1 先輩2
先輩は私のことを
虎の威を借る狐だの何だのと陰口を叩かれていることは知っていたが、物理的な痛みを伴わない陰口などぬるま湯のようなものだった。
「おまえは、アレか。周りのヤツらがなんかコソコソ言っとるが、男が好きなんか」
ある日、本当に何でもないことのように先輩は言った。
私のあだ名は小学校から変わらず『オカマ』であり、あいつは男が好きに違いないなどと言われていたのだけれど、なんとも複雑なことに事実それはその通りで、私は先輩のことが好きになってしまっていた。
この田舎に越してきてから、人に優しくされたのなんて初めてだったのだ。これはもうどうしようもないことだろう。
しかし私は、先輩に自分の気持を打ち明けるつもりはなかった。
先輩は男の子で、私も男の子のきぐるみを着ているのだ。うまくいくはずがない。
それよりも先輩の友人として、共通の趣味について話し合える時間のほうが、ずっと尊いものだと思っていた。
「なんと説明したらいいか、難しいんですが……」
自分が本当の自分ではないという感覚。いつも間違った皮を被って生きているような違和感。そんな言葉にならないようなことを、私はもどかしく思いながら説明しようと
「たぶん僕は、本当は女の子で、この僕は間違いなんだと思います……って、わかってもらえないかもしれないけど……」
先輩はしばらく難しそうな顔をしていたが、やがてポツリと「わからんでもない、かもしれん」と言った。
「俺は男だけどこういう本が好きで好きで心底
それからまた先輩はしばらく黙った後、ポンと膝を打って言った。
「とにかく、おまえはナリはそんなだが中身はオトメっちゅうことだな。なんだシンプルな話じゃ」
「オトメですか」
私は先輩の口からそんな言葉が出てきたことが妙におかしくなってしまって、ニヤニヤ笑いを抑えるのが大変だった。
「おう、おまえな、オカマだなんだと下らんことを言ってくるヤツがいたらな、やかましい俺はオトメじゃと言ってやれ。なんも間違ったことはない」
「はい」
「なに笑ってる」
「いえなにも……」
こんなにも笑ったのは初めてだった。涙が流れるほど笑って、先輩の顔がよく見えなくなった。
普段大したものを食べさせてもらっていない私も、成長期に突入してからは雨後のタケノコのような勢いで背が伸びた。
体が大きくなるにつれて気持ちも大きくなり、ついでに先輩の助言を実行するようになると完全に吹っ切れて、もう私をサンドバッグ代わりにする人間は誰もいなくなった。
オトメごころとしては少し複雑だったが、それよりも当たり前の平和な日々が嬉しくてたまらなかった。
こんな毎日がずっと続けばいいのに、などと、小説で悪いことが起こる前にありがちな考えを抱いてしまうほどには、幸せだった。
学年が一つ上がってしばらく経った頃。
先輩が事故で亡くなった。
部活で遅くなった帰り道で、車に轢かれたらしい。
先輩を轢いた車はそのまま逃走し、翌日の夜になってようやく犯人の男が自首したのだという。
動物をはねたと思ったが、暗くてよく見えなかった。一晩たってからもしやと思い、警察に行った……などと供述していたらしい。
しかしその男は地元では知られた酒飲みだった。飲酒運転で捕まるのはまずいと考え、アルコールが抜けた頃に出頭したのではないかと、お通夜の席で近所の人たちが噂していた。
先輩は轢かれてからしばらくは意識があったらしく、先輩のお姉さんの携帯に一度電話があったのだという。
どうしたの、と呼びかけても無言で、お姉さんは先輩がスマートフォンを誤って操作したのだろうと思ったそうだ。
先輩は生きていた。
すぐに救急車を呼べば助かったかもしれない。
でも誰も助けてくれなかった。
どうして先輩が? 私の頭の中はそのことでいっぱいだった。
先輩は死ぬべき人ではなかった。
どうせ死ぬなら私が……いや、もっと他に、死ぬべき人間はいくらでもいたのではないか?
思い起こせば父も車にはねられて死んだのだ。
父を轢き殺した犯人はどうなっただろうか。のうのうと逃げ延びている可能性もあるし、捕まったとしても五体満足で生きていることは間違いない。
母の心を壊した奴らはいくらかのカネを懐に入れて僅かな優越感を得ながら、またいつも通りのつまらない人生を送っていることだろう。
人を傷つけて、殺して、平気な顔をして生き続けている人間たち。
私を散々殴ってきたクラスメイトは、自分たちのやったことをいつまで覚えているだろうか。
昔は悪いこともたくさんしたけれど、大人になって心を入れ替え、あの頃したことを反省しつつ人間として成長できたなどと言って健やかに生きていくのだろうか。私の心の中には一生残り続ける傷があるというのに。
先輩のこと、自分のこと、家族のこと。絶望や怒り、悲しみ、それらが脈絡もなく混ぜ合わさってできた粘度の高いドロドロとしたものが次第に体の中に満ちていった。
眠れない日々が続いた。
そしてある日。
目を覚ますと、そこは病院のベッドの上だった。
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