第16話 世界の秘密
ぼくは人の心を知りたいと願った。それは、どれだけ考えても答えが見つからない自らの心を知るために必要なことだと考えたからだ。
唯脳論という、脳イコール心とする主張がある。心の所在をすべて脳内で分泌される神経伝達物質に拠るものとする考えである。それは心を実体のあるものとして見なすということだ。確かにこの主張は、心イコール心臓(ハート)とする古典的で空想的な前提より遥かに理に適っていると言える。
しかし、ぼくは唯脳論では納得できないのだ。もしそれが真実だというのなら、人の意志というものは非常に矮小なものとして扱われるのではないか。ぼくが変わりたいと思いつつも変われなかったのも、変わろうとして変われたのも全て、脳のはたらきなのだろうか。そうだというのなら、ぼくはひどく落胆するだろう。そんなしょぼいもののために変わったんじゃない。ぼくは自分の脳を満足させるために頑張るんじゃない。ぼくは「ぼくという世界」の為に頑張るんだ。そして、その「ぼくの世界」は脳の中には存在しない。ぼくを取り巻く世界とともに、並行して存在しているもうひとつの世界なのだ。ぼく自信が、自らの目を通し、耳を通し、鼻を通し、口を通し、肌を通し、脳を一時的に通して知覚される、確かに存在する世界。それは人それぞれ違っている。それは、個人の経験や感情によって大きく歪むこともあるし、ほかの誰よりも、「なにか」を異常なまでに大切に感じるかもしれない。
――それが心だ。心とは自らの生きる世界そのものだ。
ぼくたちの旅は
ぼくの心はとても満ち足りていたよ。美しくて、はかなくて、それでもぼくは自分の心のために頑張ろうと思えたよ。それもこれも君のおかげだ。
ぼくの記憶は再び
ここからぼくたちの運命は激動した。
ラサにリツィを預けて、ぼくは一人、王城――あるいは王宮へと赴いた。ジョイルに連れられて、王室へと至る。緊張感のかけらもない雰囲気に自然と気が緩んでしまう。
扉が開かれた。ジョイルが良く通る声で、
「ゴラべイオンさん。こちらのセージが話があるみたいっすよ。聞いてやってください」
フランクに声を掛けた。ぼくは内心ひやひやして仕方がなかった。この世界やっぱりおかしい。
古の哲学者然とした、屈強な体つきの大男が立ち上がった――立ち上がったことで、ゴラべイオン氏の体躯の巨大さに気づいた。ぼくの顔を真っすぐ見つめる、その顔は彫りが深く、厳めしい。それには必然的に圧倒されてしまう。横顔だけ見ると、ハンサムに見えたが、こうして、真正面から対峙するとはるかに厳かな風貌をしている。そんな彼が口を開く。
「ほう。お前は確か、ヨス国から来たという者か。……ふん。そんな国が存在されては俺としてはたまったものではないがな」
吐き捨てるように言ったその言葉から強い覇気を感じる。
「はい、そうです。今日は、この世界の秘密について伺いたいことがあって、ゴラべイオン氏を訪ねさせていただきました」
ぼくは敢えて異国風の情緒を漂わせるために、がっつり敬語を選んで使った。
――この世界の住民は、何らかのシステムによって、ぼくの言語を認識できるようだった。あるいは、ぼくがモナド語を喋ることが出来るようなシステムがあるのかもしれない。はっきりしたことを言えなくて申し訳ない。ぼくにはわからないことが多すぎた。今となっては知る由もないのだ。
とりあえず単刀直入に本題を切り出した。それがこの世界の流儀だ。
「その変わった言葉遣い、よそ者であることは間違いなさそうだな。――王よ、少しこの者と話をしてみても良いか」
そう言うと、ゴラべイオン氏は黙って様子を見守っていたレシグ王に意見を求めた。レシグ王は多くは語らず、
「うむ。良かろう」
とだけ言った。
「そこに座るがよい。青年よ」
ゴラべイオン氏は大きな平板の傍にある椅子へぼくを促した。
「じゃあ、俺は訓練に戻りますね」
ジョイルが退室した。空気が一気に重々しくなる。
「それでは失礼します」
「……世界の秘密と言ったか。それはどういったことを指している?」
「主にこの世界に住む人々の心について、です」
「心か。それが明確に何を指し示すのか、お前は説明できるのか?」
ゴラべイオンの問答に言葉を詰まらせる。
「いえ……。できません。ですが、ぼくの心がどういったものか、説明することはできます」
「ほう……。言ってみよ」
ぼくはおそらく、ゴラべイオン氏が否定するであろうことを意識的に言った。
「ぼくの心は豊かです。苦しいことがあれば、顔をゆがめます。悲しいことがあれば涙を流します。楽しいことがあれば笑います。腹立たしいことがあれば声を荒げます。ふいに女の子が素敵な笑顔を見せると、その人に恋をしたりします。それ以外にもぼくの心は語りつくせない多様性を見せるみたいです。ぼく自身が理解できない程」
ぼく、という一人称を使ったのも、ぼく自信が理解できないことだった。ただ、なんとなくそれが相応しい気がした。
ぼくが話し終えると、ゴラべイオン氏がふっと笑った。――断言する。これは作り笑いだ。
「どうやらお前は、虚偽を吐くという属性のようだな。真剣に話を聞いた私が愚かだったようだ」
ぼくは彼の言った、単語を耳ざとく拾った。
「属性と言いましたか。ああ、なるほど。この世界では属性というんですね。ははは、それは言い得て妙だ。これでわかりましたよ。さしあたり、ゴラべイオンさん、あなたの属性は『知性』と言ったところですね」
勢いで言い切った。なんだか気障ったらしい口調になったが、ゴラべイオン氏からここまで引き出すのがぼくの計画だった。後は彼からすべてを聞き出すだけだ。それがぼくの今日の目的だ。そして、彼は驚いたように眉間に克明な皺を寄せた。
「お前、ただの人間ではないな。さては不具の者か? ――いや、それはおかしいな。多くを持つものが不具なはずがあるまい」
「ぼくは至って普通の人間です。ヨス国民はみんなこんな感じですよ」
「ほう? とりあえず、その言葉を信じるとしよう。私の属性を言い当てたことに免じてな。――そう。私の属性は知性、すなわち知的好奇心だ」
「知りたいと思う心ですね」
「その通りだ。私の祖父がそのような、人間のもつ偏りを属性と呼んだ。そして、様々な属性のあり方を、この木版に記した」
ゴラべイオンが指さす、例の巨大な木版には、細かい文字が緻密に連綿と連なっている。文字、と言ったがこの世界には文字がなかったのではないかと思い至った。
ぼくはスマートグラスの外国文字変換システムを起動させた。しかし、その記号列は変換されなかった。
「なにをやっておる」
ゴラべイオン氏が鋭く詰問する。
「いえ、メガネがずれてしまって」
「めがね? ヨス国ではそんなヘンテコなものを身に着けるのか。……まあ、よい。これは私の祖父が生み出した、文字というものだ。今、これを理解できるのは、この国では私しかおらん。私には子供がおらんのでな」
成程、このスマートグラスでも、流石に識字率一パーセントにも満たない、こんな異世界の文字は翻訳できないということか。
「何と書いてあるんですか」
ぼくは慎重に尋ねる。真っすぐ、彼の目を見据えて。
「うむ。……どうやらこの世界に住む人々の『心』にはそれぞれに大きな偏りがあるようだ。私はこれを『心』と呼んだが、もっと端的に『属性』と名付けることとする。その偏りは『心』と呼ぶにはあまりにも偏りすぎている。私は『心』とはもっと豊かで遠大なものだと考えたい。ゆえに私は『心』というものの正確な定義を保留する。さて、その『属性』であるが、それは
一例を挙げ終えて、ゴラべイオン氏はぼく見る。ぼくはこの時どんな顔をしていただろうか。
「ほう、その顔。知りたいと思う者の顔をしておるな。青年よ、お前の言っていたことは真実である、と信じよう」
「そ、そうですかね。……それより、続きをお願いします」
「そう急くな」
そう言って、大きな咳払いをする。指で文字列を辿って、目的の箇所を見つけたかのように、
「ここだな。……さあ、そんな属性であるが、私はその源が何かを考えた。そして、ここに『属性素』というものの存在を提唱する。人は須らくこの『属性素』を有しておる。それは先に挙げた傾向の源となる単一の最も小さい単位だ。例えば、『怒り』の属性を持つものは『
彼は一度長い間を空けた。ぼくはただ彼の言葉を待ち続ける。
「我々は等しく一つの属性素を持っている。しかし、それぞれが有する属性素は人によって異なる。この属性素は次の三つの特徴を持っているようである。一つ目に、それは人の成長とともに、属性素もまた成長するということ。二つ目に、これは稀有なことではあるが、属性素は分裂することがあるということ。三つ目に、属性素は世界中に散らばる、それぞれに対応する受容体と結びつくことで、人の『心』に影響を与えるということ。この中で、私がとりわけ注目するのが、三つ目の特徴である。これは、『心』というものの謎を解き明かすうえで、重要な要因になると考えられる。しかしながら、これらは全て仮説の域を出ない。なぜならば、それを確かめる術がないからである。人の内面的な問題は、最も難しいもののひとつである。……祖父はそう締めくくって、この議論を終わらせている」
この国唯一の学者の家系というだけあってか、その内容はかなり深い洞察が成されているようだった。ゴラべイオン氏の祖父のこれらの仮説は確かに実証性がないが、この世界の人々の心の在り方を適切に説明しているものだ。一定の信ぴょう性があると言ってもよいだろう。
属性素というものの存在が、この世界の人々の単純な感情を生み出している。
そして、これはぼくだけが知っていることだが、この仕組みを作ったのは、アダム所長であるということだ。単純な世界を作るために、人々の心に意図的に
「なるほど、ある程度のことはわかりました。今度はこちらから一つ話をさせてください」
「聞こう」
「フィユリアを知っていますね。赤い髪の女の子です。先日、彼女の祖母が亡くなりました。その人は生前、自我を失ったように暴走し、ぼくたちを攻撃してきました。フィユリアは、八年前の祖母は穏やかな人だったと語りました。ぼくは、そんな穏やかだった人が急変したことには、その属性素というものと何らかの関係があるのではないかと思うですが、ゴラべイオンさんはこのことに関して何か考えがおありでしょうか」
ぼくが自らの意見をこれほど整然と言葉にできたのは初めてだった。
「聡いな、青年。その現象はかつてからこの国で稀に見られたものだ。それは個人のもつ属性素が何らかの理由で肥大化し、彼、彼女が統御できないまでに暴走することで起こると考えられている。そうなると、個人は自我を失い狂人化し、死に至る。彼女の祖母の過去に、何か属性素が暴走する原因となった出来事があったのではないか」
「はい。彼女の娘が連れ去られたことが原因だと考えられますね。
学者と話しているということで、自然と言葉が固くなってしまう。使ったこともないような言葉が、すらすら出てくる。
「うむ。それが原因だろうな。たしか、あの家系の属性素は『怒素』だったはずだ。彼女はその属性素を扱いきれないまでに肥大化させたということだろうな」
それは、相当苦しかったのではなかろうか。ぼくは思った。娘と孫を同時に失い、孤独の中で、怒りばかりが蓄積してゆき、終にはその怒りに飲まれて死んでしまった。それが先日の事件の真相なのだろう。
ぼくはいたたまれない気持ちを抑えつつ、
「家系というのはどういうことですか?」
尋ねた。
「属性素は子供に引き継がれるのだよ。怒素を持つ子は怒素を持つ」
「成程。……つまり、フィユリアも怒素を持っているということですね」
「その通りだ。そして、お前の言葉を信じれば、お前はあらゆる属性素を有しているいることになる。それは非常に興味深いものだな」
「まあ、そうなりますね。実際ぼくは自分の心に関しては全くわからないです」
「青年。私は初めて、こうして知りたいと思う者と議論をした。それは私の知的欲求をさらに高めることになった。……感謝する」
「いえ、ぼくもゴラべイオンさんの話を聞けてよかったです」
「して、私に大きな疑問が降ってわいたのだ。それを最後に聞いてよいだろうか」
彼はいつしか、ぼくのことを畏怖の視線でもって見つめているような気がした。語調も当初より柔和になっている。そして、彼はぼくに尋ねた
「お前は一体何者なんだ」
その質問はぼく自身が一番答えを知りたいものだった。だから、ぼくは何も答えられず、ただ沈黙していた。
ジョイルの切迫した声が沈黙を切り裂いた。
「敵襲だ!!」
ぼくたちが急いで外に出ると、オスの者と思われる大群が、はるか遠方、
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます