2 戸越街1
見知らぬ天井を見上げる。
ベッドの周りがカーテンで囲われているので、ここは病院なのだと分かった。
ずいぶん長い間眠っていたような感覚があった。
一睡もできないような日々が続き、とうとう倒れてしまったのかもしれない。
先輩のお通夜に行った後くらいから記憶がぼんやりとしている。
そこでふと気付いた。
あれほど体の中に溜まっていた真っ黒な泥のような気持ちが、嘘のようにすっきりとしていた。
先輩のことを考えても感情が波立たないなんて、私は一体どうしてしまったんだろう……。
「おお、おはよう」
体を起こすと、
「うちの前に倒れていたんだが、覚えているかな?」
やはり歩いているうちに倒れてしまったのか……。きっとこの人が救急車を呼んでくれたのだろう。
布団を上げて自分の体を見下ろすと、中学の制服姿だった。通学途中だったのだろうか。まったく記憶にない。
「すみません、あの……ちょっとよく覚えていなくて」
「ふむ。医者が言うには脳にも体にも異常はないということじゃ」
「あの、色々とすみません、ありがとうございます。それでここは……」
すぐ近くにビルでも建っているのか、窓からは灰色の壁が見えるばかりだった。
一度だけ隣町の中央病院に行ったことがあるが、あの病院の近くに大きな建物は何もなかったはずだ。つまりここはもっと遠くの病院ということになる。
「……ここはどこですか?」
「ん? ああ、ここはわしの
……何か引っかかる言い方だが、私が聞きたいのはそこではない。私は自分の住んでいる地名を告げた。
「聞き覚えないのう……おい、知っとるか?」
おじいさんが後ろに声をかけると、ベッドを囲んでいるカーテンが開いて大柄な男性が姿を見せた。
年齢は五十代後半くらいだろうか。こげ茶色に染まった髪は狼のように撫で付けられており、黒のサングラスに
「俺も聞いたことはありませんね。少なくともこの辺にはなかったと思います」
二人とも知らないということは、かなり遠くまで来てしまったようだ。
「あの、ちなみにここは何という所なんですか?」
「ここ?
「戸越?」
どこかで聞いたことがある。
そういえば田舎に来る前、父と母と三人で暮らしていた家の近くに、そんな名前の駅があったような……。いや、だとするとまさかここは。
「戸越って、東京の戸越ですか……?」
「変なことを聞くのう。そうとも、東京の戸越よ」
おじいさんは笑いながら、当然のことのように言った。
これは何かのドッキリなのだろうか。
子供の足で、あの田舎から東京まで歩いたとしたら、一体どれだけかかると思っているのか。
と、そこで気が付いた。
そういえばあれから、先輩のお通夜の日から、何日経っているんだろう?
二、三日は家と学校を往復していたような記憶があるけれど、そこから先があやふやだ。
ずいぶん時間が経過したような実感はあるものの、だからといって、何週間も無意識のうちに歩き続けたというのはさすがに無理がある。
「今日って何日ですか?」
「ほれ、そこに時計がある。二十日だね」
振り返ると、壁に時計がかけられていた。アナログの文字盤の下にデジタルで日付などが表示されるタイプだ。五月二十日、木曜日。
私の頭は完全に混乱した。
先輩のお通夜があったのが、五月二十日の土曜日だったからだ。
過去に戻っている? いやしかし曜日が……。
「……あっ」
時計を凝視しているうちに、私は気付いてしまった。
『2060』
西暦を示すべき場所に、確かにそう書かれていることに。
「これ、2060って……」
「うん? 合っとるよ。なあ?」
「ええ」
「再来年は百周年だからの、感慨深いことだよ」
百周年というのが何のことかは分からないが、二人の反応からして表示が間違っているわけではないようだ。
私がいたのは2017年。ということは、ここは今から四十三年後の世界……?
しかし、未来にしてはこの病室はずいぶん古びているように見えた。まあ古い建物が残るのはいつの時代でも同じだろうけど……。
「なんだい、目が覚めたんならさっさと出てっとくれ。健康な人間を寝かせとくベッドはないんだよ」
扉が開く音に続いて、男性とも女性ともつかないしわがれた声がカーテンの向こうから聞こえた。
「やれやれ、あいつは腕は確かなんだが口が悪くていかんな……」
おじいさんは苦笑しながら立ち上がる。
「さて、立てるかね。行くところがないなら一緒に来なさい。寝る場所くらいは貸してあげよう」
このまま置いていかれるのかと少し不安になっていた所に、そのお誘いはとてもありがたいものだった。
ベッドから降りてみると、少しふらつくものの、体には特に異常はないようだ。
手足の調子を確かめていると、いつの間にか私とおじいさんの間に、それまでずっと後ろで控えていた大柄な男性が割り込んでいた。
「親父、俺はやはり反対です。子供を鉄砲玉に使うのはよくある手です」
「お前がそう言って聞かないから、最初にちゃあんと持ち物を調べただろうに。なんも持たずにどうするっちゅうんじゃ」
「いくらでもやりようはあります。それに子供を潜り込ませて情報を流させるやり口だって……」
「くどいのう、
「親父に万が一のことがあったら、俺は死んでも死にきれません」
「相変わらず固い。それが良いところでもあるが……わしの目が大丈夫と言っとるんじゃ。分かるな? 分かったらそれくらいにしておけ」
「……差し出口を利きました。失礼しました」
六狼と呼ばれた男性は軽く頭を下げると、サングラスの隙間から鋭くこちらを
……なんだろう、今のやり取り。
いや、なんとなくそんな予感はしていたけれど、もしかしてこの人たち、いわゆる道を極める系のご職業なんだろうか。
気がついたら四十三年後にタイムスリップしていて、しかも田舎から遠く離れた東京に来ていて、さらにこれから怖い人たちのお世話になるのだ。もう意味がわからない。
「そういえば、名前を聞いてなかったのう。わしは
「あ、どうも……僕は……翔といいます」
「ショウか。いい名前じゃの」
「……どうも」
私の混乱などお構いなしに、現実は淡々と、ありのままの姿を突きつけてくる。
こんな状態で色々考えても仕方がない。今はただ流れのままに任せるしかない。
私はなるべく頭の中を空っぽにしようと努めながら病院の外へ出た。
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