第19話 道の最中
ラサはなんだか可愛くなっていた。衣装が変わって、印象が変わった。胸元にフリルがあしらわれた、シンプルなシャツと膝上までの丈の濃紺のスカート。ストッキングがいつものようにきれいな脚を鮮明に浮かび上がらせる。ブーツは……凶器にもなるやばいやつだ。これさえなければ、落ち着いていてとても好感の持てる身なりだ。――いや、あってもいいのだけれど。
これはもう恒例行事だと思ってほしい。ぼくは無意識に女性のシルエットにくぎ付けになるという男の病を患っているのだ。例のごとく下から、上へ。
……おや? ラサの様子がいつもと違う。ぼくから目をそらして、手を前でもじもじさせている。これはまさか……恥じらい、か?
「どう? 似合う?」
赤面しながらそういうのだから、ぼくも照れてしまう。
「いいと、思うよ。なんか、落ち着いた感じだね」
素直に答える。実際のところ、ドストライクである。今までラサが着ていたバトルドレス(ラサ曰く)も悪くはなかった。でも、ちょっと派手だな、とも思っていた。つまり、ぼく的には百点ではなかった。
ぼくの言葉に、ラサは小声で、やった、と呟く。うれしそうに。
「そう? 良かった! ちょっとイメチェンしようと思ってね。こういうのもいいかなーって」
嬉しそうで何よりだ。それにぼくもなんだか嬉しいし。
こういうふとした一瞬で、人は恋に落ちるのではなかろうか。根拠はある。ぼくがそうだからだ。この時、明確に意識してしまった。
――ぼくはラサが好きだと。
だからといって、どうするわけでもないのがぼくという人間だ。できるだけ、ラサには本当の気持ちを伝えようと誓ったけど、流石に愛の告白はまだ無理だ。
ぼくたちはレストランの席に向かい合って座っている。テラス席だ。ステスクを見渡せる、なかなかにムードの良い席だ。ぼくはデート気分になっていた。
「俺、久々に肉が食いたいな」
不謹慎だろうか、と少し考えたがラサは気にしていないようだ。意識しすぎだったかもしれない。食欲には抗えない。
「草ばっかり食べてたもんねえ、わたしたち」
「そうだな。じゃあ、ラサも肉食べるか?」
「ううん。わたしははちのこの炊き込みご飯かな!」
ワクワクした笑顔で言う。相変わらず、この娘は虫が好きだなあと、もはや感心するレベルである。肉に勝るというのか。
先にラサの注文した炊き込みご飯が来た。意外や意外、匂いは食欲をそそるし、見た目も全然いけそうだ。ぼくも今や相当いける口なのである。
ラサがおいしそうに食べるのを微笑まし気に眺めていたら、ぼくの注文した高級ステーキがテーブルにどん、と置かれた。素晴らしい重量感。ナイフとフォークで先に切り分けて、一つ一つ頂く。やっぱり、肉が一番おいしいなあ、としみじみ思う。
ふとラサを見ると、何か困った風に眉を寄せてぼくの食すステーキを睨んでいる。
「どうしたんだ、ステーキ一口あげようか?」
ぼくは茶化すような口調で聞いた。
「わたし……、お肉食べたことないんだ。なんだか、お肉を見ると胸がむかむかするっていうか……、どうしても食べようという気が起きないの。なんでだろ?」
「へえ、そうなんだ。おいしいよ。一回、食べてみたらどうだ?」
「うん。じゃあ、一口もらおうかな」
ぼくはステーキがのせてあった皿をラサの方へ差し出す。彼女は恐る恐る箸で一切れをつまみ上げて、口に運ぶ。
まさか、そんなことが起きるなんて誰も予想できなかっただろう。ラサは口に肉を入れ、咀嚼する。そして、次第に顔を歪め初め、咳こみ始めた。とても苦しそうに咽る。ぼくは慌てて、
「どうしたんだ⁉ 気持ち悪かったら吐いて!」
「う……! あ……!」
苦しそうな呻き声に、ただならぬものを感じる。ぼくはラサの背中に回り、優しくさする。それでも、治まらない。
「本当に、苦しいなら、吐いて!」
ぼくはそう言うくらいしかできなかった。いや、人を呼ぶべきか。そこまで考えて、ぼくが店内へ向かおうとした時、ラサがテラスの柵に手をついて嘔吐した。
胃の中のすべての物を出してしまったのではないかという勢いにぼくは心配で仕方がない。こちらを向いて、必死に笑おうとするその目には涙が溜まっている。
「大丈夫?」
「わたし……どうしちゃったんだろうね」
心配を掛けまいという配慮なのか、彼女は努めて明るく言う。それが逆にぼくの心をきりきりさせる。
「ごめん。無理に食べさせちゃって」
心の底からの申し訳なさ。謝ることしかできない。
「ううん、いいんだよ。気にしないで」
ぼくを励まそうとするラサの健気さに胸が抉られるような気分になる。
「わたしだってごめんね。セージはわたしの好きなものを受け入れてくれたのに、吐いちゃって……」
そこまで言って、彼女の中で何かが崩壊するように、泣き崩れた。脇目も振らずに号泣した。
「わたしは最低だ! 誰も助けられなかった! みんなが戦ってるときに何もできなかった! わたしは何もできない! 天才なんかじゃない! もういやだ!!」
これでもかという自責。ぼくはなんと言葉をかけるべきか。考える。考える。考える。考える。—―考えても分からなかった。
だから、ぼくは何も出来ないでいる時間が惜しくて、彼女のもとに歩み寄り、抱きしめた。ラサは最初驚いたように硬直したが、ぼくを拒むことは無かった。ぼくの肩に顔を埋め、今度はしとしとと泣いた。彼女の吐しゃ物の匂いがわずかに鼻に突いたが、全く嫌な気持ちはしなかった。むしろ、それを含めて、彼女のことが愛おしかった。
「ありがとう。もう落ち着いた」
泣きやんで、自らの心を落ち着けるように言った。
「そうか。……ラサ、ぼくも彼らを救うことができなくて悔しいよ。でも、仕方がなかった。ぼくたちは力も知識も不足していた。だからさ、真実を探しに行こう」
「真実……を?」
ぼくと彼女の視線が真っすぐぶつかる。
「そう。多分、オスに行けば何かわかる」
「できる……かな……。わたしに」
自信のない声。ぼくは虚勢を張って、
「大丈夫! 俺が付いてるからさ!」
その言葉を聞いて、ラサはぷっ、と噴き出して、
「そうだね? セージがいれば万事オッケーだね。それじゃあ、今度、大男とタイマンしてもらおうかな!」
幾分、晴れやかな表情になった。やっぱり、ラサは笑った表情が素敵だ。怒ったラサも、むくれたラサも、困った顔のラサも、悲しそうなラサも、ぼくを馬鹿にするラサも、すべてのラサが素敵なのだけれど。
でも、辛そうなラサは見たくないな。ぼくの本心だ。
「そうだね。行こう! 真実を求めて!」
そう。それがぼくらの使命。ぼくらの共通意志。ぼくらの本懐だ。調査員である前に、人として知らなければならない真実を求めて――。
ぼくたちはメスに戻ってきた。まず初めに、目下ぼくらの懸案問題である白髪の少女を訪ねた。彼女がラーンなのかノウなのかもわからない。
姉妹の家にたどり着いた。少し緊張する。ぼくはドアを叩いた。
「ごめんください、セージとフィユリアです。いますか?」
静寂。いや、足音がこちらに向かっている。ごくり。こういう時に唾を嚥下すると、本当に音が鳴るんだなと脳の隅で考える。どうでもいいことだ。
ドアが開いた。そこに立っていたのは、白い髪を結んでいないロングヘアーの少女だった。その目には憂いがこもっていたが、どことなく優しさのようなものを感じる。明らかに、あの時の瞳ではない。あの瞳には魂が宿っていなかった。
「こんにちは」
白髪の少女は穏やかな口調で言った。物腰もとても落ち着いている。意外だった。
「こ、こんにちは……」「こんにちは」
ぼくたち二人は間の抜けた返事をする。
「セージさんとフィユリア、ようこそいらっしゃいました。どうぞお入りくださいな」
そう言って、ぼくたちを屋内へ導いた。そして、四つあるうちの椅子の内、手前側の二つの椅子に座った。少女はラサに対面する位置に座った。…………。ぽっかり空いたひとつの椅子がとても虚しい。
「えっと、ラーン? それともノウ?」
ラサが恐る恐る尋ねる。
「そうですね、それを先に言わないといけませんね。わたしはノウです。ご存知の通り、姉のラーンは死にました」
思ったよりも、淡々としている。それもそうか、とぼくは思い至る。ノウには悲しみの感情がない。そう思うと、ぼくが悲しくなる。
「ご愁傷さまです」
ぼくは悔やみながら言った。
「辛いかもしれないけど、よければラーンの身に起こったことを教えてほしいの」
ラサが、気づかいに満ちた声でそう言う。多分、ノウには辛いという気持ちも無いのかもしれない。ラサは幸か不幸か、辛いという感情を知ってしまっただけでなく、それを手に入れた。
「わかりました。……姉様はわたしを庇って死んだんです。わたしは一人で庭のお手入れをしていました。すると、突然おぞましい気配とともに身体の自由が利かなくなりました。遠くを見ると、たくさんの人が大男に襲われていました。逃げようにも、身動きが出来ませんでした。終にわたしは大男に目を付けられ、なすすべもなく殺されると思いました。しかし、姉様がこの椅子を大男に投げつけたのです」
淡々とノウは話し続ける。そして隣の椅子を優しくなでる。愛おし気に。
「大男は姉様に標的を変えました。わたしはどうにか大男の注意を引こうと、近くにあった小石を投げつけましたが、無意味でした。そして、姉様は大男に食われました。男は姉様のきれいな腕から食べました。わたしはただそれを見ているしかできなませんでした。次に姉様の形のいいすべすべな太ももを食べました。次に姉様のいい匂いのする、舐めるとこそばがるおへそのあるお腹を食べました。次に柔らかくて、揉むと心が温かくなる乳房を食べました……」
聞いていて、苦しくなった。吐き気がした。どうしようもなく辛い、辛い事実。何かを言おうにも、言葉なんか見つからなかった。
「でもですね、姉様は自分の体を食べられていく中で、わたしに語ったのです。幼少からのわたしとの思い出を。すべて、ひとつ、ひとつ。わたしですら忘れていた思い出もありました。おそらく、わたしが些細だと思っていたことが、姉様には大切な思い出だったのでしょう。わたしはただひたすらに姉様の言葉を聞きました。痛かったでしょうに。そして、姉様がこと切れるのと同時に、大男も死んだようでした」
涙が全く意識のそとで流れていた。久しく泣いたことなんて無かったのに。涙が、ぼろぼろと零れる。あの雨の日のラーンの言葉が思い出される。今日が最後かもしれないから、今日という日を大切にしている。ラーンにとってノウとの日々は、一日も余すことなく大切な日々だったのだ。
「姉様は、最後にわたしに言いました。『ノウ、強く、優しく生きて。みんなをわたしだと思って。そして、ノウのいる世界にわたしを生き続けさせて』って。その言葉の意味は理解できませんでした。ですが、わたしにとって、姉様の言葉は絶対です。わたしは姉様の思いに応えます。だから、強く、優しく生きます」
ノウとは別れた。もう今後、ノウと会うことは無い気がしていた。
ぼくたちは無言で歩いた。気づいたら、ぼくたちは大道に来ていた。
「行かなくちゃな。何が起こってるか知らないとな」
ぼくは自らに言い聞かせるように言った。
「うん」
ラサも確固たる意志をもって頷く。
ぼくたちはオスへと通じる長い長い一本道に足をつけた。両側には果てしない緑と青。無限空間と呼ばれる草原地帯が広がっている。
五時間は歩いただろうか。途中、携帯食を食べて休憩を取ったりした。まだまだ、先は遠いみたいだ。ひたすらに同じ景色が続く。途中、オスの国についてラサが知っていることを教えてくれた。
「オスはね、メスの国に住んでいた男が一人で作った国っていうのは既に説明したよね。彼はね、ほかの人とは違っていたみたいで、なぜかモナド法を破って当時の王を殺したの。そして、恋人との間に子供を作ることで国民を増やしたの」
「なんか凄い短絡的な方法だな……」
「そうだね。でもこの世界にはそもそも問題があった。それは、そもそもこの世界には一つの国しか想定されていなかったということ。だから、植物や虫はあそこにしか生育しない。それ以外の土地はこんなふうにひたすら無限空間が広がっていたの」
それはつまり、メス以外は不毛の地であるということで。
「なんか、全部分かった気がする。……それで、オスの人たちは、メスの国民を食糧源にしたわけか」
「ご名答」
ラサは人差し指で、空に円を描く。その顔は話の内容に比して、どこか楽しそうだ。
「でも、メスが食料を分けるとか。和解を申し入れるとかしなかったのか?」
「したよ。だけど、彼らは受け入れなかった。多分、受け入れられない理由があるのだと思う」
「そこが、この世界の問題の根幹になってそうだな……」
ぼくは少し嘘を言った。本当の問題の根幹は、属性素によって感情が一つに限定されていることだと知っていた。だから、ぼくの知るべきことは、彼らの属性素が何なのか、だ。でも、属性素の存在をまだラサに言えないでいた。それはラサを傷つけてしまうと思ったからだ。それに、属性素に関して、ラサには大きな謎がある。なぜ、ラサは怒素しか持っていないのに、さまざまな感情を手に入れたのか。実は、ぼくにとってこれが最大の謎だったりするのだ。
多分、大丈夫だろうということで、ぼくたちは無限空間の草原地帯で少し仮眠をとることにした。十時間は歩き詰めた気がする。二人、横になって並んで、夜空を眺める。大きな満月があるだけで、星は一つもない。
「なんか変な感じだな。こんなに空気がきれいなのに、星が見えないなんて」
「ほし?」
ああ、そうだった。彼女はこの世界の出身だった。そして、ここ八年は研究所暮らしだろうから、星なんか見たことないか。
「地球がある世界には、地球の外に膨大な数の、地球と同じ形のでかい石がちらばっているんだ。それを夜に地球からみると、ひとつひとつ小さい点になって光っているんだよ」
こんな説明で良いのだろうか、と思いながら言う。
「ああ、なんか本で読んだことがある。写真でしかみたことないから、どういうものかさっぱりわからなかった。……今まで行った世界には、星があったのかな……」
「どうだろうね」
夜空には何もないと思っていたから、夜空を見ることは無かった、といったところか。
長い時間、沈黙とともに闇を見つめた。隣にいるラサの方を見ることは出来なかった。この時、ぼくは強くラサを意識していた。
「セージはもといた世界が嫌いだったの?」
唐突にラサが訊いた。
「嫌いだった。なにもかもが俺に合わなかったよ。それに、あそこは複雑すぎたよ」
この世界と比較するとなおさらそう思う。
「じゃあさ、この世界と比べるなら、どっちがまし?」
その質問は無茶苦茶難しいな。内心、苦笑した。でも……。
思いついてしまった。これは案外良いのではないか。心の中で、勝手に盛り上がる。言ってみるべきか? いや、流石に早いか。でも、今を逃すとぼくの場合、引きずるだろう。よし、言おう。
「うーん。正直、どっちもどっちだなあ。……でも、俺はこの世界――ラサのいるこの世界の方が好きかな」
ここまで言ってしまったら、あとは勢いに任せるだけだ。ラサはえ、と戸惑いの声を上げている。
「ラサ……。俺は君のことが大好きだ。愛している」
――言った!! ラサからはっと息が漏れる声がする。そして、げほげほと咽た。
「も、もう! 急に何言うの!? げほげほ。びっくりして、げほ、咽ちゃったじゃない! げほげほ」
「えっと、ごめん……」
ぼくはしゅんとしてしまった。ああ、間違えた。そう思った。しかし、
「ありがとう……。わたし、うれしい。今までの人生で、さっき咽た時が一番うれしかった!!」
彼女の本当にうれしそうな声だけが耳に響く。どんな顔をしているのだろうか。知りたい。見たい。でも、恥ずかしい。
「へ、へえ。じゃあ、今、ちゃくちゃくとピークを過ぎてるってこと?」
ぼくは恥ずかしさを紛らわせるために冗談を言う。
「さあ、どうかな? ふふ。じゃあさ、そのピークを更新させてよ」
ラサは楽しそうに言う。
「え、いま?」
「うん。いま!」
あ、そうですか。じゃあ、ぼくは獣になりますよ。というのは冗談だ。でも、ぼくは起き上がっていた。そこで初めて、月明かりに照らされるラサの顔を見た。仰向けに夜空を見つめる、その瞳が雫できらりと光った。潤んだ瞳。滑らかな唇。ぼくは仰向けのままにぼくを見つめる彼女に優しく覆いかぶさった。
そして、キスをした。優しく。彼女の心を感じるように。ぼくは初めて、ラサの赤い髪を撫でた。女の子の髪はこんなにもさらさらしているのか。新しい驚きだった。
ぼくは変態なのだろうか、ラサの髪の匂いをかいだ。よくこういう時に、シャンプーの匂いがしたという描写を本の中で見た。でも、ラサの髪は、人の匂いがした。香るという表現は決して相応しくない。汗とかの分泌物が混ざった、どこまでも人間的な匂い。
ぼくはその匂いに虜になった。これは麻薬だ。ぼくはラサの髪の匂いを貪った。
「や、セージ。かがないで! もう! なにやってるの」
ラサの怒る声。でも、ぼくは止めない。そんなのお構いなし、彼女の髪から、耳、首筋、腋、下へ下へと匂いを貪った。汗と肌本来の匂いをかぎ分けらるようになってきた。ぼくを変態と罵ってくれてもかまわない。その代わり、ずっとラサを貪っていたい、そう切に思った。
愛おしすぎて、気が狂ってしまいそうだった。そして、ぼくの奇行をラサは全く拒まなかった。すべてを受け入れてくれた。
翌朝、ぼくが恥ずかしさで死にそうになったことは言うまでもない。
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