第10話 転がる死体
私は再び自分の足で歩き始めた。やはり、行く当てなどなかった。
インドの街もだいぶ見慣れてきた。どこまでもどこまでも猥雑で、無秩序が常に秩序を飲み込んでいる決して見飽きることのない混沌の世界。そんな風景も当たり前に感じるようになってきていた。それに屋台のチャイを飲んでも、お腹を壊さなくなった。私は確実にインドに順応してきている。
太陽が私の真上で恐ろしいほどに照り輝いている。ギラギラとしたそのねばつくようなエネルギーに私はくらくらする。 気づくと、いつの間にか、周囲はのどかな田舎の風景になっていた。道路脇を私と同じように牛が呑気に歩いている。道もアスファルトから、むき出しの赤い土に変わっていた。
道の両側は、広大な田園風景だった。そこに日差しは強いが、のどかな乾いた風が吹き抜ける。そんな赤い熱気の中を私は歩いていく。そこにはまた違ったインドがあった。
「なんかいいかも」
時間の流れがどこかゆっくりとしていた。人ものんびりしている。牛ものほほんと通り過ぎていく。こんなインドもいい。そう思った時だった。
「誰か早く片づけろ」
突然、やかましいクラクションと共に、走りゆく車から罵声が飛んだ。
「ん?」
見ると、道路の真ん中に何かが転がっている。
「なんじゃ?」
それが次々と車にはねられぐちゃぐちゃになっていく。
「なんだ?」
私は足を止め、目を凝らした。
「あっ」
それは人間だった。多分、車に轢かれたのだろう。太った多分、女性だろう、の遺体がそこに転がっていた。
「・・・」
人の死には、少し見慣れていたはずの私もさすがにその光景には息を飲む。
「なぜ、誰もどうにかしないんですか」
ちょうど脇に立っていた小さな売店のおばちゃんに訊いてみた。
「触らぬ死体に祟りなし」
岸壁の母のようなごつい顔をしたそのおばちゃんは、そう吐き捨ているように言うと、赤い地面にぺっと大きく唾を吐いた。
「・・・」
私は言葉もなく呆然とする。ここはあまりに日本と違い過ぎる。そう、ここはやはりインドだった。
その後も、道路に横たわるその死体は、次々と容赦なく車に轢かれていく。時には牛車の牛にまで踏まれていく。死体は内臓がはみ出し、肉が真っ赤に熟れるように剥きだされていく。私の生まれ持った常識はギリギリ、ギリギリと軋み始めていた。
私は道路脇にテントを張った。私は来る日も来る日もその死体を眺め続けた。
「お前は何が楽しいのだ?」
そんな私に、売店のおばちゃんが上から睨みつけるように言う。
「・・・」
――兄の遺体は火葬場で一時間も掛からず、骨と灰だけになった。火葬場から出て来た焼き立てほやほやの兄の骨を、のび太君みたいなひょろひょろの男が、バカでかい箸でつまみ上げていった。そのことに私はなぜか妙に嫌悪と怒りを感じ腹が立った。私の大切な人の大切な一部を、お前みたいな人間に軽々しく触って欲しくなかった。
「・・・」
今日は朝からとてつもなく激しい雨が降っていた。雨粒が激しくテントを叩く。私は売店で買ったなまぬるい缶ビールを飲みながら、死体を眺め続けた。
――のび太君は、まるで何かの実演販売をするかのように、小気味よく、機械的にそれでいて営業トークのような軽快な調子でみんなの前で次々と兄の骨を拾っては骨壺に詰めていった。
死体は車に轢かれ、カラスがついばみ、野犬が食いつき、大量の蝿がたかり、徐々にその形を失っていった。
――パコっという小気味よい音と共に兄の骨は、きれいに小さな骨壷に収まった。私はそれを家までの車中、大切に膝に抱えて持ち続けた。骨壷の軽い質感を腿に感じながら、私は屈辱感に震えていた。それがのび太くんに対してのものなのか、もっと違う何かなのかは分からなかった。
それは、とてもよく晴れた暑い日だった。それだけを今も強烈に覚えている。
死体はもう干からびた肉の破片程しか残っていなかった。骨も野犬がくわえて持って行ってしまった。
「ほれ見ろ、片づいただろう」
サンサンと降り注ぐ太陽の光を背に、売店のおばちゃんが仁王立ちで勝ち誇ったようにテントからうつ伏せで死体を見つめていた私を見下ろす。私の生まれ持った常識はギリギリ、ギリギリとまた軋み始めた。
私は次の日、テントをたたみ、再び歩き始めた。
また、街の大きな幹線道路に出た。ふと見ると、幹線道路の真ん中のコンクリートの上に、何やら蠢くものがあった。よく見ると、生まれたての赤ちゃんだった。モゴモゴ、モゴモゴ、赤ちゃんはまだ生きていた。しかし、誰も見向きもしない。
また、ギリギリギリギリと私の頭の奥が鳴った。
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