなに嬉しそうに食ってたのによお!」

 この男は、おそらく心の底からそれを悪だとは思っていない。しかし、悪だと知っているからこそ、ラサを激しく糾弾するかのような口調だった。この男は、ただものではない。この世界では見たことがないタイプの人間だ。

 しかし、本当なのか。ラサは母を喰ったというのは。どうなんだ、ラサ、答えるだ! もし、本当に喰ったというなら、君に幻滅してしまうかもしれない。

「嘘を言わないで!! 私はお母さんを食べるわけがない!」

 ラサは激しく否定する。

「ほお? お前、その口ぶりだと喰ったことを認めたようなもんだぜ? なぜなら、お前はこの国に来たことを否定していないからなあ!」

 —―確かにそうだ。もし仮に、この男が嘘を言っているならば、ラサがこの国に来たこと否定しないことを根拠にできない。つまり、ラサがこの国に来て、母を喰ったことを確信しているからこそ、彼女の上げ足を取ることが出来る。

 そして、ぼくはラサがかつてこの国に来たことがあると、知っている。それは言ってみれば、ぼくがラサの罪の証人の一人であるということだ。

「うそ……だろ……?」

 ぼくは無意識に声が出ていた。その言葉に、ラサが絶望したように、

「セージ、あの男の言葉を信じるの!? そんな……」

「はははは! こんなことで仲間割れか? しょうもねえ奴らだ。馬鹿なお前らに冥途の土産として、真実を語ってやろう。そしてら、嫌でも思い出すだろうよ。自分が母親を喰ったことをな!」

 下卑た笑みを浮かべ、面白そうに語り始める。

「俺は男たちが連れてきた女――お前の母親を殺して、食用に解体していた。それが俺の楽しみだからな。そして、可愛い可愛い子供たちに、一人一人に一切れずつ配っていった。そんなときにだ、息を切らした赤い髪の子供が物欲しそうにこっちを見ていたから、その肉をやったんだよ。そしたら、喜んでぱくぱく食ったさ。髪が赤かったから、最初は俺の子供かと思ったが、よくみたら色が明るかった。それで俺は気づいちまったんだよ。さっき捌いた女と同じ髪色だなあってな。そこから導き出される答えは一つだ。連れ去られた母を必死になって追いかけて、息も上がり切って、喰いものを求めていたお前は、俺が捌いた新鮮な母親の肉を有難く有難くいただいた、ってことさ。笑っちまうなあ!! それで、俺は幼いお前に言ってやったんだよ。お前が食った肉はお前の母親の肉だってな」

 がはははははははははははははははははははははははははははははははは!

 男の笑いが残響となる。ラサは固まって、身動き一つ取らない。

「その後のお前の反応を教えてやるよ。お前は確かこう言った。『ふざけるな!! そんなわけない! 嘘だ!』そんなことを言いつつもお前は、その肉を必死になって吐いてたなあ。あれは傑作だったな。それから、俺は最期に聞いてやったよ。『腹が減ったときに食う、母親の肉はおいしかったか?』ってな! そしたらお前、怒りを通り越して、泣いてやがる。喜んで食っておきながら、それはねえだろ? せっかくの肉が台無しだったぜ」

 そこまで言って、男は真顔になる。今までの下衆な笑いが演技であるかのような早変わり。

「それからお前はどこかへ消え去った。……それがすべてだ。どうだ、思い出しただろう? さて、大人しく俺に殺されて楽になっとけ!!」

 言うや否や、男はラサに殴りかかる。男の剛腕が、はかなげなラサを軽く吹き飛ばすかのように思われた。しかし、ラサはその拳を蹴りでもって受け止めていた。

「ほう? やるな。

 ――ふっ! お前、泣いているのか。思い出したか!!」

 泣いている? ラサが泣いているだと? つまり男の話は真実だと証明された。そうか、ラサが母の肉を食べたのは本当だったのか。ならば……。

 ならば、ぼくがすることは一つしかなかった。


 この男をぶっ殺すことだ。

 それも恐怖に震えて、とことん痛めつけてから死んでもらう。

 ぼくはなんの躊躇もなくガバメントを構え、男の右腕の正確にぶち抜いた。すぐには殺さない。苦しめ。

「ぐああ! なんだ!? 何をやった? そこのお前か? なにを」

「セージ!? それどうしたの?」

 涙で顔をゆがめたラサが振り返り、問う。ああ、可哀そうに。苦しかっただろうに。ぼくが何とかしてあげる。

「きみの心を守るために用意したんだ」

 気障ったらしく言う。

「ラサ、そいつをぼこぼこにしてやれ」

 ぼくはラサに優しく言う。そう、君は殺さなくていいんだ。ただ、ぼこすだけでいい。……ぼくが最後に殺してあげるから。

「わかった!」

 そこで、ラサはぼくに笑顔を見せた。よかった。その可愛い笑顔が見たかったんだ。

 ラサの足技の連撃が男の体中を穿った。どれも致命傷にはならないだろうが、死ぬほど痛いはずだ。男は右腕の激痛に反撃すらできない。

 —―いいぞ、もっと苦しめ。

 男は呻きとともに叫ぶ。

「俺は、俺は! 選ばれた人間なんだ! 数百人いる兄弟すべてに戦いで勝った、最強で、絶対的な王だ! 俺はほかの奴らとは違う! 明らかに! 明らかに体も! 知能も! 力も! 誰よりも優れているんだ! それなのに、お前のような! 女ごときに!!」 

 幾度となく蹴りを喰らったというのに、まだ、威勢を張る。

 ぼくは男の左腕を狙撃した。男は悶絶する。

「なあ、許してくれ! すまない! 俺たちは同胞だろう!? そんなむごいこと出来るわけないよな? なあ、やめてくれ! なあ、教えてくれ! 何をしたら赦してくれる? なんでもする! なんでもするから!!」

 男は命乞いを始めた。なんだ、この程度の男か。まあ、でも、十分凄いやつだ。ここまで耐えられる男などそうそういないだろう。確かにほかの男とは違うな。ぼくの一億倍は強い。それは認める。でも、それ以外は認めるわけにはいかない。

「ラサ、もういいよ。あとはぼくが始末してあげる。しっかり見てて」

「う、うん」

「おい! やめてくれ!」

 その言葉を聞いて、ぼくは心から男に謝罪する。

「申し訳ない。お前が一番悪いわけじゃないことは知ってるけど、死んでもらうよ。世界を呪ってくれ」

 ぼくは男の頭を正確に撃ちぬいた。鮮血が飛び散る。そして、目を見開いて、その場に斃れこんだ。辺りはより一層騒然とする。それもそうだ。王が死んだのだから。

 もうこの国は再起不能だろう。それもこれもぼくのせいなのだが。

 

 こんな世界にも人は住めるんだな……。ぼくは見当違いなことを考えた。脳が麻痺して、思考が安定しない。ラサが本人の意図しない形で、母親の肉を食べたと知って、ぼくはこの上ない自責を感じた。わずかなりとも、疑いの眼差しを送ってしまい、ラサを深く傷つけた。ラサの抱えていた、大きな傷を知らずに。これはぼくの罪だ。一生をかけて償わなければならない罪だ。

「帰ろう、ラサ」

「うん」

 尚も素直にぼくの言葉を聞いてくれる。深く傷ついたはずなのに。

「ごめんね」

 ぼくの謝罪の言葉は四文字で済まされていいはずがないのに、

「いいよ。それより、ありがとう」

 そうにっこり笑うんだから、ぼくが号泣してしまうのも無理はない。

「ははは、セージが号泣してる!」

 楽しそうに笑う彼女。この世界に、この国に、不謹慎などという概念が存在しないことを象徴しているかのように。

 

 ラサは努めて明るくこう言ったのをぼくは忘れない。

「でも良かった。わたしがお母さんを食べたことを悲しめる人間で。それもこれも、セージに心をもらったおかげだよ。……今だけは、このことを喜んでいいよね!」

 その笑顔は、見方を変えれば悲しそうでもあり、苦悩に満ちたものでもあり、もしかしたら、怒っても見えたかもしれない。

 でもラサはそんな娘ではない、と知っている。ラサが笑うのは楽しいときで、泣くのは悲しいときで、怒るのは相応の出来事にだけだ。

 ラサが泣き笑いだとか、怒っているのに、笑いでごまかすだとかの表現方法を学ぶのはもっと後でいい。今だけは、素直に笑うラサと一緒に笑っていたい。

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