黒鉄青衣2

 それからの人生は、まるで生まれ変わったかのようだった。

 オレは地上に住むことを許され、黒鉄くろがねというじいさんの元でイチから一般教養を身に付けることになった。

 文字の読み書きさえ満足にできなかったオレにとって、そのじいさんの鬼のようなスパルタ教育は地下で暮らしていた方がまだマシなんじゃないかと思うほど大変だったけれど、たった数ヶ月で同年代の子供と遜色そんしょくないくらいの頭にはなれたと思う。

 そして、オレを拾ってくれたあの男――ボスは、オレに小学校に入るよう命令した。

 そう、命令だ。

 オレの正確な年齢は自分でも分からない。恐らくその時は小学校三、四年くらいの年だったんじゃないかと思う。しかし、オレは新入生として入学することになった。栄養不足の状態が長かったせいか、その時は背丈もさほど大きくなく、それほど不自然ではなかった……はずだ。

 オレはボスから、小学校で気になったことがあれば報告するように言われていた。というのも、その次の年には、ボスの息子が入学するからだった。

 つまり、オレは言わば先遣隊で、ボスの息子に危害を加えるような人間がいないかどうか、施設に問題はないか、それを下調べするために一足先に入学させられたという訳だ。

 ……だが、これも今になって思えば、建前みたいなものだったのかも知れない。


 ともあれ、これと言って大きな問題もなく最初の一年は無難に過ごすことができた。

 そして次の年からはボスの息子――元一さんの動向を監視するのがオレの主な仕事となった。

 彼と言葉を交わしたことは一度もない。しかし、お互いに面識はあった。

 なにせオレは黒鉄のじいさんの孫ということになっていて、同じマンションに住んでいるんだ。家を出る時間を間違えるとばったり顔を合わせることもあり、その時はとても気まずかった。

 盆暮れ正月なんかの集まりでは席が隣り合うこともあったし、向こうも同じくらいの年の人間ということで、多少はオレのことを気にかけていたんじゃないかと思う。


 それから数年が過ぎた。

 その頃オレは、クラスでは浮いた存在だった。

 成長するにつれて背が伸び、体つきが変わったことで、クラスの子供たちと実際の年齢差が如実にょじつに出てしまったせいもあるが、それ以上にオレは、まるで演劇のように何事もなく過ぎていく日々に違和感ばかりを覚えていた。

 毎日、盗みも働きもしなくても飯が出る。ぼんやりしていても殴られない。周囲を警戒しながら歩く必要もない。……何より、その辺の道を歩いていても、人間の指の一本さえも落ちていないのだ。

 最初は、なんて素晴らしい世界なんだろうと思った。

 でもそんな生活が続くうちに、だんだんと不安になってきた。

 オレはこんなことをしていていいのだろうか、という、謎の焦燥感が頭の後ろから追いかけてくるのだ。

 そんな時、オレは自分に課せられた仕事を思い出し、そこまでする必要もないのに授業をサボって元一さんの様子をこっそりと見に行った。

 彼も、小学校での生活には難儀しているようだったが、それでも精一杯頑張っていた。オレとは違い、ちゃんと友達もできていたようだ。

 彼の姿を見ていると、オレも頑張らなければならないと思えた。

 いつしか、元一さんの姿を見守ることが、オレの中で大きな意味を占めるようになっていった。


 中学に上がってしばらく経った頃。

 元一さんは、ボスから特別なを受けるようになった。

 オレは何度かその様子をこっそりと見させてもらっていた。

 他の街に出かけるような本格的な教育が始まると、オレも許可を得てついていった。……オレはずっと影に隠れているように言いつけられていたから、元一さんは知らなかっただろうけど。

 拷問の実地訓練を見た時、不謹慎にもオレは懐かしさを覚えていた。

 それは、かつて地下でオレが仕込まれたことと似たニオイのするものだったからだ。

 そして懐かしさと同時に、ひどい不快感を覚えた。

 あの地獄の底でしか必要ないようなことを、どうして元一さんが覚えなくちゃならないんだ?

 オレは次第に、ボスのやり方に疑問を抱き始めた。

 もちろん、今でもオレを拾ってくれた恩は忘れていない。だが、だからといってあそこまで自分の子供の心をないがしろにするようなやり方を肯定することはできない――そんな風に考えてしまうほど、オレは元一さんに肩入れしていたらしい。

 元一さん自身がその教育をこころよく思っていないことなど、彼の表情を見ればひと目で分かった。徐々に心が摩耗して追い詰められていく様子を見ていると、まるで自分のことのように胸が痛んだ。

 そうだ、あれは地下で暮らしていた時のオレの姿だ。せっかく光の下で生まれたあの人をオレと同じ目に遭わせるなんて、そんな残酷なことがあるだろうか?

 どうにかして彼を自由にしてあげたい。

 だが、多くの眷属で構成されているこの組織から逃げることなど可能なのか?

 普通の人間では無理だ。オレにもっと力があれば――


 そこでオレは、魔法使いのことを思い出した。

 オレは今地上で暮らしていて、この街にも魔法使いは常駐している。どうにかして会うことができれば、オレも眷属になれるのではないだろうか?

 それからオレは密かに魔法使いについて調べ、組織の人間に気付かれないよう細心の注意を払いながら行動し、ようやく本物の魔法使いと接触する機会を得た。

 初めて実物を見た時に真っ先に浮かんだ言葉は、「冗談だろ」だった。

 オレより年下くらいの、白い道着を着た女の子が、「なにか用っすか?」と来たもんだ。

 騙されたと思った。偽の情報を掴まされたと思った。だが、地下で育った俺の勘が、ちょっと待てと告げていた。

 その女の子は――変な言い方だが、触れようのない球体のようだった。仮に彼女から持ち物をろうとすれば、百回中百回は失敗するだろうという直感があった。

 何もかもが見透かされているような不思議な感覚。これが魔法使いというものか、と妙に納得した。

 眷属にしてくれ、と頭を下げるオレに、彼女は複雑そうな顔をして見せた。


「どうして眷属になりたいんすか?」

「……力が欲しいから」

「力っすか。具体的にはどういう?」

「一人でいい、人を助け……いや、逃がすことができるだけの力が欲しい」

「ふーむ、その人を逃がす時に障害となるものを打ち倒すための力、という意味っすかね?」

「そうだ」

「その障害ってのは何なんすか?」

「眷属。百人以上はいる……と思う」

「そりゃ難儀っすねえ」

「できないのか?」

「害獣と戦うための力を、眷属同士の戦いに使って欲しくはないっすね」

「もちろん、害獣とも戦う。あんたの言うことは聞く」

「『従う』とは言わないあたり、したたかっすねえ」

「……嘘はつけない」

「ま、いいっすよ。ただし……」

「なんだよ?」

「残念ながら、あなたは潜在的な魔力が低いっす。つまり、眷属になってもそんなに強くなれないかも知れないということっすけど、本当にいいんすか?」

「う……それでも、今のままよりはいい」

「そうっすか。まあそれだけの覚悟があれば、もしかしたら化けるかも知れないっすね。なにせ、魔法の力は願いの力っすから」


 そうしてオレは、魔法使いの眷属になった。

 彼女に言われた通り、オレの魔力は悲しくなるほど弱々しいものだったけど……それでもオレにできることはひたすら己を鍛えることだけだったから、とにかくがむしゃらに努力を重ねた。

 一度、害獣駆除でドジを踏んで死にそうになったことがあった。もうダメだと諦めかけた時、あの白い道着を着た少女が目の前に降り立って、一瞬で害獣をぺしゃんこにしてみせた。その時に見た圧倒的な力はいつまでも目に焼き付いて離れず、彼女はオレの目指す力の目標となった。


 元一さんが中学校の卒業を間近に控えた頃、オレは彼を帰り道の途中で見失うことが多くなった。

 登下校時に元一さんを後ろからこっそりつけるのは、オレの小学校からの日課になっていたのだが、こんなことは初めてだった。

 何度、注意深く後をつけていても、煙のように消えてしまう。それならばと一度だけ目立つのを覚悟で変身して後をつけてみたが、結果は同じだった。

 眷属の目ですら見失うということは、元一さん自身も何らかの魔法を使っているということ――つまり、眷属になっていると考えるのが妥当だ。

 しかしオレはその仮説をボスには報告しなかった。

 仮に元一さんが眷属になったなら、オレと力を合わせれば本当にこの組織から逃げ出すことができるかも知れないと思ったからだ。

 それは、今まで全く考えつかなかった新しい方向の閃きだった。

 仲間だ。

 オレ以外にも眷属の仲間がもっとたくさんいれば、元一さんの願いを叶えることができるのではないだろうか?

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