第4話 ハードデイズ
地獄の特訓が始まった。
ぼくは一日目にしてもういやになってしまった。全身の筋肉が悲鳴を上げている。長年の不摂生がここにきて裏目に出た。本当に十八歳なのかぼくは。体力も筋力も平均をはるかに下回っているらしい。
「こらこらー、休んじゃ駄目だぜ。あと腕立てさんじゅっかーーい」
でかい声でぼくにどなりつけてくるのは、専任トレーナーのアントニーさん。アメリカ人で金髪碧眼のマッチョで体のでかいお兄さんだ。その声からは、ぼくをいじめてやろうという悪意は感じられず、ただただ、愚直なまでにぼくのためを思って言ってくれているような熱意を感じる。それが逆につらいんだけどね。
本日のメニューは腕立て二百回。上体起こし二百回。スクワット五百回。背筋を鍛える運動など諸々が組み込まれている。運動不足のぼくにとってはハードどころではない。もちろん、一度に一気にするわけでもないし、まだバーベルやダンベルといった器具も使っていない。自重による筋トレなので、さほどきつくないはずらしい。いや、無茶苦茶きついけども。
こんな日々が二週間続いた。メニューは日に日にきつくなっていったが、慣れとは恐ろしいもので、次第に自重の筋トレは比較的楽に感じられるようになった。むしろ、目に見える筋肉の発達が嬉しくて、筋トレが楽しくなってきたところだ。
「アントニーさん、そろそろ器具を使ってやってみたいんですが」
「うーん、そうだな。そのやる気に応えてやらねーとな!わっはっは」
アントニーさんは豪快に笑った。男のぼくから見ても、無茶苦茶ハンサムで、全身の筋肉も厳めしく発達していて、まさに男が憧れる男というビジュアル。そのくせ、自らの容姿を鼻に掛けず、明朗な言葉で手取り足取り真摯に指導してくれるのだから、もう人間として完璧だ。
今ぼくたちがいるのは、ラボ二十階に位置する、これまた巨大なトレーニングフロアの一角だ。多種多様なトレーニング器具やマット、格闘技のリングなどがフロアを埋め尽くさんばかりに配置されている。このフロアに入ると、汗のにおいを鼻腔に感じて、やってやるか、と気合が漲る。
「じゃあ、このベンチプレスやってみるか」
ぼくはベンチプレスの台座にあおむけになった。アントニーさんが、まず最初にバーをぼくの頭上辺りにセットする。
「手始めに二十キロからだな」
そういって彼は、十キロのおもりを両端にセットした。
「よし、バーベルを胸のうえに移動させてみろ」
言われたとおりにやってみる。すると、二十キロの重みがダイレクトに肩や腕、胸に伝わってくる。無理な重さではないが、なかなかにきつい。
「ベンチプレスってのは、フォームが大事なんだ。ほら、ここはこうしてな、脚は閉じるんだ。胸を張って!……そうだ!そのままのフォームで、バーベルを上下させてみろ」
ぼくは、うう、とかああ、とか声を漏らしながら精一杯バーベルを十数回ほど上下させた。思いのほか苦しい。ああ、もうだめだ!
「そこで踏ん張れ!限界を超えてあと一回だ!」
アントニーさんが活を入れる怒声を浴びせてくる。不思議と力が湧いてくるのだからすごい。あと一回なら頑張れる。ぬわー!あーもう本当にだめだ!――っ!やばい。筋肉がバーベルの重みに耐えられなくなって、胸の上に落としそうになった直前。アントニーさんがしっかり受け止めてくれた。それも片手で。流石です。ああ、もう一生ついていきますよ。
台座から起き上がる。腕と肩と胸の筋肉が壊れたみたいな虚脱感に苛まれる。
「おっほっほ。今のおまえの筋肉はばっきばっきに壊れてる。それがな回復するときに、お前の筋肉は超パワーアップするんだ!それが超回復ってやつだ」
ああ、本当に壊れているんだな、と苦笑した。確かに自重の筋トレをした初日も似たような状態だった。つまり、明日の朝が恐ろしい。
「そんじゃ、今日はこれくらいにしとくか。明日は下半身の筋トレだ。筋肉を愛しろよ!」
がははと笑いながら、トレーニングフロアから出ていく。なんですか、筋肉を愛するって。ま、まあ。だんだん自分の筋肉がいとおしくなってくる気持ちはわからなくもない。少しだけだが。
そんな肉体改造の日々において並行して行われていたのが、武術の鍛錬だったのだが、これがぼくにはてんで駄目だった。端的に言って才能が全くなかったのだ。
指導員のフランス人のおじいさんのエドモンさんは首を横に振って、やれやれといいたげだ。白髪頭に白いちょび髭をはやしている。
この日は柔道の鍛錬をしていた。エドモンさんは青の胴着を、ぼくは白の胴着を身に纏っている。
「受け身すらまともにとられんとなると、どうしようもないのう」
厳しい表情で言う。ごめんなさい。
どうやらぼくは自分の体の正しいコントロールの仕方をしらないらしい。どうすれば綺麗に受け身をとることが出来るのか、がまず頭で理解できない。大外刈りも小外刈りも、大内刈りも、背負い投げもどれもぎこちない。
どんどん発達していく筋肉が馬鹿みたいに、その筋肉たちが存分に活かされるはずの武術が全く上達しない。ごめんよ。本当にごめんよ、筋肉よ。
結局、ぼくは剣道も拳法もテコンドーも空手もムエタイもボクシングもどれもこれも駄目だった。ぼくを励ましてくれるのは、無駄に発達した三角筋と上腕二頭筋と大胸筋と、腹筋と大臀筋と大腿四等筋とヒラメ筋と、アントニーだけだ。
「そこまで気にするんじゃあねえ。筋肉はあって良いことはあっても悪いこたあねえんだ。愛を注いだ分だけ、筋肉はしっかりお前を守ってくれるし、力になってくれる。それが筋肉との絆の在り方なんだよ」
その言葉が胸にじんわりと広がる。汗臭いこのトレーニングフロアには似つかわしくない、含蓄のある言葉で涙がこぼれそうになる。
ぼくは一切ふざけてなどいない。それほどまでに、特訓の日々は過酷をきわめ、それにも関わらずなかなか成果の上がらないぼくは半ば自棄になっていた。だから、アントニーさんの優しいその言葉は、ぼくの今までの努力を肯定してくれたように感じられた。
「まあ、こんなことを言うのもなんだがな。武術が駄目ならな、お前は銃をやるのがいいぜ。ライフルとか、マシンガンとか、ピストルとか。あいつらはいいぜえ!どんな頑強な筋肉なんか目じゃねえ。どんな屈強でごつい野郎でも、銃の前では無力なんだ。わはははは」
――おい。すべて台無しだよ。よりにもよってあなたがそれを言うか、アントニーさん。ぼくの中でのアントニー株が暴落したのは言うまでもない。
とはいえ、彼から多くのものを授かったのは事実だ。大切に心の奥底深くにしまっておこう。
ぼくは虚しさを感じながら、武術の鍛錬場を通って、次の基礎草本学の講義に向かおうと出口を目指していた。
すると、その鍛錬場の一角に見覚えのある赤い髪が目に移りこんだ。なんともよく目立つなあ。ラサさんだ。一風変わった道着を身に纏って、どこかで見覚えのある型を次々とこなしていく。
ぼくは声をかけるか迷ったが、意を決して彼女のもとに歩み寄った。ぼくが近寄って行っても気づかず型を続けている。様になっていて、とても優雅だ。可憐さの内に確かな力強さを感じる。身体の奥底からこの武術を体得しているのだな、と素人目にもわかる。
「ラサさん」
ぼくが呼びかけると、彼女は型を中止して、こちらを向く。ぼくの存在を認めると、にこりと微笑み、
「あら、おはよう、セージ!」
と挨拶をしてくれる。さきほどからの熱中した様子と相俟って、とても純真な少女に映る。
「わー、筋肉すごいね。すっかりマッチョだ!」
「まあ、かなり頑張りました」
「へえ。ずいぶんたくましくなってる。かっこいいよ」
え。今なんて?かっこいいだって?難聴でかっこわるいよって言ったのを勝手に聞き間違えたかな。いやいや、たしかにラサさんはかっこいいと言った。
時が止まったかのようにぼくは静止していた。思考が一時停止していた。なんとかして思考を再生する。ぼくは平然を装って、
「そうかな。……ありがとう。実はさっきまでわけあって落ち込んでたんだけど、そういわれると、うれしい、です」
後半、全く平静を保てず、しどろもどろになる。たしかに、彼女の言葉でかなり救われたのだ。
「そうなの?まあ、無理はしすぎないでね」
なんだか、この前初めて会った時よりずいぶん真面目で実直だ。ぼくは、彼女にたいして、不当に低い評価を下していたのかもしれないと反省する。
「ところで、ラサさんはさっきまで何の型をとってたの?」
「はあ!?こんなこともわからないの?」
彼女は怒り心頭といった具合でそう言う。え、なんでこんなことでぼく、怒られてるの。
「じゃなかった。ごめんなさい……。えっと、わたしは中国拳法を嗜んでいるの。わかりやすく言うとカンフーね」
ぼくはすっかり萎縮してしまっていたが、ちゃんと答えてくれたので、ひとまず水に流すことにする。
「ああ、カンフーか。なんか見たことあると思ってたんだ。俺も無知でごめん」
日々の筋トレのおかげで、なんとなく強くなった気がしていて、無意識に自然と俺という一人称が出た。まあ、ここでもどうでもいいことだ。
「いいえ。さっきのは私が一方的に悪かったの。……悪い癖なんだ、考えるより先に言葉が出てしまう」
「そうなんだね。ぼくはラサさんとは正反対だ。考えすぎて言葉がでなくなるんだ」
だからできるだけ、考えないで勢いで言葉を発することもしばしばある。それが不誠実であることはわかっている。けれど、考えて、言葉が出なくて、思考のどつぼにはまるのが怖いのだ。
もちろん、ここまで個人的なことはあえて口には出さない。いずれ、自身の力で解決しなければならない課題のひとつであるにすぎない。
「その気持ちは私にはわからないけど、自分ではどうしようもない何かに自分が縛られている苦しさは痛いほど理解できるわ」
切なげに、どこか遠くをみつめながらそう言った彼女の言葉になぜかぼくの心は強く揺さぶられ、その後長い間記憶に残り続けた。
ラサさんの抱える何かの一部を覗いた気がした。
その後、数か月ほど、鍛錬と勉学の日々が続いた。ラボの生活にも徐々に慣れはじめ、単調な毎日に嫌気を感じ始めていた。
結局ぼくは最後まで、武術が上達しなかったのだが、物は試しにとアントニーさんに勧められて、一緒に射撃訓練場に赴いた。そこでぼくの眠りし才能がわずかに目を覚ましたのだった。まあ、普通の人より命中精度が高く、熟達速度が少し早いという程度のものだった。無能であるよりましだから素直に喜んでおこう。アントニーさんも、すごく嬉しそうに笑いながら、
「やっぱりお前は銃の才能があったんだぜ。やっぱり俺の見込み通りだ。がははは」
と、肩をばんばん叩きながら言った。なんだかんだいって、ぼくはアントニーさんを信頼している。裏表がなく、どこまでも愚直に面倒を見てくれるような兄分を、ぼくは少し尊敬した。
それからまた 数週間後。ぼくに初任務のための招集がかかった。
『アイディナンバー七千六百二十四番、ラサ。アイディーナンバー十一万四千六十六番、
自室で休憩してたぼくは、突然のアナウンスに驚く。相変わらず、どこから音が出ているんだ。
急いで一階に向かうべきなのか考えあぐねていた時、ドアが開いた。通路にシエルさんが立っていた。
「湯山君。初任務ですね。中枢司令室に案内します」
真剣な面持ちでそう告げた。
ついにその時が来たのか。ぼくはぶるりと身震いした。
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