屋根裏の灰かぶり姫と殺人鬼

亘理てん

第1話 罪には罰を

 男は安宿の一室で、床に赤がしたたる様子を虚ろな目で見下ろしていた。

 きつい香水の香りが鼻につくが、実際は錆びついた鉄のような臭いの方が強烈だった。

 次いで、ベッドの上で四肢を投げ出してこと切れた人間の、いや、屍を静観する。それは女だったもの。女は娼婦だった。男を誘惑するために選んだ露出度の高い服も、くすんだ肌を隠すための厚化粧も、命が尽きた今となっては無為の産物にすぎない。

 男は片手に掴んでいたナイフから今も滴る滴を、舌先で舐めとってみた。それはただ苦かっただけだが、女と口づけた時の口紅の味よりましだった。

 血で穢れたナイフを無造作に捨て、宿に入るまで羽織っていたコートを着込む。そのまま、死体に目もくれず部屋を出た。

「あら」

 甘ったるい女の声がした。扉を開けた瞬間、栗毛の娼婦がそこに立っていたのだ。客を見送った後なのか、情事の直後なのか、纏う雰囲気が妙に艶っぽい。

 男は特に構う様子もなく、栗毛の女の横を通り過ぎようとした。

「ちょっと待ちなさいよ。お兄さん、もう少しだけ遊ばない? アタシ、あんたみたいな色男がだーいすきなの。安くしとくからさぁ」

 栗毛の娼婦が、身体にしなだれかかる。男は煩わしげに舌打ちだけをして、その身体を突き飛ばした。短い悲鳴が上がり、娼婦から罵声が飛ぶ。しかしそれでも男は振り返らずに、一直線にホテルの入口へ向かった。

 ホテルのドアに手をかけたところで、女の断末魔のような悲鳴が響き渡った。


 夜も更けた路地裏を、男は駆け抜けていく。途中で足がもつれて転びそうになるのも構わず、ただ当てもなく走り続けた。周囲には警官が鳴らしている警笛の甲高い音が響いていた。

「そこの男、止まりなさい!」

 険しい声と共に、鋭い銃声が響いて男の足が思わず止まる。目の前にはまだ暗い路地が伸びていて、今すぐ駆け出せば逃げられる。だが視線だけで足元を見ると、警官が放った威嚇射撃の銃痕が残っていた。

「そのまま両手を挙げて、ゆっくり振り向くんだ」

 男は黙って従った。緩慢な動きで両手を挙げると、くるりと後ろへ振り返り自分を足止めした警官の顔を拝む。

 威勢のいい警官はまだ若い青年だった。歳は20代前半くらいか、緊張で強張った表情にあどけなさが残っている。おそらく新米の警官だろうと踏んだ。

 新米警官は銃を構えたまま、男を鋭く睨み付ける。少しでも動揺を見せれば、男の放つ異様な空気に飲まれてしまいそうだった。

「もう逃げられないぞ。大人しく投降しろ」

 ありきたりな台詞に、男の唇が皮肉な笑みを浮かべる。向けられた銃口も鋭い視線も、男の恐怖心を呼び起こすにはいささか刺激が足りなかった。

 部屋を出るところを娼婦に見られ、警官隊に追われる羽目になったが、すべては計算の範疇だ。そしてなにより、新米警官が向ける銃口がかすかに震えていた。それはまだ人を撃ったことがない証拠だ。

 逃げ切れる。男はそう悟り、一歩、前へ足を踏み出した。かつんと革靴の音が静かな路地裏に響き渡った。

「そうだ。まっすぐこっちへこい」

 素直に従う男の様子に、新米警官は肩の力を抜く。その瞬間。

 男は膝に力を込めて、石畳の路地を蹴った。警官が気を引き締めるより早く、その横を駆け抜ける。

「ま、待てっ!!」

 とっさに銃を構え直すが、新米警官が放つ銃弾は男の頭上を掠めていく。このまま逃げ切れる、そう確信した男は路地裏を抜け、通りに出た刹那。視界の隅に、別の警官が見えた。

 その警官から放たれた銃声が、人通りのない大通りに大きく反響した。

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