10 追悼式4

 敵は姿を消すのをやめたらしく、逃げていく魔力を簡単に見つけることができた。

 階段を上り、下り、ぐねぐねと曲がる通路を通り抜けていく。

 ご丁寧なことに、敵が進んだ道の扉は全て破壊されていた。裏をかいた偽装工作のつもりか、それとも単純に鍵がかかっていただけなのかは分からないが、魔力を感知できる私には関係なかった。

 通路は次第に一本道となり、照明の数が減って薄暗くなっていく。

 突き当りにあった分厚い二枚の扉を開けると、驚くほど広大な空間に出た。

 先程の体育館のような場所とは明らかに規模が違う。天井までの高さは軽く百メートル以上あり、奥行きは計り知れない。まばらに灯る白い光が、何十本と立ち並ぶ極太ごくぶとの柱を照らし出し、さながら古代の神殿のように荘厳そうごんな雰囲気をかもし出していた。


 敵は、立ち並ぶ柱の中央にいた。

 ここで再び大量の四ツ足を出されたら、私一人ではさすがに逃げるしかない。

 しかし、敵が取り出したのは、飾り気のない一本の直剣だった。刀身はそれほど長くなく、細身で華奢きゃしゃな印象を受ける。武器を持ったということは、ここで私を迎え撃つつもりなのだろう。

 その時になって初めて、私は自分の武器が対人戦を想定していないことに気が付いた。

 現在りりのたちと共に奮闘している狐をこの場に呼び出せば、勝負は一瞬でつくかも知れない。だがあの狐では、相手を殺さずに捕らえるなどという器用な芸当はできそうにない。それは蝿も首無しも同じことだ。そう考えていくと、私が今この場で使える武器は実質一つしかなかった。


 ぺたぺたぺたぺたと不穏な音を立てて、大きな赤黒のワラジムシが足元に現れる。

 こいつをまともに使うのは初陣の日以来だった。というのも、こいつの触手による拘束力は確かに凄まじいのだが、いかんせん殺傷能力が低過ぎて、害獣の駆除には向いていなかったのだ。

 だが、その殺傷能力の低さが、このような対人戦で役に立つのだから戦いというものは分からない。

 ベキベキと音を立ててワラジムシの背中が割れ、そこから現れた触手が獲物を求めて一斉に飛び出す。強化された眷属の肉体であれば、この触手に縛られても絞め殺されるようなことはないだろう。

 予想通り、最初に到達した数本の触手は敵の剣で難なく切り落とされてしまった。

 だがこの触手の恐ろしいところは、いくら切っても尽きることなく襲いかかって来るという点にある。鋭利な大顎おおあごを持った蜂の害獣でさえこの触手から逃げ切ることはできなかったのだから、眷属がたった一本の剣でこれをさばくのは至難のわざだろう。

 敵に殺到する触手の数が、敵に切られる触手の数をあっという間に上回り、敵の姿が徐々に触手の群れの中に埋もれていく。

 あまりやり過ぎると窒息させてしまうかも知れないな、と心配になってきたところで、不意に触手の動きが止まった。

 いや、相変わらずうねうねと動いてはいるのだが、完全に敵を見失い、どこへ向かえばいいか分からないような状態になっている。

 敵が魔法を発動し、その姿を消したのだ。

 私だけに見える敵の黒い影が残像を引きながら、触手を次々に切断していく。

 慌ててワラジムシの動きを手動に切り替えてみたが、無数にうねる触手の一本一本を正確に操作するのは困難を極めた。

 私が後手に回っているうちに敵は難なく触手の包囲網を突破し、ついにその剣が、触手の本体であるワラジムシの体を真っ二つにした。


 私の足元にいたワラジムシに剣が届く、ということは。

 当然、私自身の体にも剣が届く距離ということだ。

 目の前でぼんやりと霞む黒い影が鋭く動いた。

 これは……まずい。かなりまずい。

 ここは動きの早い蝿を出して撹乱を……いや、近過ぎる。首無しを出して盾に……だめだ、間に合わない。まずは後ろに跳んで距離を稼いでから、首無しを出す。これしかない。

 一瞬の逡巡しゅんじゅんの後、真後ろに跳ぼうとしたところで、ずるりと左足が滑った。

 まさか、こんな土壇場で足を踏み外した?

 だが、そうではなかった。

 見れば、ぱっくりと赤い口を開けた足が床に転がっていて、私の左半身は宙ぶらりんの状態になっていた。

 膝から下が、切断されていたのだ。

 支えを失った体がぐらりと崩れる。地面が近付いていくる。

 転倒しそうになる体をかばおうと突き出した左手の、肘の部分に、ピッと赤い線が入った。

 ゆっくりと体から切り離されていく左腕の、その全体を覆う白い手袋だけがふわりと霧のように消えてなくなり、その下から現れる白く滑らかな爪の乗った小さな手と指先が、いくら動かしても動いてくれなくて。

 私は無様にも顔から床に突っ込んで倒れた。

 ぼんやりと目を開き、目の前に転がる左腕の断面を眺める。白い骨の周りを埋めるピンク色の組織から、ぷつぷつと赤い血が湧き出てくる。

 それを見ながら私は、眷属の契約を交わした時に聞いた空手様の言葉を思い出していた。


 『この世界に一つの生命として具現化している特別製っすよ。怪我をすれば血が出るし、首をはねられれば死ぬっす』


 ……死。

 死ぬ。

 そうだ、このままでは死んでしまう。

 私は、今この瞬間にもとどめを刺されるのではないかと震える心を抑えつけながら、恐る恐る顔を上げて、敵の姿を探した。

 敵はすぐに見つかった。何故かこちらに背を向けて、走り出していた。

 ……助かった、と思った。

 心の底から安堵した。

 私はまだ死なずに済むのだ。よかった。助かった。

 そうやって安心した次の瞬間、私の心の中に、今まで感じたことがないほど強烈な憎悪と怒りが、猛り狂う嵐のように吹き荒れた。

 ワラジムシがやられた時点で、直接的な攻撃手段を持たない私など、ちょんと首をねるだけで簡単に殺せたのだ。だがあいつはそれをしなかった。わざわざ腕と足だけを切り落として、逃げて行った。

 そのかん私は敵がとっくにいなくなっていることにも気付かずに、冷たい石床の上に顔を押し付けて、すぐにでも殺されるのではないかと怯えていたのだ。

 こんな屈辱があるだろうか?

 この魔法少女の肉体は、私の夢、私の理想、私の願いそのものだった。

 それが今や、全てを汚された。取り返しのつかないはずかしめを受けた。


 私は無意識の内に、転がっていた左腕を右手で掴み、肘の傷口へと押し当てていた。

 眷属である私たちには治癒魔法は使えない。こんなことをしても、切断された腕は元には戻らない。

 だが、もはやそんなことはどうでも良かった。私はただ全霊を込めて、腕を押し当て続けていた。

 ぶるぶると肩が震える。どこからか獣のようなうなり声が聞こえて来る。

 右腕の震えが左手にも伝播でんぱしたかのように、ビクリ、ビクリと指先が動いた。

 震えはやがて、明確な意思を持った指先の動きへと変わる。右手を離してみると、左腕は元通りにくっついていた。

 ……いや、元通り、ではなかった。

 肘の傷跡から、鱗のような皮膚が広がり、指先にまで達している。

 皮膚と服とが癒着してしまったかのように、その境目は曖昧あいまいになり、腕のいたる所から赤黒い色の剛毛が生え、また場所によっては歯か骨のような出っ張りや、眼球のようなものさえ見え隠れしている。

 白くて宝石のようだった爪は、今や黒ずんで湾曲し、触れるもの全てを切り裂いてしまいそうなほど鋭く尖っていて、まるで鬼か悪魔の手のようだった。

 気付けば左足も、しっかりと体にくっついていた。……もちろん、左腕と同じように変形した状態で。

 数度、まばたきをする間に、まるで体の左右でバランスを取るかのように、元々無事だったはずの右腕と右足にも変異が伝染していった。

 知らないうちにリボンが解けたのか、うつむいた顔に長い髪の毛がばらりと触れ、それをかき上げようと手で顔に触れると、顔の大部分も手足と同じような変化を遂げているらしいことが感触で分かった。

 視界が、赤いフィルターをかけたようになった。

 逃げていく敵の魔力がはっきりと見えた。幸い、この目は無事らしい。

 どこからか響いてくる、荒々しい獣の呼吸音が耳につく。

 両腕と両足の爪で石床を貫きながらがっちりと地面を掴み、ぐんと体を引き上げるようにして、私は走り出した。

 一歩、二歩、三歩、四歩。

 たった四歩で私の体は敵を追い抜き、目の前にそびえ立つ巨大な柱に、トカゲのように逆さまに貼り付いた。

 敵は、私に追い抜かれたことにすら気付かなかったらしい。突然目の前に現れた私の姿を認めて、慌てて走るのを止めた。その急制動によって、目深に被っていたフードがふわりと脱げた。

 敵の目と、逆さまになった私の目がぴたりと合う。

 一瞬の時間が、走馬灯を見る瞬間のように引き伸ばされていく。

 それは見覚えのある顔だった。

 栗色の髪、色素の薄い肌。

 ……元一、どうしてこんな所にいるの?



 ◆



 俺がその魔法使いと出会ったのは、高校に上がる少し前のことだった。

 親父に連れられて行った街で用事を済ませた後、帰りの電車を待つ間、少しだけ自由時間があった。そういう時、俺は決まって一人で行動することにしていた。

 駅から歩いて数分の場所にある、いかにも平和そうな……親子連れが訪れるような公園のベンチに座ってぼんやりしていると、そいつは突然俺に声をかけてきた。

 自分は魔法使いであり、お前には魔法の才能がある。それを眠らせておくのは惜しい。自分の眷属にならないか……と、要約すればそんな話だった。

 当時の俺は、絶望のどん底にいた。

 この世界には逃げ場なんてどこにもないということを悟ってしまっていた。

 親父の言いなりになって金を動かし、誰かを殺し、自分の心を殺して、そうやって人形のように無意味な時間を、これから先何十年も過ごさなければならないのだ。

 老いて死ぬか、今死ぬか。そこに違いは何もないと思っていた。

 だが、そんな俺に魔法使いは言った。お前の願いを叶えてやる、と。

 俺の願いは、この世界から抜け出すこと。血のしがらみから解き放たれ、俺という一人の人間として生きること。それ以外に望むものはない。

 魔法使いは、自分が秘密裏に計画している実験を手伝ってくれたなら、その程度の願いは自ずと叶うだろうと言った。

 何から何まで胡散臭い話だった。しかし、俺は絶望の底にいながらも、たったひとかけらの願いを捨て切れずにいたのだ。

 地獄に垂らされた糸に毒が含まれいると分かっていても、それを掴まなければ、もう二度とチャンスは巡ってこないかも知れない。

 そうして俺は糸を掴んだ。

 俺は、魔法使いの眷属になった。


「もしも俺が魔法使いから眷属にならないかと勧誘されたら、どうすればいい?」


 帰りの電車内で魔法使いと眷属の契約を交わし、何食わぬ顔で家に帰った後、ちょっとした思いつきで親父に投げかけてみたその質問は、この世界に対する俺なりの宣戦布告だった。


 俺の魔法を見た魔法使いは、これほど稀有けうで有用な魔法は見たことがないと絶賛してくれた。

 恥ずかしい話だが、俺はこれまでの人生で他人からまともに褒められたことがほとんどなかったので、この魔法使いの言葉は相当心に響いた。

 俺は暇を見つけては壁を越え、ひたすら鍛錬を積んだ。魔法使いには他に眷属がいないらしく、俺は魔法使いから直々に手ほどきを受けることができた。

 魔法使いの協力者だという【幻想の魔法使い】が作り出した空間で、様々な眷属の幻影とも戦った。

 親父からの教育によって感覚が麻痺していた俺は、訓練の内容が害獣ではなく眷属と戦うためのものに特化していることに、何の違和感も覚えなかった。


 高校に入学してからも、俺は時々授業を早退しては魔法使いと会っていた。

 五月に入った頃、街に害獣を侵入させる手伝いをした。それは拍子抜けするほど簡単な仕事だった。

 やはり自分の魔法とお前の魔法は相性がいい。魔法使いはそう言って、珍しく満足げに笑った。

 ひょっとして俺はとんでもない間違いを犯しているのではないか……あるいはそんな考えが、その頃から頭の片隅にはあったのかも知れない。

 しかし、俺は既に引き返せない道を選んでしまっていた。その選択が間違いだったなどと認める訳にはいかなかった。

 俺は必ず自由になる。そのためならば、多少の犠牲はやむを得ない。

 だが、その『犠牲』という言葉を意識する度に、高校で出会った二人の友人の顔が頭に浮かぶのだった。


 追悼式の日に実験計画の一つを実行する、と魔法使いは言った。

 俺に与えられた役割は二つあったが、どちらもそう難しいものではなかった。

 一つは、街に害獣を侵入させた時と同じ要領で、会場付近に仕込みをするという作業。魔法使いがこれを使って追悼式当日に、大量の害獣を出現させる。

 もう一つは、【空手の魔法使い】の眷属を一人、人気ひとけのない場所まで連れ出す……つまり誘拐するということだった。

 魔法使いから見せられた写真のようなものには、中学生くらいの少女が写っていた。特徴的な髪の色と、派手な衣装。これだけ目立つ外見なら見間違えることはなさそうだな、と思った。

 どうしてこんなテロのような真似をするのか、魔法使いが計画している実験とは一体何なのか、結局俺は何一つとして教えて貰えなかったが、自分から聞こうとも思わなかった。

 これまでに散々害獣をけしかけておいたのだから、当日の警戒レベルは最高になっているだろう。だから例え大量の害獣で襲撃を行ったところで、人的被害はほとんど出ないはずだ……と、魔法使いは言っていた。

 それは俺を安心させるための方便だったのかも知れないが、俺としては割とどうでもよく、むしろ親父が害獣に殺されてしまえばいいのにとすら思っていた。


 そして追悼式当日。

 少女を誘い出す予定の洪水調節水槽――要は馬鹿でかい地下空間だ――及びそこに繋がる浄水施設は、事前に魔法使いによってクリアリングされているはずだった。

 しかし実際にその場に着いてみると、外部からの眷属が警備に来ていた。

 俺はやむなくそいつを殺した。放っておけば、そいつに邪魔されて目的の少女が施設内まで追ってこれなくなる可能性があったからだ。

 いくつかのイレギュラーをどうにか乗り越え、俺はついに少女一人を誘い出すことに成功した。

 魔法使いからは、絶対に殺してはならないが、抵抗するようなら手足の一、二本は落としても構わないと言われていた。眷属ならばその程度で死ぬことはないからだ。

 俺は深く考えず、魔法使いの言う通りにしようと思った。

 見るからに眷属との戦いに慣れていない様子の少女は、可哀想になるほどあっけなく地面に倒れ伏した。

 腕と足を失いながらも、未だに自分に何が起こったのかすら分かっていないような表情。

 それを見ているうちに、俺はふと、我に返ってしまった。

 俺は一体何をしているんだ?

 こんな小さな女の子を切り刻んで、無関係な人間を殺して……これではまるで親父と一緒ではないか。

 気付くと俺は少女に背を向けて走り出していた。

 あの様子なら魔法使いが来るまで動けないだろう。少女の仲間たちが助けに来るかも知れないが、後のことなど知るものか。俺に与えられた任務は終わったのだ。今はもう、何も考えずに家に帰り、泥のように眠ってしまいたい。


 ――その時、背後から強い風が吹いた。

 べしゃり、という異音。

 何事かと顔を上げると、目の前の太い柱の中ほどに、見たことがないような異形の怪物が逆さまになって貼り付いていた。

 俺は慌てて足を止めた。その勢いで被っていたフードが跳ね上がった。怪物の赤と金色の瞳が、俺の顔を覗き込んでいた。それはさっきまで戦っていた少女の瞳によく似ていた。

 本能が麻痺してしまったかのように、何も感じなかった。

 ただ漠然と、ああ、俺はここで死ぬのだな、と思った。

 そうして死を意識した瞬間、俺の頭の中に、一人の女の子の笑顔が浮かんだ。

 りりの。最後にもう一度――



 ◆



 敵の正体が元一だったことにはとても驚いたけれど、それ以上に、私は安堵していた。

 相手が元一なら、まだ話し合いの余地がある。

 眷属を一人殺してしまったことはもうどうしようもないけど……それでもちゃんと理由を説明して、罪を償って欲しいと思う。

 元一だって、私の正体がショウだと知っていたら、きっとあんなひどいことはしなかっただろう。元一にもきっと何か事情があったに違いない。だから私を殺さなかったんだ。

 まずは話そう。変身を解いて、正体を明かして、もう戦う必要はないんだって。

 そうだ、元一も眷属だったのなら、もう私が魔法少女だということを隠す必要もないんだ。

 これからは女の子の私として、堂々とアタックすることができる。りりのと三人で、一緒に害獣と戦うことだってできるかも知れない。

 ああ、本当に良かった。一時はどうなることかと思った。

 良かった……。


 ……なんだか、変な味がクチの中に広がっていた。

 今まで一度も味わったことのない……なんだろう、甘いような、酸っぱいような……例えようがないけれど、すごく好みの味だ。

 真夏の日差しに照らされてカラカラになった地面に、じゅわっと水が染み込むみたいに。体の隅々まで満たされていく。

 思い切ってゴクリと飲み込むと、体の奥底がカッと熱くなって、とんでもない力と活力が溢れてきた。

 なんだろう、これ。もっと……もっと欲しい。

 ふと、いつの間にか私は地面に両手と両足をつけていることに気が付いた。

 振り返ると、さっきまで私が貼り付いていた太い柱は無残に蹴り砕かれていて。

 くるくると宙を舞っているのは……まるで人間の上半身のように見える。

 それを見た途端、私の体は無意識に動いていた。床を蹴り、溢れ出る力が勢い余って天井にぶつかってしまい、そこから更に天井を蹴り砕いて、自由落下を始めた敵の上半身に向けて両手を広げる。

 元一。

 ああ、元一。よかった。君が、君がいる。



 ◆



「――――ショウコちゃん!」


 はっと目を覚ますと、鼻と鼻がくっつくほど近くに、りりのの顔があった。

 ひんやりとした石の床。高い天井に、いくつもの太い柱。

 私はいつの間にか眠ってしまっていたようだった。


「良かった……目、覚ました」


 りりのがガバッと抱きついてくる。大きな胸がふにょふにょと顔に当って鬱陶しい。

 初陣の日以来、私が変身しているとりりのは隙を見ては抱きついてくるようになったため、胸の防具が当って痛いと抗議したことがあったのだ。それから、りりのは防具をつけるのをやめたらしい。そこまでして抱きつきたいのか……と呆れたが、まあ痛いよりはマシだ。


「外傷もないし、呼吸も脈拍も正常だから大丈夫だと言ったでやんすが……りりの殿は心配性でやんすねえ」


 りりのを引き剥がしながら体を起こし、声のした方へ顔を向けると、カラオくんがこちらに背を向けて立っていた。

 そういえば、二人ともあの四ツ足の群れを無事に切り抜けたんだ……。私も狐を出して途中までは一緒に戦っていたはずなんだけど……あれ、どうなったんだっけ?


「さて、ショウコ殿。目を覚ましたばかりで悪いでやんすが、色々と教えて欲しいでやんす。まず、 敵はどうなったでやんすか?」

「えーと……確かここで敵に追い付いて……戦ったような……いや、追いかけたんだっけ……? あれ……おかしいな、覚えてない……」


 ここで敵に追い付いたのは確かだと思う。

 しかし、そこから先の記憶は曖昧あいまいで、何がどうなったのか、私はすっかり忘れてしまっていた。


「ふーむ……これはそれがしの推測でやんすが、ショウコ殿は『象』を使ったのかも知れないでやんすな」

「象って、ショウコちゃんが初めて戦った日に害獣の群れを一掃したやつのことだよね? あんなのを敵の眷属一人に?」

「某たちの時と同じように、大量の害獣を出されたのかも知れないでやんす。ほら、天井が壊れているでやんしょ? あの巨体をこの空間内に収めようと無理をした反動で、記憶が欠落したんじゃないかと思ったでやんす」


 言われてみれば確かに、普通に戦っただけでは、あんなに高い天井部分が壊れるはずがない。そしてその直下の石床は、ミサイルでも落ちたのかというくらいめちゃくちゃに破壊されていて、近くの太い柱も何本か折れているという状態なのだ。これほどの破壊をもたらすとしたら、あの象以外にあり得ないだろう。


「敵は……どうなったのかな」


 私が呟くと、カラオくんは眉間みけんけわしくしわを寄せてうつむいた。


瓦礫がれきの中に……所々、黒い布の欠片と血液のようなものが見えるでやんす。恐らく……」


 まあ、予想はついていた。敵がいくら姿を消せると言っても、あの象の無差別攻撃の前では何の意味もない。

 つまり私が……きっと、殺してしまったということなんだろう。


「ショウコちゃんは悪くない」


 りりのはそっと私の肩を抱きながら呟いた。

 私が人を殺してしまった罪悪感にさいなまれていると思ったのだろう。

 しかし当の本人である私はただ、そうか、と思うだけだった。

 なにせ本当に全く覚えていないのだ。実感も何もあったものじゃない。

 しかし、それをそのまま口に出すのも躊躇ためらわれたので、私はしばらくの間、りりのの腕の中でされるがままになっていた。

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