第14話 本当の出会い
セレーネおばあさんは見知らぬ男であったぼくを、娘を殺した
「なあ、ラサのおばあさんは昔はあんなんじゃなかったんだろう」
「うん。むしろ、いつも穏やかだったくらい」
「そうか。じゃあ、あのぼくに対する殺意の高さは何だったんだろう」
「わたしにも説明できない……。それに、メス国民は絶対に人を殺そうとはしないはずなのに」
ラサは眉間にしわを寄せながら、深く考え込んでいる様子だ。ぼくは、ふと思うことがあった。
「そういえば、オス国を作った人も、当時の王を殺したんだよな。それと何か関係があったりしないのか」
そう言ってみると、ラサはわずかに驚いたような表情を見せ、たちまち翳りを見せた。
「おばあちゃんをそんな奴と一緒にしないで……」
その力ない声には、確かな怒気が含まれていて、ぼくは気後れしてしまう。
「いや、ご、ごめん。……そういえば、昼にこういうことがたまにあったとか言ってなかったか」
すかさず話題をそらす。できるだけラサを怒らせたくない。
「ああ、うん。子供のころの記憶だから曖昧なんだけどね、それまで至って普通だった人が、突如として、おかしくなっちゃうことがあったの。そんなにしょっちゅうあったわけじゃなくて、むしろ、わたしも実際に見たことは無かった」
「つまり、その珍しいケースが偶然にもラサのおばあさんだったわけか」
ぼくはそうは言ったが、本当に偶然なのだろうか、と自らの言葉を疑った。ラサの言葉を待つ。……しかし、彼女は深く考え込んでいて、ずっとうつむいている。囲炉裏の火にわずかに照らされる、彼女の真っ赤な髪が一瞬、どす黒い血のように見えて、ぎくりとする。そういえば、セレーネおばあさんの髪も同じような赤だったな、と思う。よく考えてみれば、ラサはおばあさんの特徴をかなり多く遺伝しているような気がする。
そんなことを考えていたら、ラサが重い口を開いた。
「ひょっとすると、ゴラべイオンさんが何か知っているかも……」
ぼくはそのごつい響きの名前を聞いて、ひそかに驚いた。その名を今、ここで耳にするとは思わなかったし、あまりにも不自然に響いたからだ。あの男が? ぼくは訝った。ぼくの彼への印象は頭のおかしいイケメンのおっさん、あるいは、タレス。
「あの人が?」
ぼくは精一杯の疑問の意を表明する。
「彼はこの国で唯一の学者なの。ほかの人たち――それはかつてのわたしもそうなんだけど、どうしてか、学びに対する意欲が全くと言っていいほど無いみたいなの」
「たしかにこの国には学校すらないな。俺もそれは変に思ったんだ。……それってさ、この国を作った所長が、学びというものが、人間には必要ないと思ったってことなのかな」
ぼくは一歩踏み込んだことを言ってみる。この世界は人間社会の最小限の姿をしているはずだ。極限まで単純化された世界。それがこの世界の「モチーフ」であることは、すでに国内の様子を見て回って、ある程度裏付けてきたつもりだ。だから、何らかの教育施設のようなものがあってしかるべきではないか。それはぼくにとって、大きな違和感となっていた。
しかし、この時のぼくは「学び」ということの本質を理解していなかった。
「それはどうだろう……。おじいさまが学びそのものを軽視しているとは思えないし。むしろ、彼のあらゆる行動の原動力は学びであると言っても良いくらい」
「そうなのか? 所長の目的は、世界の救済じゃなかったっけ」
「それは大義名分。自分の好きなように研究するためのね」
ラサはそう言い切る。これってぼくが聞いちゃっていいのだろうか。というか、そんな大事なことをぼくに言うということは、それなりに信頼してくれているということか。
「えっと、つまり所長は世界の救済を謳ってるけど、本当の目的はこの研究そのものにあるってことか」
「そうだよ。わたしはこの八年間、誰よりも多くおじいさまと時間を共にした。その中でわたしは多くのことを彼から学んだ。この世界で育ったわたしはあまりにも無知で、どうしようもないくらいこの世界の住人だった……」
三角座りをしていた彼女は、そのきれいな膝に華奢な白い腕を重ね、互いの腕を握りしめた。寒さをこらえる時にするその仕草は、もちろん寒さゆえではないだろう。
囲炉裏の火にぼんやり浮かび上がる、ラサという一人の女の子の輪郭をぼくは不思議な気分で見つめる。
ふいにぼくは急激に冷めた気分になって、それと当時に現実味が消えうせた。こういうことがたまにあった。ぼくは自分が「らしくない」ことをしていると突然、冷静になって、自分という存在を少し高いところから俯瞰しているような、眩みを感じるのだ。俺は一体何をしているんだろう。ぼくは何の前触れもなく訪れる、こういう猛烈な「冷め」が怖かった。その時、ぼくは自分という存在を疑ってしまうのだ。俺は何のために存在しているんだろうか……。
ぼくは首を横にぶんと振ってその眩みを打ち消す。さっきまでとは変わってしまった心境で、会話を再開させる。
「前から思ってたんだけどさ、ラサはどうして所長をおじいさまって呼ぶんだ?」
それは最初からなんとなく感じていた疑問。しかし、この世界にやってきて、だんだん強くなってきた疑問だ。
「おじいさまは恩人なんだよ。無限空間で
「へえ、そうなのか。……というか、無限空間で彷徨ってたってどういうこと?」
ぼくがそう尋ねると、ラサはどこか諦めたような表情になる。そして、
「ああ、もう、どうしてかなあ。セージがあまりにも無害そうに見えるからか、つい余計なことばっかりしゃべっちゃう。――ああ、もう! この際、言っちゃうか!」
と、何やら吹っ切れたような様子である。それにしてもぼくが無害とはどういうことだ。その言葉は時として男を傷つけるぞ、と心の中で不平を言う。少なくともこの世界で、ぼくが無害でいられるのは、ラサのせいなんだけど……。
「わたしね……、お母さんを助けるためにひとりでオスにいったんだ。丁度、オスが襲撃に来た時、わたしはラーンたちの家に泊まってたの。後でジョイルのお父さんから、君のお母さんが連れ去られてしまった、と聞いてわたしは考えるより先に走ってた。あの気が遠くなるくらい長い道を無我夢中で走ったのを今でも覚えてる……」
ラサの――いや、フィユリアという一人の女の子の――過去がつまびらかにされようとしている。ぼくは進んで人の内面世界には入っていこうとしない
ラサは言葉を休めていた。なにかを必死に思い出そうとしている様子だ。
「それから、どうしたんだ? オスで何があって、ラサは無限空間?――そこをさまようことになったんだ」
無限空間というのは多分、あの広大な草原地帯の事だろうと、一人で合点する。無限というからには、それは言葉通り果てしないのだろう。どうでもいいことだが、ぼくは無限とか、永久とかいう言葉が嫌いだ。……本当にどうでもいいことだ。
ラサは一層困ったように眉間にしわを寄せる。
「思い出せない……。そこから先のことが思い出せない……。無現空間をさまよってたっていうのも後からおじいさまから聞いたことだから……」
「そうなのか……。まあ、無理に言わなくていいよ」
「うん……。それに思い出そうとする、なんだか、胸がぎゅっと締め付けられるような気がするの」
両手を胸の上で重ねながら、厳しい表情を浮かべる。
「辛いなら無理に思い出そうとしなくていいんじゃないか。きっとそのうち思い出すよ」
「そうだね。……セージって何気に気が利いたことも言えるんだね」
「言っとくけど、俺は
ぼくは調子に乗ってぬかした。ラサが本音を語ってくれたことで、ぼくも少しは誠意を見せようと思った。
「なんとなく知ってる。セージはそういう人だよね。ぶっきらぼうだけど、わたしの話は真剣に聞いてくれるし、決して他者を邪険に扱ったりしない。それって結構出来ない人多いからね」
「いや、そこまで言われると流石に照れるな。俺ってそんな風に見られてたのか」
「ううん。多分、ほかの人からしたら、セージの印象は相当悪いよ。何言っても反応薄いし、自分の思ったことも言わないし。ただわたしが変わってるの」
「う、そうか……。変わってるって?」
「その人の本質を探ろうとするんだ。何のためだと思う?」
唐突にラサはぼくにたずねる。いたずらっぽい含み笑いでもって。
「え? なんだろう。さっき言ってた、学びの一環かな」
「うーん、半分正解って感じかな。問題は、何を学ぶためかってことだね」
「……自分……かな?
ぼくはあて推量する。すると、ラサは驚いたように口を開ける。
「そう! 正解だよ。セージ、なかなかやるね」
そこまで言って、彼女は真剣な面持ちになる。
「わたしはおじいさまからいろんなことを学んだ。そして、そのうちにわたしは自らの意思で様々なことを学ぶようになった。科学や語学、心理学、機械工学、歴史学、ほかにも語り尽くせないくらいのこともね。いつしかわたしは、研究所で天才と呼ばれるようになった。けど、学ぼうとしても学べないものがあったの」
そこまで言って、ラサの視線がぼくにまっすぐ向けられる。全てをさらけ出したかのような彼女の視線は、ぼくの心に鋭く突き刺さるような気がした。どうして、この娘はこんなに真っすぐなんだ。多くのことを学んだというのに、自らの芯を全く曲げていない。ぼくなんて、何かを知るたびに、心がぐねぐね曲がって、曲がりすぎて自分ではどうにもできない状態だというのに。
わずかな沈黙の後にラサは重々しく、
「わたしは自分の心がわからない。わたしは人というものが等しく人の死を悲しむと知ったとき、そんなはずはないと強く否定した。だって、わたし自身が人の死を悲しめないから。そもそも、悲しいということがわからない。だけど……それが事実だ。真理だと他の人は断言するし、だれも疑わないし、どんな書物もまるで、記す必要すらない当然の事実として扱っているし! わたしがそれに反論すると、わたしを変な奴だという風に見るし! そうなると、もう何を信じたらいいのかわからなくて……他者も、自分自身も信じられなくなて……。気付いたらね、わたしの周りには人がいなくなってた」
ラサのその言葉は、はじめ穏やかなものだったが、いつしか高ぶっていき、最後には、また自信なさげなつぶやきへと変化していた。その気性の乱高下にぼくはヒステリーのようなものを感じ取ったが、それともどことなく違う気がした。
それにしても、ラサがここまで思いつめているとは思わなかった。普段のラサの立ち居振る舞いからは、想像もつかない本音にぼくはたじろいでいた。そうか、彼女は素ではまともでいられなかったから、馬鹿っぽいけど実は天才な憎めない女の子を演じようとしていたのか、とぼくはまた勝手に
ぼくがかけられる言葉はなんだろうか。あらゆる点でラサよりもはるかに劣ったぼくがかけられる言葉など存在するのだろうか。いや、これは既に理性の問題ではないのかもしれない。気持ちと気持ちのぶつかり合いに、気の利いた言葉など何の慰めにもならないのではないか。足りないコミュ力を総動員してその結論を導き出す。いまこそ、ぼく自身が殻を破る時だ。これまでぼくは自分の心を隠すことで、傷付かないように逃げていた。だけど、それでぼくの人生は豊かなものになっただろうか。そんなことは全くなかっただろう。むしろ、心の翳りは深まるばかりで、表情は暗く、言葉は薄く、人生は退屈なものになってしまったではないか。しかし、それで満足していたのも他ならぬぼくだ。それでいいんだ、と満足した気になっていたが、強がり以上の何物でも無かったのではないか。いや、そうだ。その証拠に、ぼくの心はつねにはち切れそうだったではないか。伝えたい。俺の思ったことを聞いてくれよ。一人で読書をするのも、思考遊びをするのにも飽きたんだよ。誰か俺の話を聞いてくれよ。そんな気持ちが心の中を満たしていた。そして、その気持ちが爆発しないように抑え込んでもいた。
ぼくは心を爆発させた。もちろん自らの意思で。陳腐だとか、臭いだとかの意見は一切受け付けない。これがぼくのひねり出した最適解なのだから。
ぼくは精一杯の笑顔を作った。ラサの話を聞いて、彼女を励ましてやりたいと心の底から思ったのだから、たやすいことだった。突然のぼくの笑顔に――とても不気味だったかもしれない――驚いたような様子を見せる。多分、ぼくが恐れていたのはこれだった。他者の反応。心を覗かれているという浮遊感。だけど、もうそんなのは気にしない。努めて、明るい口調でもってありのままの本心を口から吐き出す。
「ラサは凄いな! 辛い目にあったはずなのに、
そこまで無我夢中で言って、ふとラサの顔を窺うと、彼女は、真顔で――まさしく無の境地と言った様子で――ぼくを一心に見つめていた。ぼくは急激に恥ずかしくなって、顔面が熱くなるのを感じた。多分、見るに堪えないほど、赤く染まっていることだろう。自分が何を言ったかほとんど忘れてしまったけど、勢いに任せて、恥ずかしすぎることをああも、堂々と言ってしまうなんて。ぼくのどこに眠っていたんだよ、この情動は。
ぼくはそれ以上言葉を発することが出来ずに、気まずさに耐えながらうつむいていた。そして、ふと顔を上げ、ラサの顔を窺ってみると、
――彼女は涙を流していた。
「ラサ? どうしたんだ?」
「あれ? わからない……」
そういって、彼女は細い人差し指で、優しく自らの頬を撫でた。涙が人差し指を伝い、しずくとなって床に滴り落ちるのが見えた。
「……これが……なみだ? もしかしてわたし今泣いてるの?」
「えっと、うん。そうだね」
何を言っているのだろうと思った。
「わたしが……泣いてる!? わたしが泣いてるなんて、そんなはずないのに!」
ラサの涙は、より大粒になってゆき、しゃくり声を上げながらそう吐き出した。
「そんなはず……ない?」
「わたし、泣いたことがないの。泣くってこういうことなんだ……」
ラサは泣いたことがない?
「泣いたことがない?」
「うん。ない。ああ、わたし、泣いてるんだ」
ラサはすすり泣きながらいう。ぼくは何がなんだかわからなかった。ぼくが熱く本心を語って、彼女の心にいかなる変化が起こったというのか。ぼくは戸惑いを禁じえなかった。ぼくはとりあえず、思ったことを言った。
「えっと、今どんな気持ち?」
「え? えっとね、多分これはあれだと思う」
ラサは尚もすすりながら、こう続けた。
「うれしい」
ラサが満面の笑みでもってそう答えた。
――まさかのうれし泣き!? そんなことより、初めて見るラサの姿だった。いつも怒ってばかりだった、彼女にこんな顔があったのか。
「あれ、もしかしてわたし今、笑ってた?」
やっと、落ち着いてきた彼女がそう言う。
「それはもう、とびっきりの笑顔だった」
気障に言ってやった。ぼくの心にはすでに壁はなかったから、すんなり出た言葉だった。
「そう……なんだ。今日のわたし、なんか変だ。泣いたのも笑ったのも今日が初めてなんだよ!?」
「笑うのは初めてじゃ無くないか」
ラサは確かに時折笑っていたはずだ。ここまでの笑顔は見たことがなかったけど。
「あれは全部作り笑いだよ。形だけ笑い方を勉強しただけ。不思議で仕方なかった、なんでこんな風に顔をゆがめることが、楽しいことを表しているんだろうって。まあ、そもそも、その楽しいがわからなかったんだけどね」
そう言われてしまうと、今までの彼女とのコミュニケーションはつくづく上っ面のものだったのだと、思い知らされる。まあ、これからだ。ぼくたちはスタート地点に立ったに過ぎない。
これがぼくとラサの二人の本当の出会いだった。
「セージ。わたし今、とっても変な気分だよ。なんだか、心があったかくて、優しくて、それがどんどん広がっていく感じ。……こんなの初めてだ」
興奮したような口調で言う。たしかに、こんなラサは初めて見る。たかだか、数か月間の付き合いではあるけれど、彼女の中の何かが確かに変化したように見える。
とはいえ、変化したのは彼女だけではない。心をぶつけ合うことで、ぼく自身も変わったはずだ。だって、こんなことも言えるのだから。
「ラサ、それはきっと、恋だよ」
それを聞いたラサは、突如、真顔に戻って、
「それはない!」
と言い切った! ぼくの心は大ダメージを負ったが、そんなぼくの様子をみた、ラサが声を上げて笑ったの見て思った。
ぼくは何をやっていたんだろうな、と。
何に悩んでいたんだろうな、と。
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