第10話 シンキングエモーション
ここはあらゆるものは単純な世界だとシエルさんが言っていた。確かにこの世界の風景は、ぼくが居た世界とは比べ物にならないほどシンプルなもなのだ。楓だけで構成される樹林や、平坦な大地、まばらに佇む家屋、食事だって、セミの幼虫を炒めただけのものだったし、空には雲一つない日本晴れで、夜になれば、満月がはっきりと夜空で主張していて仄かに闇を照らしている。
これら全てがおそらく、研究者たちが、シンプルな世界を構築するために意図して設計したものであるようだ。
あらゆるものが単純化された世界……。
だけど、この世界に住んでいる「人」はどうなんだろうか。
ぼくは元の世界で人との関りを多く持つことはなかった。コミュ障でぼっちだったからだ。だから、ある人の言動や行動が普通なのか、異常なのかの区別がよくわからない。それはつまり人の心の機微がわからないのだ。
ぼくが、常識として人の心のありようを知ることができたのは小説のおかげである。小説はぼくに人の心の豊かさを教えてくれただけでなく、他者を慮る姿勢をもたらしてくれた。それは他人の心を勝手に想像するというレベルでしかなかったのだが……。
とはいえ、ぼくは読書を通して、人の心を知った気になった。しかし、小説が教えてくれるのは、あくまでも心のプロトタイプでしかないと、ある時気づいた。小説世界の人物は、キャラクターの性格によって偏りはあるが、その場に相応しくない――もっとわかりやすく言うと、違和感を生じさせるようなズレたことを言ったり、考えたりしないのである。いつも、読者が納得するような、筋の通った思考をし、発言をする。これはいかなる物語にも見られる気がする。
つまりは、小説の登場人物の心のありようは、厳密にリアルではないのである。それは、すべての感性のズレやコミュニケーションの齟齬を排した、偶像化されたものでしかないのだ。
このリアルな心の機微と、小説で語られる心の描写のギャップにぼくは折り合いをつけることが出来なかった。そして、リアルな人の心が怖くなった。現実の人の心は、文字で理路整然と語れるほど単純なものではなく、多分、この世で最も複雑なものなのではないか、とさえ考えた。だって、七十億のすべての地球の人類が全く異なる「心」を持っているのだから。
さて、ぼくは今ここに記録として、まさに今感じていることをできるだけありのままに書いているつもりだ。そうすれば、必然的に駄文なってしまうものだ。ぼくのこころには一貫性がないことがわかるし、ズレたことを余計に考えてしまう癖があることもこうしてはっきり分かるだろう。
だが、こうして文字で表現した時点ですでにこれはぼくの心の機微ではないのは事実だ。それはぼく自身が今、痛切に感じている。そもそも、ぼくは「ぼく」という一人称を用いることに未だに違和感を感じている。
くだらない話はここで終わりにしよう。ぼくの記憶は相当やばい状況で保留にしてある。
一睡もすることなく夜が明けた。朝になると、心臓のざわつきは幾分落ち着いた。
朝食として、姉妹が野菜――というか草の入ったスープを作ってくれた。いささか不安だったが、一口食べて安心した。普通に食べられる。念のためにスマートグラスを起動してみると、その草はヨモギだそうだ。質素な味だったが、逆に生きるために必要な最低限の食事という感じでむしろありがたみが増した。
ぼくは、ふと肉が食べたいなと思った。今度ステーションスクエアに帰ったら、極上のステーキを頼もう、そう決めた。
食後、リラックスしていると、急激に睡魔が蘇ってきた。そのまま椅子に座ったままうつらうつらしていると、ラサの声が朧な意識に侵入してきた。
「ねえ、どうしたの、セージ。ぼうっとしてるけど」
「え?そうかな。まあ、寝起き悪い方だから……」
危うく、昨日眠れなかったと言うところだった。昨夜のラーンさんとノウさんのことは黙っておくことにした。というか、ぼくの口から切り出す勇気がなかっただけだ。絶対に見てはいけないものだった。
それにしても、ぼくとラサという客がいるのに、よくあんなことができたな、と今更ながらに疑問に思い始めた。別に、ぼくたちがいないときにむつみ合えばいいものを。……いや、良くはないな。
「なあ、今日はどうするつもりなんだ?」
ぼくはラサに尋ねる。この世界の調査って具体的に何をするのだろうか。
「うーん、とりあえず、仮の本拠地を探さないとね。あとは買い物ついでに、国の人たちと交流を深めるのがいいかなー」
「なるほど……。って、交流かあ。俺、そういうの苦手なんだけど」
そう言うと、ラサはしかめっ面をして、ぼくのほうに指さし、そのままぼくの鼻をつんと押し当てて、
「だめだよ?セージ。今後のためにもそういうことには慣れておかないと」
「え……。あ、うん。頑張るよ……」
ぼくはそんなことをされて呆気に取られてしまう。それも良い意味で。眠気もかなり吹き飛んで、本当に頑張れそうな気がしてくる。ぼくは思いのほか単純な奴なのかもしれない。
「メスには空き家が結構あるから、それを当てにしてみるのがいいかも」
ノウさん珍しく自らの意見を語った。向かって右下ろしはノウさんだ。
「確かにそれがいいね。でも、どのあたりを探そうかな……」
「国外れの
「わかった。ありがとう、ノウ。――さっそくだけど、行こう!セージ」
ラーンさんとノウさんとはとりあえず別れた。感謝の言葉を伝えると、またいつでも来てくださいと相変わらず無表情のままで言ってくれた、まあ、小さい国だから、三か月も滞在していたらまた何度も会うことになりそうだ。
結局ぼくは、姉妹の謎について何も触れることが出来なかった。あらゆる点でぼくのレベルが足りていなかった。この調査期間にぼくは少しなりとも成長できるだろうか……。
特に見どころのない風景を横目にひたすら歩き続けた。初めは物珍しくて、色々観察していたが、すぐに風景の単調さに目が慣れた。この国は恐ろしく退屈な風景なのだと、知った。
となると、必然的に会話が捗るものである。ぼくがコミュ障であっても、ラサは別に意に介さないという具合に話を続けてくれるから、次第に落ち着いて言葉を紡ぐことが出来るようになった。
「さっき言ってた大道ってなに?」
ぼくはなんとなしに尋ねる。
「この国とオス国を結ぶとても長い一本道だよ。ただひたすら真っすぐで、果てしないの」
「へえ。どうして、その辺りには空き家が多いんだ?」
というか、むしろ、この国に空き家が多くあるということが意外だった。確かに、この国には活気がないように見える。人口はどれくらいだろうか。
「うーん、ちょっと言いにくいことなんだけどね、あそこはとても危険なんだ」
ラサは言い淀みながら、続ける。
「でも、このことはセージも知っておかないといけないから言うね。……オス国は、その大道を通ってメス国にやってきて、女や子供をさらっていくの」
そういえば、昨日もそんなことを言っていたな。
「ああ、だから、その辺には人が住みたがらないのか」
「そんなところね」
沈んだトーンで頷く。でも、少し変だ。家があるということは、もともとそこには人が住んでいたということだ。
「……なあ、少し疑問に思ったんだけど、この世界は単純な世界だったよな。でもなんでこの世界には二つも国があるんだ」
歩みを進めながら、ラサに確かめておこう思っていたことを尋ねることにした。ぼくたちは川にかかる小さな橋の上を歩いている。彼女は、よし、と言って、
「この際、セージにこの世界の基本的なこと説明しておこうか。それと、今後の目標と課題もね」
「お、おう」
ぼくは身構えた。
「単純世界モナドはね、もともと一つの国しかなかったんだ。その国の名前もモナド。単純でしょ? でもある時ね、国のある男が当時の国王を殺害してしまった。それは本来、この世界ではありえないことだった」
「どうしてあり得ないことなんだ? 殺人くらいあってもおかしくないと思うけど」
「それはモナド法で禁止されていたからだよ」
「それこそ、人が法を破ることなんてよくあることじゃない?」
「ううん。この世界の人は、法を絶対に破らないはずなの。法で禁止されているから、やらない。それ以上でもそれ以下でもない」
「それは、ラサもそうなのか?」
その言葉に彼女は少し考え込んだ素振りを見せた。他ならぬラサがこの世界の生まれなのである。しかし、彼女の答えははっきりしたものではなく、
「わからない……。ここ八年間はこの世界にはいなかったから。……でも、本当に憎んでいる人なら、殺せそうな気もするんだ」
ひどく物騒なことを言う。この娘に憎まれてはいけないな、と心に刻んだ。
「そのモナド法って?」
微妙な空気になってしまったので、話を巻き戻す。
「本来は、この世界に国が一つしかなかったときに、作られた法なんだ。それはもう、この世界にお似合いな単純明快さでね。……んーと、第一条! 人を殺してはいけない。第二条! 盗んではいけない。第三条! 人を傷つけてはいけない。第四条! 他者を尊重すること。第五条! 食料は分かち合うこと。……それだけ!」
ラサは細く繊細な指を一本づつ立ててゆき、最後にパーになるまで朗らかに諳んじた。
なるほど。日本国憲法の二十分の一か。いや、日本にはそれ以外にも六法の類がそれこそ、ごまんとある。それはそれでやりすぎな気もするが、たった五条でひとつの国が何とかなるものなのか。
「いや、そんなんで大丈夫なの?」
「うん。少なくともメス国はね」
「つまり、オス国は駄目というわけか」
「そうだねー。あいつらは人間があらゆる
「ごめん。それで? 国王を殺した男はどうしたんだ?」
「その男は当然追放された。そして、彼は恋人とたったふたりでもう一つの国を作り上げた。それがオス国。そこで彼らは子供をたくさん作り、ある手段を用いて、たった数十年間で国民の数を千人にまで増やした」
「その手段って?」
「それを自分で考えるのが課題の一つだよ! まずは自分自身の頭を働かせること」
ラサは子供にお説教をするような口調で言う。子ども扱いか、と内心むっとしたが、正論なので仕方がない。
とは言え、少し考えれば答えは見つかった。彼女はたくさんヒントをくれていた。
「ああ、この国から女子供をさらうっていうのはそういうことか。彼らを拉致して、奴隷として従属化させたのか」
「残念ながら、人はそんなにあまっちょろい生き物じゃないんだ……。でも今答えを言っても、多分セージには理解できないだろうから、今後の課題ね」
一番もっともらしい答えを言ったつもりだったのだけど、真相はもっと難しい内容らしい。ここはシンプルじゃないのか。
そうこうしていたら、国の外れにたどり着いていた。その風景は、国の中心部と少し違っていた。まず、中心部以上に人の気配がない。荒涼としていて、ところどころに佇む民家は、老朽化が進んでいたり、あるものは燃やされて真っ黒になっている。草木は枯れていて、岩肌が露になっている。まさしく廃墟だ。
単純計算をして、この国の歴史などせいぜい数十年くらいのはずだ。なぜなら、齢八十を超えていそうな、一代にして研究所の基盤を築き上げた、あのアダム所長が最初期に作り上げた世界なのだから。
そんな産声を上げたばかりの世界にこんな荒涼とした廃墟が広がっていることに、少なからず驚いた。
なおも歩みを進めていくと、先ほどまでの荒廃した大地とは打って変わって、息をのむような景色が広がった。辺り一面緑の世界。全て同じ高さのなんらかの草が、果てしなく広がっている。そして、メス国の末端からたった一本の道が延々と伸びているのだ。その道は、舗装されたものではなくて、単に、人が草を刈り取って茶色の大地をむき出しにしただけの物だった。道というものの原初の姿がそこにあった。
その道の遠く果てを眺めてみても、平面な草原が広がっているだけなのに、終着点を窺い知ることはできなかった。
「この道の先にオス国があるのか」
ぼくは単純明快な推理を語る。
「その通りだよ。――この道ね。とっても長いんだ……」
ラサは悲しみとも、感心とも、怒りともつかない微妙な口ぶりで、遠い眼差しで、絞り出すように言った。
「これからオス国へ行ってみるのか?」
「まさか! 今から行っても日が暮れちゃうよ。それに、オス国の現状が良くわからないで安易に入国するのは、とっても危険よ」
「なるほど、情報集が第一ということか」
ぼくたちはその場を引き上げて、空き家を物色しようと踵を返そうとした、その時。スマートグラスで超強化されていたぼくの視界が、大道の遥か遠方に、極微小の黒点を捉えた。嫌な予感とともに、スマートグラスのスケールダイヤルを、拡大の方へ回した。見る見るうちに、視界は黒点を鮮明に拡大していき、それが三人の男であることが判明した。初めて使う機能に半ば興奮しながら、事態を報告する。
「なあ、人がこっちに来てる。男が三人」
「え、本当!? ……でも、三人ということは人さらいではない。多分、偵察か脱走か、そのどちらかだと思う。ねえ、セージ。その男達、何か持ってる?」
「いや。特に目立ったものは持ってない。というか、服すらまともに来てないぞ」
「それなら、彼らは偵察の可能性が高いわ。とりあえず身を隠そう」
ぼくたちは、メス国の果ての一角、ちょうどまだ草木が辛うじて、生え残る位置にあった、比較的人が住めそうな――それでも、現代人にはかなりきつい――家屋に身を隠すことにした。
住居の中の様子はさながら豚小屋といった有様で、いたるところに砂ぼこりが被っている。最低限の家具は残されたままだが、どれもそのままの状態では使いたくないものばかり。
ひとまず落ち着いたときに、ラサは部屋の隅々を一様に見回した後、淋しげな声音で、
「わたしの家も、こんなんだろなー。人が住んでたとは思えないね。……ここにも、人の営みがあったんだね」
ぼくはラサのこういう哀愁というか、悲痛な過去を背負ったものが帯びる感傷に触れると、いつも心がざわついた。そして、ぼくにはどうしようもない重みがそこには確かにあって、まともに言葉を返すことが出来なかった。
「人って何のために生きるんだろう」
この陳腐な言葉を吐いたのは、ぼくだ。
「急にどうしたの。セージってたまに変なこと言うよね」
「う、そうかな。でも、思ったんだよ。こんな、って言ったらラサに失礼だけど、こんな世界でも、多分、人は何も文句を言わずに生きている。ぼくは、なんでも揃っていたあの世界で生きるのが死ぬほど辛かったんだ。その違いって何だろうって思って。そして、人はなんのためになら生きていこうと思えるのかなって」
「うーーん、その問題はわたしにとっても難しいよ。わたしもね、実はこの世界で生きるのが死ぬ程辛くなることがあったの。だから、セージと同じ」
「そうなんだ……。なんか俺だけ不幸面してごめん」
「ううん、いいんだよ。人は基本的にみんな自分が一番不幸だと思いたい生き物なんだよ。これはセージへの嫌味でも何でもなくて、わたしがいろんな世界を回ってみての結論ね」
「ははは。なんだそれは。人ってままならねえなあ」
ぼくは心の底からの苦笑の声を漏らした。いや、これは苦笑ではなくて、単にラサとの会話を純粋に楽しんでいたからなのかもしれない。お互いの本音の一部を晒し合ったことで、多少なりとも心を開いたことで。そう感じていると、ラサも、
「あ、セージが笑ってる。てっきりセージには感情がないのかと思ったけど、なんだ、ちゃんと笑えるんじゃん」
そういうラサは、あまり楽しそうではなく、どことなくものさびしげだ。
「いいなあ」
ラサはぼくに聞こえるかどうかの幽かな声で、いや、それは声にならない唇だけの動きだったのかもしれないが、ぼくは確かにその声を認識した。後になって、だが。
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