7 初陣1


 改めて人類の敵について理解したところで、今この瞬間が平和であるならば、害獣など存在しないのと同じことなのかも知れない。

 私はここが敵陣の真っ只中であると分かっていながら、それに見合うだけの緊張感を持てずにいた。りりのや魔法使い様が一緒にいるという安心感も手伝ってか、まるで遠足のような和やかな気分にさえなってくる。

 他愛のないお喋りをしながら歩いていると、不意に黒いもやのようなものが視界の中に現れた。

 実際に黒い何かが近くにある訳ではない。今見ている景色に別の映像が重なっているような感じだ。


「あれ……」

「どしたのショウコちゃん?」

「何か黒いものが見えて……」

「おっと、お喋りはそこまでみたいっす。来たっすよ。前方、人型が一体」


 魔法使い様の言葉に反応し、りりのとカラオくんが一瞬で臨戦態勢に入る。

 私はただぼんやりと立ち尽くしていた。

 どうやら和やかな気分になっていたのは私だけだったようだ。


「空手様が一緒だと事前に分かって楽でやんすねえ」

「不意打ちが一番怖いからね……。アタシがやる、二人とも下がってて」


 言われた通り、私たちはりりのから距離を取った。

 そうしている間にも視界の中の黒い靄はどんどん大きくなっていく。


「あ、りりのさん。今日はショウコちゃんの武器を確認するのが狙いなんで、弱らせたらこっちに寄越よこして下さいっす」

「えっ? どういうことですか?」

「どうもうまく武器が出せないみたいなんすよ。だから本物の害獣と戦えば出せるかなーと思って」

「あーもー、そういうことは先に言っといて下さい! 遊びじゃないんですよ!」

「いや~うっかりうっかり。申し訳ないっす」


 全然申し訳なさそうじゃない魔法使い様をキッと睨みつけると、りりのは槍を振るって周囲の草木を切り倒し始めた。

 小さな竜巻のような勢いで振り回される槍の前では太い木も絡み合う蔓も細切れになって吹き飛び、あっという間にちょっとした広場が出来上がる。

 なるほど、今のはただの八つ当たりではなかったらしい。長い槍で戦うなら、障害物がなく視界が開けている方が有利だ。

 しばらくすると、重機のような振動が地面から伝わってきた。

 お腹の底に響く音が大きくなるにつれて、視界の中の黒い靄も大きくなっていく。

 害獣が近付くほどに大きくなる……となれば、さすがにこの黒い靄の正体にも察しがつく。これは恐らく私の目が害獣の魔力を感知しているのだ。りりのとカラオくんには見えていないようだから、これは私個人の能力なのだろう。

 ……ああでも、空手の魔法使い様も私とほぼ同時に害獣を見つけていたようだから、そんなに特別なものでもないのかな……?


「……来た」


 ドンッ、と大きな揺れを感じたかと思うと、人型の害獣が木々の隙間から飛び出してきた。

 初めて本物の害獣を見た最初の感想は、「黒い」だった。

 それは頭からコールタールをぶちまけられたように不自然に黒く、そして遠くから見ても分かるほど大きい。

 身長は三メートル以上はあるだろうか。

 毛髪のない頭と肥満体の胴の間には境目がなく、胴体の上に大きな三角形のおにぎりが乗っているような感じだ。

 目があるべき場所には虚ろな穴がぽっかりと開いていて、口は人間で言う耳のあたりまでばっくりと裂け、そこから覗く無数の歯がギラギラと光を反射している。

 異様に発達した両腕は地面に届くほど長く、短い足を補うようにして走るらしい。

 人型の害獣は四ツ足に比べて動きが鈍いと教わっていたが、実際に向かってくる姿を目の当たりにすると、その速度はとても遅いとは言えない。足と両腕を器用に使い、巨体が飛び跳ねるようにして突進してくる様は、例えるならトラックの運転席部分だけが事故で吹っ飛んで転がってくるかのようだ。


「後ろ、もうちょっと下がってて!」


 りりのはそう言うや否や、突進の軌道から逃れようともせず逆に自分から突っ込んでいった。

 開いていた二者の距離が一瞬でゼロになる。

 無造作に振り下ろされた害獣の拳をいなすように、りりのの槍が緑色の残光を引きながら巨大な腕の側面を滑る。

 それはまるで闘牛のようだった。

 わずかに槍で軌道をそらしただけで、害獣の拳は勝手に目標から外れていく。

 害獣はそのままの勢いで地面に突っ込み、しばらく転がってからようやく動きを止めた。


「よし。もうソイツまともに動けないから、ショウコちゃんやっちゃってー!」

「えっ、今ので?」


 腕に傷を付けただけなのに? と思ったが、起き上がった害獣は確かに驚くほど動きが鈍くなっていた。

 槍で切り裂かれた片腕から黒い体液が流れ出ているものの、やはり傷自体はそれほど深くない。にも関わらず、ずるりずるりと腕を引きずるようにして歩いてくる様子は、先程見せた突進が嘘のように弱々しい。


「お見事。やはり毒は便利でやんすな」

「毒?」

「りりの殿だけが使える魔法でやんすよ。あれがあるから彼女は一人で害獣の群れを相手にすることもできるでやんす」


 なるほど、魔法で作られた毒なら害獣にも効くだろうし、普通ではあり得ないほど効きが早いのも納得がいく。小さな傷を一つ負わせれば勝ったも同然なのだから、人型の害獣が何体来ようと物の数ではないのだろう。

 しかし、ふとどうでもいいことが頭の片隅に引っかかった。


「……ちょっと待って、毒も魔法で作られてるんだよね? じゃあ自分の体から離れた時点で消えちゃうんじゃないの?」

「んん……確かに言われてみればそうでやんすな……はて……?」

「それはっすねー、害獣の魔力を利用してるからっすよ」


 二人して首をかしげていると、空手の魔法使い様が答えを教えてくれた。


「確かにりりのさんの体や武器から離れた毒は直ちに消えてしまうっすけど、害獣の体内に入った毒だけは害獣の魔力を利用することでその存在を維持し続けるっす。寄生虫みたいな感じっすね」

「うわあ……」

「なので魔力をほとんど持たない生物には無害っすけど、万が一眷属の皆さんの体内に彼女の毒が入った場合、マジで死ぬまで解毒できないっすからね。気をつけるっすよ」


 思っていたよりも凶悪な魔法だった。

 ふと隣を見ると、カラオくんが引きつった笑みを浮かべている。

 無闇にりりのを怒らせないように気をつけようと心に誓ったのは私だけではなかったようだ。


「ちょっとちょっとそこの三人、なんで雑談してんのよー! 害獣行ってるよー! もーなにしてんのー!」

「あ、ごめんねー!」

「ンモーかわいいから許す!」


 一瞬害獣の存在を忘れてお喋りに没頭できてしまうほど、りりのの毒は効果抜群だった。

 しかし、いくら動きが鈍くなっていても害獣は害獣。

 近くで見上げるその巨体からは、おぞましいほどの殺気が漏れ出ているかのようだ。


「弱っていても掴まれると危険でやんす。気をつけるでやんすよ」

「ショウコちゃん、魔法の力は願いの力っすよ。願いを胸に抱くっす」


 二人の激励を受けて、私は一人害獣と向き合った。

 これが私の初陣だ。

 一歩、二歩と近付き、ついに害獣の間合いに入った。

 ピリピリとした緊張感が肌を刺す。

 さっきまでの冗談のような空気はもうどこにもない。

 害獣がその大きな腕をゆっくりと振り上げる。

 弱っているとはいえ、あの手で押し潰されれば無事では済まないだろう。

 今、この害獣は私を殺すためだけに動いているのだ。

 ……私を殺す?

 絶望と願いの果てにようやく手に入れた大切なこの体を、壊そうというのか。

 自らをおびやかす純粋な暴力を目の前にしてようやく、今まで抑えつけてきた感情が爆発的に膨らんだ。

 誰に向かって拳を振り上げている。

 許せない。

 この体を傷つけようとするものは誰であろうと、何であろうと許さない。

 武器が必要だ。

 何でもいい、目の前に立ちはだかるこのれ者を破壊するための、武器を。


 自分のものではないような思考が頭の中を支配したのは一瞬だった。

 その一瞬で、目の前の害獣は頭部から胸の中心部までをごっそりとえぐり取られていた。

 ゆらり、巨体が仰向けに倒れる。

 大きな地響きだけを残して、その害獣は二度と動き出すことはなかった。


「なに、コイツ……どこから……!」

「見たことのない体色でやんす……すぐに襲ってこないところを見ると、恐らく変異種でやんす!」


 自分でもよく分からないうちに勝手に害獣が倒れてしまった。空手の魔法使い様が手助けをしてくれたのだろうか。……それにしてもさっきから二人は一体何を騒いでいるのだろう。

 りりのとカラオくんの方に視線を向けてみると、臨戦態勢で向かい合う二人の間に、大きな赤黒い狐のような獣が優雅に座っていた。

 それがどのくらい大きいかと言うと、座っている状態で私が変身する前の身長を軽く越えているくらいだ。その四つの足を地につければ、乗用車程度の大きさにはなるだろうか。


「空手様! 初めて見るタイプでやんすが、攻撃してもいいでやんすか!?」

「いや……その必要はないっす」


 不意に、その獣と視線が合う。


「それは害獣じゃないっす。その獣こそが、ショウコちゃんのみたいっすね」

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