第2話 鏡の中の私が慄く

薔薇の舘。郊外にあるその屋敷の庭園には色とりどりの薔薇が咲き乱れ、訪れたものを甘い香りで包み込むことからそう呼ばれていた。

 薔薇園の管理を任されている庭師のロッソは、この舘の主の一人娘が不憫でならなかった。

 エミリア・ヴァン・シルヴァニア。今年10歳になる娘は小さな手にあかぎれを作り、成長すれば花も霞むほどの愛らしさを持つ顔は煤汚れていた。

 ロッソがこの舘に来てから30数年。生まれたばかりの赤子からその成長を見守っていたロッソにとって、彼女は本当の孫のようで目に入れても痛くないほどに可愛がっていた。

「お嬢様、水汲みなんてわしがやりますから……どうかもうお休みなってください」

「だめよ、ロッソ。日が昇るまでに、舘中の埃をふき取ってしまわないと。またお義母様とお義姉様に怒られてしまうもの」

「そんな無理です。この舘を朝までにお一人で掃除なさるなんて……そのようなことはわしが致しますからお嬢様はもうお休みになってください」

「でもあなたは朝早くからお庭の手入れがあるでしょう? 夜明けまでお掃除なんてしていたら、倒れてしまうわ」

「いいえお嬢様。このロッソ、たとえ齢60越えの老体としても、可愛いお嬢様のためならばどんな無茶も致しましょう。幸い、本日は奥様もヴェロニカ様も屋敷にはお戻りにならないと言伝を頂いております。でしたら誰が掃除をしたところで、お二人にはわかりません」

「……ありがとう、ロッソ。でも、用を言いつけられたのはわたしだもの。わたしがしなければいけないの。この桶と雑巾を借りて行くわね」

「エミリアお嬢様……わしは、わしは本当に口惜しい。貴女様はシルヴァニア家の正統な血筋であらせられますのに、なぜこのような扱いを受けねばならないのか。まだたったの10歳だというのに」

「……お父様が再婚なさって、もう5年ですもの。屋根裏部屋の湿気たベッドの匂いも、端切れを縫い合わせて繕った服にも、もう慣れっこよ。きっともっと大きくなったらどこへ行っても一人で生きていける気がするわ」

 ロッソはエミリアのかさついた指先を包み込んで、悔しげに涙を流す。長年の庭仕事で日に焼けた肌から流れ落ちる滴は透明なまま、彼女の干上がった手に潤いを与えた。

 エミリアの父、エミリオ・ヴァン・シルヴァニア公爵は、前妻であるアリシアを病気で亡くした。それはエミリアがまだ5歳のころだった。

妻を亡くし悲しみに暮れていたエミリオを優しい愛で満たした女がいた。それが、後妻となったクリスティーナ・ローガンだった。クリスティーナも早くに夫を亡くし、未亡人としてローガン家を一人で支えてきた。その不屈の精神と母性あふれた優しさが、妻の死というエミリオの悲しみを癒し、クリスティーナは中流階級でありながら公爵家の後妻という立場を手に入れたのである。

「なぜ旦那様は、お嬢様の境遇を知りながら……奥様の暴行をお許しになるのか……」

「仕方ないわ。お父様はわたしを恨んでいるのだから」

「そんな……お嬢様……」

「さあ、おしゃべりは終わりよ。早くおそうじしなきゃ、夜があけてしまうわ」

古井戸から水を汲んで、それを桶に移し替えてから細い両腕で桶を抱える。

「ああ、お嬢様、そんなことはわしが……」

 これでは堂々巡りだと、エミリアは嘆息した。ロッソの申し出はありがたいが、もしばれてしまったら、義母と義姉から厳しいお仕置きが待っている。でも結局朝までに拭き掃除を終わらせなければ、折檻されるのは間違いない。それなら……とエミリアは持っていた雑巾を一つ、ロッソに手渡した。

「じゃあ、わたしは舘の西側を拭いていくから、ロッソは東側をお願いするわ」

「承知いたしました。では――」

 二人で舘の中へ入ろうとしたとき、舘の扉から愛犬が激しく吠えながら庭へ飛び出してきた。

 門へ向かって駆け出そうとしていた犬の首を、慌ててロッソがつかむ。

「こりゃこりゃアルフ、やめんか! すみません、お嬢様。すぐに静かにさせますんで」

「待って、ロッソ。アルフレッドが何もなくこんなに吠えるなんておかしいわ」

 ゴールデンレトリーバーのアルフレッドは、仔犬の時からエミリアが可愛がっている愛犬だ。薔薇の舘には門番はいない。このアルフレッドが門番であり、小さなエミリアの騎士だった。

 そのアルフレッドは警戒心をむき出しにして、舘の門に向かって吠え続けていた。

「もしかして、誰か外にいるのかしら……?」

「あっ、いけません、お嬢様!」

「大丈夫、こっそりのぞくだけだから」

 エミリアはロッソから犬を受け取り、そのまま門の近くまで歩き出した。

 庭園から門まではさほど距離はなく、ゆっくりと人の気配を確認しながら進む。

「誰か、いるの?」

きぃ、と高い金属音と共に、そっと門を開ける。むせかえるようなきつい薔薇の香りに交じって鉄の錆びたような香りが鼻についた。

 そこで見た光景に、エミリアは思わず悲鳴にも似た声を上げていた。

「……ロッソ!! ロッソ、来て!!」

 舘の門にもたれかかるように倒れていたのはトレンチコートを羽織った男だった。

 黒髪の男は青白く血の気が失せていて、その原因は腹から流れている血だとわかる。煉瓦造りの路地に血の跡がぽつぽつと残っていることから、男は何とかここまで歩いてきたが門の前で力尽きたようだった。

「こりゃいかんっ! あんた、どうした!? おいっ」

「…………う」

男の眉がかすかに動いて、かさついた唇から消えてしまいそうなかすかな声が漏れた。

「かろうじて息はあるようですが、すぐ医者に連れていかんと……」

「そ、そうね。じゃあ馬車を呼んで……っ!?」

 おもむろにエミリアの腕が男に掴まれた。気を失っていると思っていたはずの男のあまりの力強さに、エミリアは驚いて目を見開く。

「あ、あんた! お嬢様から手を離せ!!」

「待って、ロッソ。このひと、何か言っているわ」

「え?」

 男は薄く口を開けて、ぱくぱくと何かを伝えようとしていた。エミリアはその唇に耳をそばだて、男の声を聴く。

「……医者、は……やめ、ろ」

「お医者様はだめなの? どうして?」

 エミリアの問いかけに男は答えないまま、瞼を固く閉じた。

「また気を失ったようです。どうされますか、お嬢様……」

 眉間にしわを寄せて血の気を失っている男の顔を、幼い少女の手が撫でる。

 エミリアはまだ温もりのある男の肌に触れて、意を決したように口を開いた。

「この人を私の部屋に運んで、ロッソ。あそこなら、わたしとあなた以外誰も近づかないわ」

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屋根裏の灰かぶり姫と殺人鬼 亘理てん @hadukimottin75

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