第8話 死を思う
次の日、ガンジス河の河岸に行くと、やはり、あのおじいさんがいた。そして、何をするでもなくガンジス河の河面を眺めていた。私はおじいさんの傍に行った。
「おじいさんは食べ物とかどうしているの」
私はふと気になって訊いた。
「誰かが恵んでくれる」
「えっ、誰かって?」
「誰かじゃ」
「誰か・・」
「そういうことになっとるんじゃ」
「そういうこと?」
「ここはインドじゃ」
理由になっていない気がしたが、インドとはそんなものなのかと納得した。
「おじいさんは何をしていた人なの?」
私は急にこのおじいさんに興味が湧いてきた。
「わしか?」
「うん」
「わしは学者じゃ」
「えっ」
「原子物理の研究をしておった」
「めちゃくちゃすごい人じゃないですか」
「じゃが、嫌になってやめた」
「やめちゃったの」
「ああ、やめた。きれいさっぱり」
「何で?」
そんなにすごい人になったのにやめちゃうなんて、滅茶苦茶もったいない気がした。
「学者を世間では、立派な人間と思っておるかもしれんがそんなことはない」
「そうなの?」
「そうじゃ、学者はみな欲深い。出世、名誉、栄光、権力、金、そのためには何でもする。嘘も誤魔化しも改ざんだって平気でやる。汚い世界じゃ」
「へぇ~、そうなんだ。学者ってもっと理性的でちゃんとした人達のなのかと思ってた」
「全然違う。真逆じゃ」
「そうなんだ」
「結局心じゃ」
「心?」
おじいさんはゆっくりと大きく深く頷いた。
「結局心が無ければいくら小難しい概念や理屈や知識を理解できても意味はない。計算して出した答えにやさしや思いやりが無ければ結局それは人を不幸にしてしまう」
「例え一+一=二であったとしても、そこにやさしさと思いやりが無ければそれはただの数字だ。そんなただ計算だけして出した答えは人を幸せになど絶対にしない」
理屈はよく分からなかったが、おじいさんは昔を見つめるているかのように遠くガンジス河を見つめていた。
「だがそんな奴はいなかった。思いやりを持ったやさしい答えを出す奴は誰一人としていなかった。ただ学校で教わった通りに、言われたままにただ計算して答えを出す。それだけだった。やさしさも思いやりも志も理念も道徳もそこには皆無だった」
「・・・」
「そして、みんな目の前の金と利権に飲み込まれていった・・、そんなことは下らないことなのに」
おじいさんは悲しげに言った。
「人間はつまらん生き物じゃ。人間はどこまでいっても欲深い。業の深い生き物じゃ」
「原子物理をやっていてそこにいたったんですか」
「そうじゃ。結局どこにいっても人間は人間じゃ」
「学者をやめてどうしたの」
「山に籠った」
「山に?」
「そうじゃ、人間の何にもかもが嫌になって、すべてを捨てて一人山に籠って修行しておった」
「家族も全部?」
「そうじゃ。そしてわしは死期を悟った」
「そして、ここに来た」
「だから、わしは母なる河、神聖なる河、ガンジスで死のうと決めたのじゃ」
「ガンジス河ってそんなにすごいの?」
「当たり前じゃ」
「わっ」
おじいさんは目をむき出し、突然興奮して叫んだので私は驚きのけぞった。
「ガンジス河は神そのもじゃ」
「ふ~ん」
ぷかぷかとゴミと泡の浮いた河面を見ると、どうしてもそんな風には見えなかった。
「お前にも分かる日が来る」
絶対に来ないと思ったが、黙っていた。
救護院では毎日のように、たくさんの人が死んでいった。ここでは死は当たり前だった。あまりにも死が日常過ぎて、私は死というものに実感が無くなっていた。そんな自分がなんだか、怖くなる時があった。
「あれぇ~、今日もいないなぁ」
最近、シヴァを見かけなくなった。
「どうしちゃったんだろ」
いつも大抵、広場中央の木の下に行くと、そこでいつものようにシヴァは本を読んでいた。
「話がしたかったんだけどなぁ」
シヴァに話を聞いてもらいたかった。シヴァはいつも、にこやかに愚痴も含めた私の話を聞いてくれて、的確なアドバイスをくれる。
「まあ、しょうがないか」
シヴァの事だから、何か新しいことを始めたのかもしれない。だから、私はさしてそのことを気にしなかった。
「おじいさんは死ぬことは怖くないの?」
ガンジスの畔でいつものようにガンジス河を怖いくらい真剣な表情で見つめていたおじいさんに聞いてみた。
「怖くない」
「ほんと?」
「本当だ」
「でも、やっぱり本当は怖いでしょ」
「怖くない」
おじいさんの言い方には、一点の曇りも無かった。
「死は新しい人生の始まりだ」
「始まり?」
「そうじゃ」
「う~ん、私には分からないな」
「肉体を失うだけじゃ、また違う人生がまたその先にある」
「う~ん、無い気がするけど・・・」
「すべては回っておる。輪廻じゃ」
「輪廻?」
「そうじゃ、人生とはもっと大きくて壮大なものだ。今ある人生などちっぽけなものだ。すべては繋がっておる」
「う~ん」
壮大過ぎて私にはまったく分からなかった。というか実感が持てなかった。
「お前はお前という狭い世界に囚われているから、死が怖いのじゃ」
「う~ん」
私にはやっぱり分からなかった。
「今ある人生など大したものではない。大したものだと思い込んでいるだけじゃ。一吹きのつむじ風のようなものじゃ。虚しく儚い、そんなものじゃ」
「・・・」
私はなぜかその時、唯の事を思い出していた。唯もなんだか同じようなことを言っていた気がする。
最後の家にまた新しい患者入ってきた。
「あっ」
それはシヴァだった。元気だった頃の面影はなく瘦せ衰え、目には生気が無く、もはや死人のそれだった。
「エイズは薬を飲んでいれば発症しないんじゃなかったの」
「薬が高くて買えなくなってしまったの」
「どうして」
「製薬会社が、ジェネリック薬を認めない裁判を起こしたの。それで、私たちは裁判で負けてしまった」
シヴァは悲しそうに言った。
「そんな」
「でも、特許は切れているんでしょ」
「製薬会社が政治家にたくさんのお金を献金したの。それで法律が変わってしまった」
「ひどい」
「これから、もっとたくさんの人が死ぬわ。私と同じように、お金がないというただそれだけで・・」
シヴァは力なく言った。その生気の無い目は、絶望を見ているようだった。
私はそんなシヴァをベッドに横たえ、毛布を掛けてあげることしかできなかった。
私は毎日シヴァを懸命に看病した。しかし、シヴァの痩せた体は、日に日にもうこれ以上は痩せられないほどにまで、さらに痩せ衰え弱っていった。私の願いとは、関係なくシヴァの体は病魔に確実に侵されていった。
当初は笑顔も見せる日もあったが、病状が悪化するにしたがい、それもまったく見られなくなっていった。
「私、死ぬのが怖いわ」
痩せ衰え、目だけが異様に飛び出たシヴァが、その飛び出た目で私を見た。でも、私にはそんなシヴァに語れる言葉を知らなかった。多分、こんな時、シヴァだったら私に勇気の出る素晴らしい言葉をかけてくれたのだろう。
シヴァは苦しんだ。骨の髄から滲み出る切り裂くような壮絶な全身の痛み、何度も気を失うほどの呼吸困難。この世にある、人間の感じ得るありとあらゆるすべての苦しみが一気に押し寄せているかのような壮絶な苦しみ方だった。しかも、その苦しみが二十四時間絶えることなく続き、寝ることすらも出来ないそんな日々が続いた。
「シヴァ・・」
そんな苦しむシヴァの前にどうしようもないどうすることも出来ないちっぽけで無力な私がいた。そんなシヴァを見ているだけで、私は自分の身が引き裂かれ、八つ裂きにされるような思いだった。でも、私にはどうすることも出来なかった。どうしようもなかった。ただ・・、ただ・・、無力でどうしようもない、ただその場にバカみたいに突っ立っている自分がそこにいた。
「私はなんて 無力なのだろう」
そう思わない日は無かった。苦しむシヴァをただ見守るしかない自分の無力感が憎くて堪らなかった。
「神さま、助けてください」
私は懸命に神さまに祈った。今の私には祈ることしか出来なかった。
「神様・・」
しかし、私の目の前で、これ以上苦しみようのないシヴァの苦しみは、なんの慈悲も容赦もなく増していくばかりだった。
「殺して」
ある日、苦しみの中でシヴァが小さく言った。その言葉に、私の胸は張り裂けそうだった。
「シヴァ・・」
でも、私にはどうすることも出来なかった。私は無力だった。ただ無力だった・・。
「殺して・・・」
シヴァは哀願するように私を見た。
「許して」
私はシヴァのもう骨と皮だけの手を力いっぱい握りしめ、震えながらベッドの傍らで泣いた。
「許して・・」
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