黒鉄青衣1

 オレが覚えている最も古い記憶は、薄暗い小屋で盗みを働いている場面だ。

 ただでさえカビ臭く湿った空気が呼吸を苦しくさせるっていうのに、慣れない仕事はオレの小さな心臓の音を倍にしているようだった。

 苦労して得た収穫は、ほんの僅かな金属部品。それを持ってオレは、オレを飼っている男の家に戻る。

 食事は日に一度。それでもこの辺じゃマシな方だった。

 体の臭いが仕事に差し支えるということで、水浴びだけは頻繁にさせてもらえたのが唯一の慰めだった。

 その男はオレみたいな子供を何人も飼っていた。少しでも虫の居所が悪ければ理由もなく殴られるし、お前らは人間じゃないと毎日のようにののしられていた。


 かつて、今ほど立派な壁がなかった頃、害獣から身を隠すために作られたという広大な地下空間。

 暗く湿ったその場所は少しずつ掘り広げられ、今でも誰かが暮らしている。

 捨て子、犯罪者、逃亡者、地上の光を拝むことができない様々な理由を持つ者たちが暮らす、この世の底だ。


 地獄のような暮らしを当然と思いながら何とか生き延び、数年が過ぎた。

 仕事にもすっかり慣れてきたある日、オレは地上から視察の人間が来るという情報を掴み、そいつらのポケットを漁ってやろうと待ち構えていた。

 面白半分で降りてくる人間はいいカモになる。ここでは平和ボケした地上の常識など通用しない。一掴みの米のために人が死ぬ。すれ違っただけで身ぐるみを剥がされることもある。そんな世界だ。

 だが、ゾロゾロと連れ立って降りてきた一団は、オレが想像していたものと少し違った。

 なんというか、たまに見る観光客や役所の人間とは目つきが違うのだ。

 油断のない歩き方。目配り。お互いの死角をカバーし合っている。

 手強い相手だ、と思った。

 だが、地上でどれだけ優れた人間でも、慣れない地下に来たばかりでは全力を発揮することは難しい。


「おい、待てよ! どうしてくれんだよ!」


 オレの声に振り向いた男たちの一人が、その高価そうな革靴の下で潰れている人形に気付いた。

 売り物にもならないガラクタだが、オレがそっと奴らの歩く先に仕込んでおいたのだ。


「オレの商売道具だぞ! 弁償してくれんだろうな!?」


 人形を踏みつけた男は、まるで何事もなかったかのように歩き始めた。

 オレのことを虫か何かとでも思っているらしい。


「てめえ、ふざけんなよ!」


 お約束の白々しい台詞を吐きながら、オレはその男に掴みかかった。

 鼻の奥に灼熱を感じると同時に、オレは吹き飛ばされていた。

 容赦なく子供の顔面を殴り飛ばしやがった。血も涙もない奴らだ。

 オレは悶え苦しむフリをしながら、り盗った財布をズボンの中に押し込んだ。この薄暗い空間で一度手放したものは、もう二度と持ち主の元に帰ることはない。

 芋虫のように這いつくばりながら少しずつその場を離れるオレの背に、おい、と声がかかった。瞬間、オレは走り出した。

 曲がりくねった横穴を抜け、崩れかけた倉庫を通り、ぬかるむ泥の道を走る。ここで生活している人間にさえ捕まったことのない、鉄板の逃げ道だ。

 だが、さすがに息も切れ始めて速度を落とした時、オレは凄まじい衝撃に吹き飛ばされた。背中を蹴られたのだと気付いたのは数秒後だったが、その時にはもう何もかもが遅かった。


「舐めた真似してくれたな、ガキ」


 財布を盗ったあの男だった。

 驚くべきことに、そいつは息一つ切れていないばかりか、その上等なスーツのズボンに泥もついていなかった。

 まばたき一つする間にそいつはオレのすぐ近くまで移動し、まるでゴムボールみたいにオレを蹴り上げた。

 激しい痛みが全身を襲う。視界が回転し、何がなんだか分からないまま体のあちこちが痛めつけられていく。

 この動きの早さは尋常じゃない。多分こいつは魔法使いの眷属ってやつだ。

 地上では、魔法使いに自分の魂を捧げることで人間離れした力を手に入れることができるという――そんな噂話を聞いたことがあった。そんな力があれば、オレだってさっさとこんな場所から抜け出してやるのに、とうらやましく思ったものだ。

 だが、いざ本物の眷属を目の前にしてみると、想像していた神秘的な存在とは程遠いものだった。こいつは圧倒的な暴力と剥き出しの殺意を持つ、ただの獣だ。

 この時ほど悔しいと思ったことはなかった。

 悔しい。羨ましい。ねたましい。

 オレはたまたま物心ついた頃にはこんな薄暗い地下を這いずり回っていて、土で汚れたこの手には、何一つ持っていなかった。

 だが、目の前のこの男は、たまたま地上に生まれて、運良く力を手に入れただけで、まるで当然の権利のように弱い者をしいたげるのだ。

 オレは何か悪いことをしたから、こんなこの世の底に放り込まれたのか?

 こいつは天に選ばれた良い人間だから、恵まれた環境で生まれ育ったのか?

 違う! そんなのはただの偶然だ! ふざけやがって! オレはそんな下らない偶然のせいで殺されなきゃならないのか!? 冗談じゃない!


 意識が朦朧もうろうとし始めた頃、不意に体の痛みがなくなった。

 感覚が麻痺してしまったのかと思ったが、どうやらそれだけではなかったらしい。


「おい、てめえ何やってんだ?」


 ひどくドスの効いた声が響いた。少なくとも正義のヒーローが出していい声ではない。


「あっ……ボス! すいません! こいつが俺の財布を盗りやがって……!」

「このガキが? お前の財布を?」

「は、はい」

「……もう帰れ」

「は?」

「帰れっつってんだよ。主人そっちのけでお前、ガキと遊んでる護衛がどこの世界にいるんだ? ああ?」

「その……す、すいませんでした!」

「いいよ。てめえはもう俺の護衛じゃなくなったってだけだ。まだいくらでも使い道はあるからよ、さっさと帰れ。な?」


 オレを殴っていた男は、真っ青な顔をして走り去っていった。

 いい気味だ、とは思えなかった。なにせ目の前にはまだ、あいつのボスがいるのだから。

 さっきの男のような人間離れした力こそ感じないが、目の前の男からは寒気がするような気配を感じた。オレは今度こそ本気で死を覚悟した。


「おい、ガキ。年はいくつだ」

「……し、知らない。覚えてない」

「名前は」

青衣あおい

「一人か」

「一人……ううん、名前も知らないオヤジに、飼われてる。オレみたいなのをいっぱい飼って、盗みをさせて、暮らしてる奴」

「ほう」


 続けざまに繰り出される突然の質問にオレは混乱したが、もたもたせずに答えなければ殺されるという直感があった。

 こういうタイプは常に相手を品定めしている。どうしてそんなことを聞くのか、などと聞き返すのはもっての他だ。ハッタリでも堂々としていた方が得だということを、オレは経験から学んでいた。


「よし、案内しろ」


 ゾッと背中の皮膚が粟立った。

 案内というのは、つまりこの男をオレの飼い主であるオヤジの元へ連れて行けということだ。

 この男はオレが盗みを働いたことを口実に、あのオヤジからむしり取ろうとしているのだ。そんなことになれば、オレはまず間違いなくオヤジに殺されるだろうし、万が一殺されなかったとしても、生活に貧したオヤジはオレたちへの餌やりを止めるだろう。

 だが、ここで断ればそれこそすぐに殺される。逃げても無駄だというのは身をもって証明済みだ。

 どちらにしろ待っているのは死。

 しかし――ほんの僅かな希望が、針の穴みたいに小さく心もとない光が、まだ残されていた。

 それは、この男がオレを助けてくれるという、まさにご都合主義的な展開だ。

 だがその時のオレには、その髪の毛みたいに細い希望にすがるしか心を保つ術が残されていなかった。


「……わかった」


 覚悟を決めて、オレはその男たちをオヤジの元に連れて行った。

 どう見てもカタギではない男たちがボロ小屋を取り囲む様子はいっそ笑えてしまうほどで、扉を開けてオレたちを見た瞬間のオヤジの顔は今でも忘れられない。

 そして、


「お前んとこで飼ってるこのガキ、売ってくれねえか」


 と彼が言った瞬間のことを、オレは一生忘れないだろう。

 か細い希望が現実のものとなったのだ。

 オヤジはもちろんのこと、オレも、周囲の護衛たちさえも動揺していた。


「なに……なんだ、お前……?」

「こんなカビ臭え場所じゃあよう、あと十年も生きられりゃいい方だろ。ガキが一日に稼げる額なんざ高が知れてるから……こんなもんでどうだ」


 まだ事態を飲み込めていないオヤジに畳み掛けるように、男は紙切れに数字を書いて手渡した。

 オヤジがうんとも言わないうちに、男は近くの護衛が持っていたトランクから札束をいくつか取り出して、無造作に投げつけた。これがトドメだった。


「あ、ああ。好きにしろ。でももうこれは返さねえぞ」


 そんなことを言いながらオヤジはさっさと小屋の中に引っ込み、バタンと扉を閉めてしまった。

 あっという間の出来事だった。


「ボス、その金は今日の交渉のための……」

「どうせ見せ金だ。足りない分は後でどうとでもなる」

「どうしてそんなガキなんかを買ったんですか?」

「うるせえな。お前は新聞記者か?」

「しかし……」

「……まあ、あいつと年が近そうだしな……後で何かに使えるだろ」


 その言葉を聞いた護衛たちが一際ざわめいたことの意味を、その時のオレはまだ知らなかった。


 オレを買った男の名前は片角一充かたずみかずみつ

 彼は自他ともに認める合理主義者だった。

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