第12話 ナッシングジョイフル

 ある日の夕刻。ぼくはいつものように買出しのために、市場を歩いていた時、ジョイルに呼び止められた。この国はとても狭いので、見知った顔によく遭遇する。

 ジョイルはぼくに頼みごとをした。近頃、オス国の襲撃に備えた鍛錬や演習が夜遅くまで続いていて、なかなか家に帰れない。だから、しばらくの間、娘のリツィを預かって面倒を見てくれないか、と。ぼくは最初の内は渋ったが、オス国の襲撃の件もある。ぼくも人の子だから、リツィが心配なのには変わりはない。

 そんなわけで、今、ぼくらの本拠地には、ラサ、ぼく、リツィの三人がいる。ぼくがリツィをここへ連れてきたのが、つい今しがたの事。


「えっと、セージ? この子はだれ? まさか、誘拐してきたの……!?」

「いや、違うって! この子は、ジョイルさんの娘のリツィっていうんだ。ほら、オス国の襲撃の件で、ジョイルさんが最近忙しくてリツィを一人にさせてしまうって。それが心配だからってぼくに面倒を見てほしいって言われたんだよ!」

あらぬ罪を被せられてたので、ぼくは必死になって弁解する。こういう時に限って、言葉が流れるように出てくるのが何とも悲しい。

「冗談だって。セージがそんなことする度胸がないのは知ってる」

そう言いながら、ラサは身をかがめて、リツィに向かって笑みを浮かべる。それに応えるように、リツィも微笑を浮かべる。

「可愛いね。リツィちゃんって言うんだ。わたしはラサよ。よろしくね」

「うん、よろしくね」

その満面の笑みで紡がれた言葉に心が洗われるような気がした。リツィはきっとこの世界の良心だ。そんな気がした。


 三人での生活が始まって、数日が経過した。リツィは父に会えないことに対して、一切の不満も漏らさなかったし、泣き言も言わなかった。それどころか、いつもにこにこしている。強い子だな、とぼくは思った。

 日が経つにつれて、国内の様子にも変化があった。至る所に看板が立てられて、いかにも悪そうな男が女をさらっているグラフィティが彫られている。この国では国民に教育が施されていないので、識字率はほとんどゼロ――そもそも文字というものが存在しているのかも怪しい。

 その看板の意図はつまりこういうことだろう。

「近く、オス国の襲撃が予想されるので、無用な外出は控えてください」

 国内の雰囲気もどことなくピリピリしていた。今後、ぼくの身にいかなる危険が降りかかるかは未知の領域だ。リツィを預かった以上、彼女を守らなくてはならない。しばらくはステスクに帰れそうにない。そもそも、ラサに聞いたところによると、ぼくたち調査員はそう易々とステスクに帰れるわけではないみたいだ。一回一回の転送には、膨大なエネルギーを消費する、というのがその理由らしい。

 ぼくは漠然とした不安に駆られながらも、どこか悠長に構えた態度で日々を送っていた。


 リツィを預かって一週間が経っただろうか、という時。オス国の襲撃はその前兆すら見せることがなく、このまま日々が過ぎていくように感じた。

 しかし、事件というものはいつも前触れなく起きるものだ。

 夜遅く、静寂を男たちの怒号が破壊した。ぼくたち三人は、その声に目が覚めた。しかし、ここは国の外れで、そう易々と見つからないはずだ。却って危険になるので、火も灯さなかった。

「ひとまず様子を見よう。大丈夫よ、リツィ」

「うん……」

ラサがしっとりとしたリツィの髪を優しく撫でるのが夜目に見えた。以外に面倒見がいいんだな。

 男たちの怒声ははっきり聞こえるものの、足音が近づいてくる気配はない。男たちはどうやら今まさに戦いの最中であるようだが、戦況はさっぱりわからない。

「ジョイルさんも戦ってるのかな」

ぼくは不安のために、ここでは言うべきではないことを口走ってしまう。

「それは多分大丈夫。彼は王のお傍付きだから、すぐには前線に送られないはずよ」

ラサは落ち着いた口調で応える。それが真実なのか、それともリツィを安心させるための気休めなの言葉なのか、わからない。

 こんな時でも落ち着き払っているリツィは本当に強い子だな、とつくづく思う。

 

 どれだけ時間が経っただろうか。小屋の隙間という隙間に朝日が差し込み始めた。男たちの怒号もすっかり静まっていた。

 ぼくたちは、外の様子を注意深く覗って、確かに誰もいないことを確かめてから、外へ出た。そして、王宮へと急いだ。


 王宮の入り口である巨大な門扉は、開け放たれたいた。ぼくたちは躊躇うことなく門をくぐった。前庭には、多数の男が犇めいていた。ざっと見まわして、大きな怪我を負っている人は見られない。ひとまず、安心した。

 ぼくの視線は無意識にジョイルを探していた。そして、それはリツィも同じだったようだ。ある一点を見定めて、

「おっとう!!」

と大きな声をあげて、そちらの方へ駆け寄った。その顔は、安心から来る微笑みに満ちていた。やっぱり、彼女も心配していたんだな。

 ぼくとラサもリツィの後を追って、ジョイルさんのもとへ歩み寄る。

「見た感じ、大きな被害はないみたいだけど状況はどんな具合?」

ラサは単刀直入に尋ねる。

「ああ、実際そんなとこさ。国の女子供もひとりもさらわれなかった。今回は多分、腕慣らしといったところだろう。人数もやけに少なかったからな」

「ということは、今度は本番がやってくるってことですか?」

ぼくは躊躇わず口を開いた。

「必ず来るな。奴らも相当、差し迫っているだろうから今度は本当の殺し合いになるだろうな」

「殺し合い……」

ぼくはその言葉を聞いて唖然とした。身近にそのようなことが起きるなんて実感が湧かない。

「俺たちは俺たちで最大限力を尽くすつもりだ。だから、どうかリツィを守り抜いてくれ」

「わかった」

「頼んだ」

ぼくとジョイルは短く言葉を交わした。しかし、その一言一言には、命の重みがのしかかっていた。ぼくと彼の間に、命というもので結ばれた絆のようなものが芽生えた気がした。


 しかしながら、待てども待てども、その時はなかなか訪れることは無かった。そうなると、自然と精神はすり減ってしまうし、ある点をピークに気持ちは緩んでいってしまうものだ。それは、ぼくだけに限った話ではないようだ。それでも、できるだけ外出は避けていた。やることといったらお喋りくらいで、それはぼくがコミュ障であることを差し引いても、花が咲いていたと言えた。

 ある時のおしゃべりが思い出される。それは夕食後の静かな安穏の時間。眠る前の安らぎのひと時。火鉢で仄かに燃える炎の、バチバチという音が時折、優しく耳に響いていた。その静寂をリツィの言葉が切り裂いた。

「ねえ、人はなんのために生きるの?」

彼女は三角座りをして、膝の上に両腕を重ねてのせ、その腕に、屈めた首の重さを預けていた。一瞬、リツィが言ったことを理解できなかった。ラサの方を窺うと、彼女も驚いた様子で、じっとリツィを見つめている。

「……どうしたの急に?」

ラサは状況を冷静に分析するような口ぶりで、慎重に言葉を紡いだ。

「ねえ、リツィ。辛いことがあったら、なんでもお姉さんに言ってね」

そんな励ましの言葉とは裏腹に、リツィは尚も不可思議なことを言う。

「――辛いってなあに? あたしは平気だよ」

 ぼくとラサは自然と顔を見合わせていた。

「なんのために生きるかって、誰かから聞いたのか?」

普通、こんな幼い子供が「何のために生きるか」という哲学的なことを独りでに考えたりはしないはずだ。誰かから吹き込まれるか、悟りでも開いていない限り。

「うん。おっとおがよく言うの。よく笑って、一日楽しかったな!って思った日に。夜になるとね、急に怖い顔になって、『ひとはなんのためにいきるんだろうな』ってぶつぶつ呟いてるの」

ぼくとラサは真剣に、リツィの言葉に耳を傾けていた。彼女は言葉の途中、「よく笑って、一日楽しかったな」の部分で実際ににっこり笑って見せた。それは年相応に無邪気で、とてもかわいらしかった。

「そうなんだ。何のために人が生きるか、かあ。俺にもさっぱりわからないよ。ラサお姉さんなら何でも知ってるから聞いてみるといいよ」

ぼくは、冗談ではあるが、優しくリツィに語り掛けた。まあ、この程度の掛け合いになら応じてくれるはずだ。

「もう、わたしだってそれはわからないって言ったじゃない……。でも、そうだね。一つ答えるなら、生きることは自分という存在を知ることかな……」

その言葉はリツィではなく、明らかにぼくに向けられたものだった。

「ラサおねえさんは自分のことを知らないの?」

リツィは純真な子供の疑問としてラサに問う。

「そうだよ。まったくわからない。だから、これから見つけるの」

「なんか、ラサらしくないことを言うな」

「うるさい! いいでしょ、わたしは確かに頭がいいけど、分からないことだってたくさんあるの。特に自分自身のことはね」

 まあ、人は誰しもそんなものなのか、とぼくはなんだか安心していた。ヒトとは悩みの尽きない生き物なのかもしれない。住む世界が違っても、悩むことは同じなんだな。ぼくは少し賢くなった気がした。

 そういえば、さっきのリツィの話を聞いて、少し引っかかる点があった。それはジョイルが笑うという点。別にここだけでは変わったことは無い。しかし、ぼくは、――それは初めて会った時から思っていたことなのだが、ジョイルがにこやかに笑う姿に少し、意外に思ったのだ。それは、ラーンとノウ姉妹のコントラストとして、際立っただけだと言われればそれまでなのだが、ぼくは確かに、この世界に来て、ジョイルとリツィの笑顔しか見たことがないのだ。――ラサは例外だが、それでも、滅多に笑わない。どちらかというと常にムスッとしている印象の方が強い。まあ、ぼくが言えた話ではないのだが。

 なんだかみんな感情が偏っているな、というのがぼくの大雑把な感想だった。

 

 その所感があながち間違っていなかったことを、翌日知ることになった。

 

 今日はジョイルが丸一日休みということなので、ぼくたち三人は、ジョイルの家を訪れた。久々の家族の触れ合いに、二人とも笑顔にあふれている。なんとも微笑ましい光景だ。

ラサとリツィが仲良く昼食の支度をしている。ぼくは必然的に、ジョイルと会話をすることになる。

「オスの人たち、来ないですね」

ぼくは話題を振った。

「それが一番いいことさ。でも、いつかは来るだろうな。今までそうだったからな」

「いつ来てもおかしくないってことか。それが一番怖いな」

「最近では、国民の皆の気も緩み始めている。この隙を狙われると被害も拡大しうるからな」

「そうですね……」

……しまった。会話を閉じてしまった。コミュ障がやりがちなことベストテンに入る行動。折角声をかけられたり、会話が弾んでも、無意識のうちに会話を締めてしまこと。ぼくは焦って、話題を絞り出した。

「そ、そういえば、ジョイルは人が何のために生きるか悩むみたいですね」

いや、その話題はないだろ。と言いながら自責した。

「ああ、リツィに聞かれてたのか。そうだな、俺はよくそのことで悩んでいる」

「どうしてですか」

違和感なく会話が進んだので、この際理由を聞いてしまおう、と考えた。

「少し長くなるぞ」

「構いません」

「ならば。……俺には十六の時に結婚した女がいた。幼馴染だったのさ。気付いたらそこにいた。そして、気づいたら子供が出来ていた。そして、リツィが生まれた。その時な、俺は生きていて良かったって心の底から思った。リツィの成長を、彼女と見守ることにもこの上ない心の高まりを感じていた。毎日が幸せだった……」

ジョイルはまるで遠い過去を望遠鏡で覗くように、目を細めて、ただ一点を見据えて語り続けた。

「だが、ある時、彼女が病気で死んだんだ。その時俺の心はただひたすらに無だったのさ。彼女の死になにも心が動かされなかった。リツィが生まれた時には、あんなに心が躍ったのに、彼女が死んで何も思わないなんてありえない。俺はそう思った。だけど、何も思えなかった。それが原因だよ。人が生まれるときにはあんなに心が動いたのに、人が死んだときには、俺は無関心でしかいられないんだ。そうするとさ、俺は自分の死も同様に無関心に扱われるということに思い至った」

そこでジョイルは一旦、言葉を切る。そして、

「それからさ、俺は心がすこぶる躍った日の夜に、一日を振り返ると、急激な無に襲われるようになった。この心の踊りは、彼女の死と同じように無の中へ消えていくんだってね」

と言葉を結んだ。多分これが彼の全てなのだろう。ぼくは彼の思いには到底応えられそうになかった。彼の悩みは到底理解できるものではなかった。


 今日一日だけは、家族水入らずで過ごすということで、ぼくとラサは、翌朝、リツィを引き取るに来ることを約束して、ジョイル家を後にした。

 ぼくの脳内は、ジョイルの思いで支配されていた。帰路を辿る足取りは不確かでおぼつかなかった。辛うじて、隣を歩むラサの姿を視界の隅に捉えている程度だった。

 多分、ラサにもジョイルの話が聞こえていたと思う。ラサは彼の言葉に何を思ったのだろうか、と思いラサに声を掛けようとしたその瞬間。

 ラサの怒声が響いた。

「セージ、危ない!!」

 ぼくのすぐ近くには、見知らぬ老婆が鬼の形相で駆け寄って来ていた。その両手には頑強な手斧が握られていて、空高くに振りかざされていた。


 ぼくの身の危険は外にではなく、内にあった。そして、それはぼくが思った以上、ぼくの身に差し迫っていた。

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