第13話 リーサルレイジ
振りかざされた手斧の軌跡に全神経を集中させた。訓練で反射神経を鍛えたおかげげで、その一撃を辛うじて避けることが出来た。ぼくは数歩後ずさり、老婆一瞥をくれてやる。灼熱のごとき赤い髪が強い印象を与える。老婆はぼくに向かって刺すような視線を向ける。その目には、人ならざる者の持つ野性の殺意が宿っていた。
第二撃がぼくに襲おうとしていた。老婆は獣のような咆哮を上げており、それはほとんど言葉を成していなかった。
「グアアアアア!」
突然の襲撃に、ぼくは自分の身に何が起きているのか理解が出来なかった。ただ、逃げなければならない、ということだけを本能が訴えかけてくる。しかし、ぼくの体は恐怖で思うように動かなかった。その時ラサが叫んだ。
「おばあちゃん、止めて!!」
――この老婆はラサの祖母だというのか。確かに髪の色が同じだ。
しかし、老婆はラサの声が全く聞こえないという風に、唸り声を漏らしている。ぼくは、なんとか老婆の攻撃をよける。見た目にそぐわない俊敏さにぼくは戸惑いを隠せない。
「わたしよ、セレーネおばあちゃん。フィユリアよ! お願い。武器を捨てて!」
老婆はフィユリアという名前にわずかに反応して、ラサを見やった。だが、それもほんの一瞬だけだった。すぐに、ぼくに視線を戻す。耳をつんざくような咆哮。そして、人の言葉を話した。
「アアアア!! オノレェェ! ムスメヲカエセー!」
「な、何のことだ!?」
ぼくは普段出さない大声で応えた。恐怖に染まるぼくの声を、老婆の獣の如き狂気の怒声が圧倒する。
「トボケルンデネー! オマンノシワザジャロウガ!!」
「だから、俺が何をしたっていうんだ!?」
ぼくは精一杯の声を老婆にぶつける。しかし、その声は獰猛な野獣の如き形相の老婆には一切届いていないように見えた。
ぼくはラサに助けを求めるために、彼女に視線を送った。しかし、当の彼女はひどく困惑している様子だった。ラサは半ば茫然自失しているように見える。
おいおい! こんな時にどうしてぼうっと突っ立っているんだ! 凄腕の調査員じゃなかったのか。お願いだから、助けてくれよ。ぼくは切実にそう思った。
しかし、ラサはぼく以上に身動きを取れそうもないといった有様だった。老婆の連撃の隙を縫って、ぼくはラサのもとに駆け寄り、彼女の腕をつかんだ。そこで、ようやっと、彼女は正気に戻ったようにはっとしてぱちぱち瞬きをした。ぼくはそんなことなど気にもせず、彼女の手を引き、全力で駆け出した。
――その老婆は思いのほか俊足だった。追いつかれることは無さそうだが、こんな平坦な土地で追いかけっこをし続けても埒が明かない。どちらの体力が先に尽きるかの問題になってくる。
生憎にも、周囲にはほかに通行人はいなかった。だから、助けを求めることもできない。ジョイルに助けを求めるべきか。……だめだ、下手をすれば、リツィに危害が及んでしまう。
「ラサ、どうしたらいいんだ。あの人は一体なんなんだよ!?」
「わたしもわからない!!」
ラサの声には猛烈な怒気が含まれていた。彼女は、心の底から困惑しているように見えた。
――そうだ、ストロングマンがあった。ボンさんがぼくに勧めた武器だ。これは人を殺さないで、確実に敵の身動きを封じることが出来るという光線銃の一種だ。平和な世界で暮らす人間は、危険な状況に陥っても、武器を使うという発想が咄嗟には浮かばないのだということを今、初めて知った。
たしか、スマートグラスで照準を合わせることができたはず。初めてだけど、やってみるほか無さそうである。
ぼくはポーチに仕込んであった、ストロングマン――見た目はありきたりなハンドガンそのものである――を右手に握り、急停止した。そして、スマートグラスを起動した。たちまち視界が暗くなり、全体に同心円が出現する。ターゲットである老婆が赤いシルエットで浮き上がっている。これで、格段に対象との距離や位置関係が確かなものになった。光線銃だから撃ち損じをすることはないが、ともすれば罪のない人を傷つけてしまうかもしれない。ぼくは焦りを感じながらも慎重に狙いを定めた。
――そして、トリガーを引いた。
スマートグラス越しに、赤い光線が一直線に老婆のもとへ走っている。それは寸分違わず、老婆の顔面にヒットしていた。やはりぼくにはこの手の才能があったのかもしれない。……全く喜べないのだけれど。
強烈な光線を直に食らった、暴走する老婆はひとたび言葉にならない呻きを吐き出し、困惑とともにその場に屈みこんだ。ボンさんの説明では、ファザーガンは一時的に対象の視力を奪うらしい。正にその場しのぎだ。しかし、一時的にでも、視界を奪えればそれでよい。ぼくはラサの手を引き、その場を急いで離れようとした。
ラサはぼくの手を軽く振りほどいて、老婆のもとへ駆け寄った。
「お、おい……」
多分、すでに老婆は危険な存在ではないのだろうが、ぼくはあきれて言葉が続かなかった。……おばあちゃんって言っていたな。仕方がなく、ぼくは恐る恐る老婆のもとへ歩み寄る。ラサはうずくまる老婆にしきりに声を掛けている。
「ねえ、おばあちゃん。わたしだよ。フィユリアだよ。一体どうしちゃったの」
「ウソヲツクンデネエ!! ムスメモ! マゴモ! オメェラガコロシタデネエカァァァ」
「違う! おばあちゃん、わたしは殺されてないよ!! ここにちゃんといる」
「ウソジャァ! アノコハ、ワシヲ、ヒトリボッチニ、シテオクヨウナ、ヒドイコジャナイ! ダカラ、コロサレタンジャ。……オマエラニナァ!!」
理性を失ったような感情のない――いや、「怒り」だけはそこにあったが――声が、とぎれとぎれに吐き出される。そして、
「あぶなッ!」
そこまで声が出た時、カンッという鋭い音ともに、ラサの右脚が高く蹴り上げられていた。――老婆の手には、何もない。
ぼくは上空を見上げた。それは、真上方向にすさまじい勢いで回転しながら吹っ飛んでいた。ラサの中国武術の蹴りがクリーンヒットしていたのだった。あまりの速さにその一連の動きを目で追うことが出来なかった。そして、ラサは何が起こったのか理解できていない老婆を抱きかかえ起こし、こちらの方へ急いで避難させた。
数秒後、尚も高速で回転を続けていた斧が、老婆のいた位置に勢いよく突き刺さった。ドスッという、おぞましい音に若干身が縮こまる。
ぼくはラサの履いている右脚のブーツをちらりと見た。鋭い石の斧と激しくかち合った痕跡が見られた。足は平気だろうか。
「ラサ、足大丈夫か?」
「大丈夫よ」
と言って、突き刺さった斧をその足で小突いた。硬いもの同士がぶつかり合う音がわずかに響いた。成程、そっちも相当な凶器ってわけか。
老婆は、ラサの固い抱擁のなかでも何事か呻き続けていた。ラサは穏やかな口調で、大丈夫、だとか、わたしはちゃんとここにいる、とか言って宥める。
そして、ついに老婆は静止した。
ラサが老婆の顔を見やると、驚いたような表情をした後、こちらを見てあきらめたように首を横に振った。
「……死んじゃってる」
「え? 本当なのか? でも、この銃では人は死なないんじゃなかったのか!?」
ぼくは激しく動揺する。老婆が死んだことより、老婆を殺してしまったという事実が先に、ぼくに衝撃をもたらした。
「ううん、セージが殺したんじゃないよ」
「どういうことだ?」
「実はこういうことがたまにあったの。急に人が暴れて、そのまま亡くなってしまうことが……」
「そんなことって、あり得るのか……!?」
「実際にそうなんだからそうなのよ。わたしだってわからない!」
冷静な口ぶりのようで、実は一番ラサが動揺していた。彼女は、老婆の死に顔をただひたすらに眺め続け、ぼくにこう呟いた。
「実はね、わたしも人が死んでも何も感じないんだ……」
その声は、彼女の行き場のない思いが何とか口から漏れ出たような、憂いのこもった残響をもたらした。それはまるで、人の死を悲しむことができない自らを悲しもうとするが、それでも悲しむことが出来ない、と言うような「憂い」だった。
死者の弔いは、非常に質素なものだった。遺体を燃やして、埋めるだけのものだ。
だけど、ぼくはそれが本来あるべき弔いの姿だと思った。ぼくが居た世界の弔いは、仰々しすぎる。たくさん人を呼び集めて葬式をやって、そのあとパーティをする人もいるが、ぼくはそんな葬式は望まない。本当に大切な人にだけ悲しまれて、そして、すぐに忘れてもらって、ひっそり眠っていたい。
ぼくとラサは、老婆――親しみをもってセレーネおばあさんと呼ぶことにしよう――、セレーネおばあさんの葬儀をひっそり執り行った。彼女が一人で暮らしていたという家の近くに、遺骨を埋葬した。
ぼくが目を瞑って合掌していると、隣にいたラサが、
「それは何をしているの?」
と尋ねてきた。
「ああ、これは死者の安寧をお祈りしているんだよ」
「へえ、セージの世界ではそうやるんだね。じゃあ、わたしも……」
と言って、ぼくの真似をする。
「悲しむことはできないけど、おばあちゃんが安らかに眠ってほしいっていうのは心の底から思える」
ぼくたちはセレーネおばあさん家を後にした。
本拠地に帰ってきたのは、すっかり夜が更けたころだった。高ぶっていた感情も、ある程度凪いでいた。しかし、今度は濁流のように疑問が押し寄せてきた。ラサには悪いが、いろいろと追及させてもらう。そうしないと、ぼくの気が収まらない。
ぼくたちは部屋の真ん中に据えられた囲炉裏を囲っている。この小屋にはテーブルや椅子といった家具はなく、ぼくたちは麻布の座布団に座る。普段なら晩御飯をこの囲炉裏で作っているころだ。
ぼくは意を決して、正面に座るラサに言う。
「ラサのおばあちゃんだったんだね、あの人……」
「うん……」
そう返事をするラサの表情からは、いかなる感情も読み取れない。
「そもそも、おばあちゃんはどうして俺を襲ったんだ?」
「それは多分、セージのことをオスの人だと思ったからだと思う。ほら、セージってこの国の人によそ者として見られるでしょ」
「まあ、確かにそうだな。メス国民じゃなければ、オス国民ってことか。なんとも単純だな……」
単純。それがこの国の本質であり、唯一の真理であることは、最初から知っていたことだ。
「じゃあ、次の質問だ。どうしてラサのおばあちゃんはオス国民を恨んでいたんだ?」
尋ねはしたが、ほとんどその理由は推察できていた。段階を踏んで話を進めることにした。
「セレーネおばあちゃんの娘――わたしのお母さんのことね――彼女は、オス国の襲撃の際に、連れ去られてしまったの」
「おばあちゃんが言ってた通り、連れ去られて、殺されたのか?」
ぼくがそう聞くと、ラサはなぜか沈黙した。その顔には、やるせなさや悔しさ、怒りがないまぜになった感情が窺えた。しかし、それはぼくの勝手な想像だ。くせでよくやってしまう、人の感情を勝手に推し量って、わかった気になってしまうという厄介なやつだ。ただ、この時のぼくの推量はあながち間違ってもいなかったのかもしれない。
逡巡の後、ラサは重い口を開いた。
「うん、殺されたよ……。実際に見たわけじゃないけど、それは確かだよ」
「そうなんだ……。ごめん」
深く追求して、ラサを苦しめてしまった。しかし、ここに来て、ラサの抱えていた心の闇の片鱗が垣間見えた気がした。それと課題の答えもこれで明らかになった。
「つまり、オスの人たちはメスの女子供をさらって、殺していたのか」
ぼくはそう言って、それはおかしいな、とすぐに思い至った。殺すなら、連れ去る必要はないはずだ。
「それだけならまだ救いはあったのにね……」
ラサはそんな意味深なことを呟く。
この時、ぼくの理性が警報を鳴らした。これ以上考えてはならない。これより先は人の常軌を逸した領域だ、と。あらゆる可能性がぼくの脳内に拡散したが、それは全てありえないことだった。だから、それ以上、考えるべきではない。考えたら、後戻りできなくなるぞ!
だからぼくはそれ以上考えるのを止めた。奥義、思考停止を発動させて。
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